第4章 第19話:火曜日の夕暮れ、非常階段の短い影
17時15分。
西日がオフィスのブラインドの隙間から差し込み、フロアの床に長くて不揃いな縞模様を落としていた。
俺は他部署へ届ける書類を口実に席を立ち、フロアの奥にある、普段は誰も使わない非常階段の鉄扉を静かに開けた。ひんやりとしたコンクリートの匂いと、一段ごとに切り取られた静寂がそこにはあった。
階段を数段下りた踊り場に、先客が一人、夕暮れの街が見渡せる小さな窓に向かって立っていた。
ネイビーのジャケットをきちんと着こなし、知的にまとめられたハーフアップの髪。
広報部のエース、如月千歳だ。
彼女は手すりに両手を置き、窓の外を流れる車の列をじっと見つめていた。午前中のオフィスで、あの一瞬の視線の交錯の後に届いた「少しだけ、階段のところで」という極小のテキストメッセージが、俺をここに呼び寄せたのだ。
「千歳」
鉄扉が閉まる音と共に名前を呼ぶと、彼女の華奢な肩がビクッと跳ね上がった。
「……遅い」
振り返った千歳の大きな瞳は、夕日のオレンジ色を反射して、狂おしいほどに潤んで揺れていた。
完璧なビジネスの仮面を被っていたはずの彼女の顔は、この狭い空間に入った瞬間に、今にも決壊しそうなほど脆くひび割れている。
「悪かった。会議が少し長引いてさ」
「別に、怒ってないわよ。……ただ、フロアにいるとあんたの顔が嫌でも視界に入って、頭がおかしくなりそうだったから逃げてきただけ」
千歳はいつものようにふんす、と鼻を鳴らして強がってみせる。
だが、手すりを握りしめている彼女の白い指先は微かに震えていた。
エプロンという名の免罪符も、料理という大義名分も持たないまま、オフィスの日常のすぐ隣で「一人の男」と「一人の女」として向き合う時間。その剥き出しの現実に、彼女の耳たぶはハーフアップの隙間から覗く夕日よりも鮮やかな桜色に染まっていた。
「千歳、誰も来ないよ。大丈夫だ」
俺は半歩だけ歩み寄り、彼女との距離を縮めた。手を伸ばせば届く距離。だが、ここでは触れることはできない。
「大丈夫なわけないじゃない……。あんたがそうやって平気な顔して近づいてくるだけで、私の心臓、今にもフロア中に響くくらいの音で鳴ってるんだから」
千歳は涙を堪えるように視線を落とし、ネイビーのジャケットの裾をぎゅっと握りしめた。
大義名分をすべて失い、本当の意味で想いを通じてしまったからこそ、この触れられないオフィスでの数センチの隙間が、途方もなくじれったく、そして熱い。安全な逃げ道を完全に失った俺たちの精神的狂瀾は、薄暗い非常階段の中で、どこまでも深く混線し続けていた。




