第4章 第18話:火曜日の憂鬱、デスク越しの視線と乾いた書類
火曜日の午前10時。
昨夜、部屋の中で肩を寄せ合い、重なり合う手のひらから互いの体温を分け合ったあの濃密な時間から、わずか十数時間。
俺は再び、人事部の無機質なデスクへと引き戻されていた。
目の前にあるのは、来期に向けた各部署の評価シートと、乾いたフォントで埋め尽くされた社内回覧用の書類。
指先を走らせてキーボードを叩く日常の業務は、終わりの決まっていたあの「ロンドン赴任」のカウントダウン時よりも、ある種の手慣れた落ち着きを見せている。だが、俺の胸の奥で燻り続けるドギマギとした精神的狂瀾は、昨日よりもさらにその濃度を増していた。
(……昨夜の、あの手のひらの熱が、まだ消えない)
書類の文字を追うフリをしながら、俺の視線はどうしても、フロアの対角線上にある広報部のブースへと吸い寄せられてしまう。
そこには、一寸の隙もないネイビーのジャケットを羽織り、知的にまとめられたハーフアップの髪を揺らす千歳の姿があった。
彼女は今、他部署の課長からの熱心な説明に、完璧な「広報部の如月さん」として、凛としたビジネススマイルを浮かべて耳を傾けている。あの、部屋の薄明かりの中でサマーニットの裾をぎゅっと握りしめ、耳たぶを真っ赤に染めて「あんたの体温ばっかり求めて……」と泣きそうになっていた少女の面影は、このフロアのどこにも見当たらない。
だが、他部署の課長が説明を終えて背を向け、千歳が一人でデスクに向き直った、その刹那だった。
彼女の大きな瞳が、ふっと泳ぐようにして、こちらの人事部ブースへと向けられた。
――交錯する、二人の視線。
ほんの一瞬、秒針が一度カチリと進むほどの、極小の空白。
千歳は、俺が自分を見つめていたことに気づくと、一瞬だけビクッとその華奢な肩を揺らした。表情こそ完璧なビジネスの仮面のままで崩さなかったが、まっすぐに俺を射抜いたその瞳の奥が、激しく、そして切なげにゆらゆらと揺らめいた。
さらに、ハーフアップの髪の隙間から覗く彼女の小さな耳たぶが、オフィスの白い蛍光灯の下で、隠しきれない綺麗な桜色に染まっていくのを、俺の目ははっきりと捉えていた。
千歳はすぐに視線を落とし、手元のPC画面へと没頭するフリを始めた。
だが、そのタイピングの速度が、いつもより明らかに乱れて速くなっている。
大義名分をすべて失い、お互いを特別に想い合っているという事実を知ってしまったからこそ、この「徹底された他人のフリ」は、内側から溶け出す熱量でもう限界を迎えつつあった。誰もがただの日常として通り過ぎていくオフィスの中で、俺たちの歪な混線は、じりじりとそのボルテージを上げていた。




