第4章 第14話:月曜日の退社時刻、薄闇の改札口
18時30分。
オフィスのフロアに、定時を告げる無機質なチャイムの音が響き渡った。
俺はPCのシャットダウン処理を実行し、デスクの上の書類を引き出しへと格納する。周囲では、日常の業務を終えた社員たちが一斉に帰宅の準備を始めていた。
広報部のブースに目を向けると、千歳はすでにネイビーのジャケットを羽織り、バッグを肩にかけて席を立とうとしているところだった。
視線が交錯する――ほんの一瞬だけ。
だが、その大きな瞳の奥に宿る、昼間の給湯室での精神的狂瀾の残照を、俺の目ははっきりと捉えていた。彼女はすぐにいつもの完璧なビジネススマイルで周囲の同僚に一礼し、カツカツとヒールの音を響かせてエレベーターホールへと消えていった。
(……他人のフリ、か)
俺も数分遅れてオフィスを後にし、夕闇に包まれ始めた街へと歩き出す。
駅へと向かう通勤客の雑踏のなか、頭の中を占領しているのは、給湯室で触れられない数センチの距離を挟んで対峙した千歳の、真っ赤に染まった耳たぶの温もりだった。
地元の駅の改札口を抜けたのは、19時半を回った頃だった。
駅前広場の片隅、薄暗い街灯の光が届くか届かないかの場所に、見慣れたシルエットが佇んでいる。
「……遅い」
ぽつりと溢された声に、俺は思わず足を止めた。
千歳だった。オフィスのハーフアップの髪は少しだけ崩され、肩の上で艶やかな黒髪が夜風に揺れている。彼女はバッグのストラップを両手で固く握りしめたまま、潤んだ大きな瞳で真っ直ぐに俺を見つめていた。
「千歳、待っててくれたのか」
「別に、待ってたわけじゃないわよ。……ただ、足が勝手に止まっちゃっただけ」
彼女はいつものようにふんす、と鼻を鳴らして強がってみせる。
だが、その細い指先が、バッグを握る手にどれほど力が込められているか。
大義名分をすべて失い、料理を作るエプロンすら持たないまま、こうしてオフィスの外で「一人の男」と「一人の女」として待ち合わせる日常。
その事実に、千歳の胸の奥でもドギマギとした激しい感情が暴れ狂っているのが、隠しきれない頬の桜色から痛いほど伝わってきた。
安全な「幼馴染の男友達」という防壁が粉々に砕け散った街の片隅で、俺たちは互いの新しい名前を測りかねたまま、ただじれったく夜の帳の中に立ち往生していた。




