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第48話:幼き日の幸福、あるいは大公の転倒


 謁見の間に、ただ「紙を削る音」だけが響いていた。

 カツミ(北斎)の筆は、レオの構造を、メアリの光を、ヴィンの情熱を、そしてお栄から受け継いだ江戸の泥臭さを吸い込み、人知を超えた速度で躍動していた。

 検閲官たちは「どうせ死に際の悪あがきだ」と嘲笑い、大公は無表情にその手元を見下ろしている。

 だが、描き終えたカツミが「 にゃはは! できたわい!! 」と叫び、羊皮紙を大公の目の前に叩きつけた瞬間、世界の「正解」が音を立てて崩れ去った。

「……これは……何だ」

 大公の眉がピクリと跳ねた。

 そこに描かれていたのは、荘厳な神話でも、国家を讃える叙事詩でもなかった。

 それは、『泥まみれのチビ大公と、逃げ出した子猫の大乱闘』。

 幼き日の大公が、威厳もクソもなく鼻水を垂らし、子猫を追いかけて肥溜めに突っ込み、「ふみゅうぅ」と情けない顔で泣きべそをかいている――あまりにも下俗で、あまりにも愛おしい、数枚の連続した「ギャグ漫画」だった。

「……貴様。我が過去を、これほどまでに愚弄するか……」

 大公の声が低く響く。検閲官たちが「不敬罪だ! 即刻処刑せよ!」と勝ち誇ったように叫び、レオやメアリが息を呑んだその時――。

「……ぶっ。……ふ、ふふっ……あははははは!!」

 凍りついていた空気を切り裂いたのは、大公自身の、腹の底からの爆笑だった。

「……あはは! そうだ、あの日、私は確かにあの猫に負けたのだ! 泥を啜り、無様に泣き……だが、あの瞬間の私は、今の私よりもずっと、自由で満たされていた……!」

 大公は椅子から転げ落ちんばかりに笑い、目尻に涙を浮かべていた。

 完璧な秩序、冷徹な法、芸術の管理。それらすべてを積み上げ、自分を「神」に仕立て上げていた大公の仮面が、カツミの描いた「くだらない笑い」によって、完膚なきまでに粉砕されたのだ。

「カツミよ。……貴殿の勝気な一線は、我が心に厚く積もった『退屈』という名の雪を、一瞬で溶かしてしまった。……笑うとは、これほどまでに心が軽くなる儀式だったか」

 大公がゆっくりと立ち上がる。その瞳には、もはや圧制者の冷たさはなかった。

「――判決を下す。葛飾カツミの漫画は、毒ではない。民の心を潤す『光』である。検閲塔は今日を以て解体し、これからは芸術を縛るのではなく、その多様性を保護する『アーカイブ(国立図書館)』へと再編せよ!!」

「 ふ、ふみゅうぅ……っ!! やった、やったわい!!」

 カツミが万歳をして飛び跳ねる。

 検閲官たちが腰を抜かし、お栄が「へっ、親父の馬鹿力がついに王様までひっくり返しやがった」と鼻を啜る。

 そして、ずっと震えていたレオとメアリが、崩れ落ちるように膝をついた。

「……演算終了。……ありえないわ。笑い一つで、国家の構造アーキテクチャを書き換えてしまうなんて……。カツミ、あなたは……本当に最高の『バグ』ね」

「……そう。……影は消え、光が戻ったわ。……カツミ。……あなたの描いた泥だらけの笑顔、私、一生忘れないわ……」

「カツミさぁぁぁん!! 太陽が! 太陽が昇りましたぁぁぁ!!」

 ヴィンがカツミに飛びつき、そのまま彼女を抱き上げてぐるぐると回る。

 王都の冷たい謁見の間は、今やリベルタの酒場のような、騒がしくも温かな「粋」の渦に包まれていた。

 漫画という名の自由が、ついに世界を救った瞬間だった。


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