第4章 第15話:月曜日の夜、いつものドアの前で
駅前の薄暗い街灯の下から、俺と千歳は、数歩分の距離を保ったまま静かに歩き続けた。
街を行き交う人々の喧騒が遠ざかり、見慣れた路地裏に入ると、街灯に照らされた二人の影が、アスファルトの上で伸びたり縮んだりしながら寄り添うように並ぶ。
お互いに何も言葉を発していない。
だけど、並んで歩く歩調のシンクロ率が、そして時折、夜風に揺れて俺の腕にかすめる彼女のブラウスの袖が、俺の胸の奥のドギマギとした精神的狂瀾をどこまでも肥大化させていく。
やがて、俺のアパートの階段を上り、いつものドアの前に辿り着いた。
鍵をシリンダーに差し込み、ガチャリと回す音が、静まり返った廊下に妙に大きく響く。
「……入って」
「うん……お邪魔します」
ドアを開け、部屋の明かりをつけると、無機質なリビングがいつも通りの姿で俺たちを迎えた。
だけど、今夜のこの部屋には、これまでの月曜日には必ずあったはずの「あるもの」が致命的に欠落している。
――スパイシーな香辛料の残り香も、中華鍋を叩くような賑やかな音も、ここにはない。
そして、千歳がカバンから取り出すはずの、あの淡いピンク色のエプロンも。
「海外生活のための自炊訓練」という、二人がこの部屋に集まるための唯一の大義名分は、完全に粉砕されて消滅した。料理を教える名目なんてどこにもないのに、千歳は当たり前のように俺の部屋の玄関でパンプスを脱ぎ、リビングのローテーブルの前に座っている。
千歳はサマーニットの裾を少し整え、膝の上で細い指先をぎゅっと絡ませた。
いつもなら「ほら蓮! さっさと手を洗ってきなさい!」と生意気に指示を出してくるはずの彼女が、エプロンという名の防壁を失った途端、借りてきた猫のように小さくなっている。
「あのさ、蓮……」
千歳は俯いたまま、髪の隙間から覗く耳たぶを、隠しきれない鮮やかな桜色に染めてぽつりと言った。
「本当に、変な感じね。……料理もしないのに、私、何しにここに来てるんだろ」
ゆっくりと顔を上げた彼女の大きな瞳は、部屋の照明を反射して、狂おしいほどに潤んで揺れていた。
昼間のオフィスで見せた完璧な他人のフリ、給湯室での触れられない距離の焦燥、そして夜の部屋に二人きりという剥き出しの現実。
安全な仮面をすべて失ってしまったからこそ、ただ同じ空間に座っているだけで、二人の理性がじりじりと焦げ付くように熱を帯びていく。
タイムリミットの消え去った世界で、俺たちは新しい関係の答えを出せないまま、ただじれったく、モラトリアムの袋小路の奥深くへと迷い込み続けていた。




