第4章 第20話:火曜日の非常階段、沈黙の残照と届かない指先
夕日のオレンジ色が非常階段のコンクリートの壁を赤く染め上げ、俺たちの足元に濃い、長い影を落としていた。
「あんたがそうやって平気な顔して近づいてくるだけで、私の心臓、今にもフロア中に響くくらいの音で鳴ってるんだから」
千歳が俯いたまま、ネイビーのジャケットの裾をぎゅっと握りしめて紡いだ言葉。その細い声は、鉄扉の向こう側から聞こえる微かなオフィスの喧騒に消されてしまいそうなほど小さかったけれど、俺の耳には、どんな大声よりも鮮烈に響き渡った。
手すりに置かれた彼女の白い指先は、今もかすかに震えている。
一歩。あと一歩だけ踏み出せば、その華奢な身体を抱きしめて、その震えを俺の体温で止めてやることができる。週末の夜、あのエプロンも料理もない部屋の中でそうしたように。
だが、ここはオフィスのすぐ隣にある非常階段だ。
いつ誰がこの鉄扉を開けて、不意に階段を下りてくるか分からない。その張り詰めたリスクが、俺の足元を重く縛り付けていた。
「平気な顔なんて、してないよ」
俺は一歩を踏み出す代わりに、手すりの上に自分の手を置いた。彼女の指先から、わずか数センチしか離れていない場所。
「フロアで『如月さん』って呼ぶたびに、俺だって喉の奥がカラカラになるんだ。非常階段で待ってるってメッセージを見たとき、エレベーターを待つ時間すらもどかしくて、心臓が破裂しそうだった」
「蓮……」
千歳はゆっくりと顔を上げた。
夕日の残照をいっぱいに浴びた彼女の大きな瞳は、潤んだ膜を張ったようにきらきらと輝いていて、その奥には、オフィスでの完璧な仮面をかなぐり捨てた、剥き出しの熱情がゆらゆらと揺らめいていた。
彼女の耳たぶから首筋にかけては、夕暮れの光よりもさらに深い、鮮やかな桜色に染まっている。
千歳は、手すりの上の俺の手をじっと見つめ、それから自分の指先をほんの少しだけ、本当に数ミリだけ、俺の方へと滑らせてきた。
触れ合えば、すべてが決壊してしまう。
他人のフリも、同僚としての境界線も、すべてを焼き尽くしてしまうほどの精神的狂瀾が、触れそうで触れない二人の指先の隙間で、バチバチと音を立てて火花を散らしているようだった。
「……バカね、本当に。そんなこと、こんな場所で言わないでよ」
千歳は泣き出しそうな笑顔を不器用に浮かべ、差し出しかけた指先を、名残惜しそうにキュッと握りしめて自分の胸元へと戻した。
大義名分を完全に失ったからこそ、この触れられないオフィスの一角で、俺たちのじれったい混線は、どこまでも深く、熱く、行き場を失ったまま滞留していた。




