第4章 第16話:月曜日の夜、名前のない椅子の体温
「本当に、変な感じね。……料理もしないのに、私、何しにここに来てるんだろ」
千歳がローテーブルの端を見つめたまま、消え入りそうな声で呟いた。
その言葉の余韻が、料理の音も湯気もない静まり返ったリビングに、ひどく鮮烈に染み渡っていく。
いつもならキッチンでフライパンを揺らし、「味付けの黄金比はね……」と得意げに胸を張っていた。淡いピンク色のエプロンは、彼女にとって俺の部屋に上がり込むための、そして「ただの幼馴染」という安全圏に踏みとどまるための、最も頑丈な盾だったのだ。
その盾を自ら外して、千歳は俺のすぐ隣に座っている。
「何しにって……お前がここにいたいからだろ。俺も、お前にいてほしいし」
俺は少し掠れた声で応じ、彼女の視線の先にあるローテーブルに、ゆっくりと自分の手を置いた。
「……バカ。そんなこと、真っ直ぐな顔して言わないでよ」
千歳はビクッと肩を揺らし、ハーフアップの髪を小さく揺らしてそっぽを向いた。
だけど、向けられた横顔の、耳たぶから華奢な首筋にかけてが、部屋の薄明かりの中で隠しきれない鮮やかな桜色に染まっていくのを、俺の目ははっきりと捉えていた。
大義名分を失い、お互いを特別に想い合っているという事実を曝け出してしまったからこそ、ただ同じ空間に並んで座っているだけで、ドギマギとした激しい精神的狂瀾が理性をじりじりと焦がしていく。
昼間のオフィスの戦場で、完璧に崩壊しかけている「他人のフリ」を演じきった反動だろうか。
カバンを床に置いたまま、サマーニットの裾をぎゅっと握りしめている彼女の指先が、微かに震えている。
「ねえ、蓮……」
千歳は頑なにこちらを向かないまま、だけど繋ぎ止めるようにぽつりと言った。
「明日からの会社、私、やっぱり自信ないよ。相馬さんと如月さん、ただの同僚のフリをしなきゃいけないのに、頭の中があんたの体温ばっかり求めて、まともに業務連絡もできなくなりそう……」
ゆっくりとこちらを振り向いた千歳の大きな瞳は、涙を堪えたように狂おしいほど潤んで揺れていた。
安全な仮面をすべて失い、新しい距離感の名前を測りかねて立ち往生しながらも、俺たちの距離は、誰も来ないこの夜の部屋の中で、どこまでもじれったく、濃密に混線し続けていた。




