第4章 第21話:水曜日の朝、雨の波紋とすれ違う距離
水曜日の朝。
昨日までの晴天が嘘のように、街にはしとしとと低い雨が降り続いていた。
オフィスビルのエントランスは、色とりどりの傘を抱えた社員たちの湿った熱気で満ちている。
俺は傘立てに自分の黒い傘を差し込み、人事部のフロアへと向かうエレベーターに乗り込んだ。
昨日の夕方、あの薄暗い非常階段の踊り場で、触れそうで触れない数センチの隙間を挟んで対峙した千歳の姿。夕日に照らされて桜色に染まっていた彼女の耳たぶの残照が、一晩明けた今も俺の脳裏に焼き付いて離れない。
胸の奥を絶え間なく揺さぶるドギマギとした精神的狂瀾を、俺はブレザーの襟を正すことでどうにか抑え込もうとしていた。
ロンドン赴任というタイムリミットが消え去り、夜の部屋でのエプロンという免罪符を完全に失った今、この日常の戦場は、一歩進むごとに二人の理性を試すような袋小路へと姿を変えている。
「――おはようございます、相馬さん。今朝の雨、結構激しいですね」
「ああ、おはよう。広報部の方も、朝からバタバタしているみたいだね」
デスクにつくと、隣の先輩社員が声をかけてきた。
視線をフロアの対角線上へと向けると、そこにはすでにデスクに向かっている千歳の姿があった。
一寸の隙もないネイビーのジャケット。知的できっちりとまとめられたハーフアップの髪。
彼女は手元の資料に鋭い視線を走らせながら、受話器を肩に挟んでテキパキとキーボードを叩いている。あの、非常階段の手すりの上で指先を数ミリだけ滑らせ、泣き出しそうな瞳で俺を見つめていた少女の面影は、オフィスの「如月さん」の鎧によって完璧に覆い隠されていた。
だが、彼女が電話を終えて受話器を置いた、まさにその瞬間だった。
千歳は手元の書類を整理するフリをしながら、ふっと、本当に自然な動作でこちらの人事部ブースへと視線を走らせた。
――交錯する、二人の視線。
雨音に遮られたオフィスのなかで、ほんの一瞬だけ、世界が静止したかのような空白が生まれる。
千歳は、俺が自分を見つめていたことに気づくと、一瞬だけキーボードを叩く指先をピタリと止めた。表情は冷徹なビジネスの仮面を維持したままでしたが、まっすぐに俺を射抜いたその大きな瞳の奥が、激しく、そして切なげにゆらゆらと揺らめいた。
さらに、ハーフアップの隙間から覗く彼女の白い耳たぶが、オフィスの無機質な蛍光灯の下で、隠しきれない綺麗な桜色に染まっていくのを、俺の目は確実にとらえていた。
彼女はすぐに視線を落とし、何事もなかったかのように次の業務へと没頭し始めた。
だが、書類をめくる彼女の指先が、微かに震えているのが遠目からでも分かった。
お互いを特別に想い合っているという絶対的な事実を抱えたまま演じる「他人のフリ」。
大義名分をすべて失ったからこそ、この何気ない日常のすれ違いが、俺たちの理性をどこまでもじれったく、熱くかき乱していく。外の雨脚が強まるのと呼応するように、二人の間の歪な混線は、静かに、だけど確実にその密度を増していた。




