第44話:伝説の産声、あるいはリベルタ・パニック
その日、自由都市リベルタの経済は、文字通り「停止」した。
パレットハウスの前に形成された行列は、中央広場を三周半し、ついには運河を越えて隣の区画まで伸びたのである。
「……演算終了。群衆の密度、および興奮指数が予測値を300パーセント上回っているわ。……パブロ、これはもはや販売会ではなく、暴動よ」
レオ(ダ・ヴィンチ)がアトリエの二階から階下を見下ろし、銀色の指先で防衛魔法の出力を調整する。だが、その隣でパブロ(ピカソ)は、押し寄せる金貨の音を聴きながら、不敵な笑みを浮かべていた。
「いいじゃない。リベルタの連中が、今日という日を歴史に刻もうとしている証拠よ。……さあ、世界で最初の『単行本』を解き放ちなさい!!」
開店の合図と共に、街中に「笑い」と「衝撃」が爆発した。
パン屋のルーシーは、窯の火を見るのを忘れてページを捲り、騎士団の非番の兵士は、酒場に行くのも忘れて路地裏で本を抱えて咽び泣いた。
子供たちは「波の描き直し」のページを見て「カツミ先生、格好良すぎるよ!」と叫び、老婆たちはギャグシーンで入れ歯を飛ばして笑い転げた。
「にゃ、にゃはは……。わしの本が、あんなに飛ぶように売れていく……。……これ、現実ではないよなえ?」
カツミ(北斎)はアトリエの奥で、殺到するサイン希望の波に揉まれ、「 ふ、ふみゅうぅ……っ!! 」と悲鳴を上げながらも、その瞳にはかつて江戸の町で感じた以上の高揚感が宿っていた。
「……そうね。……光が、街中に散らばっていく。……カツミ。……見て。……あなたが創り出した物語が、リベルタの影を塗り替えていくわ」
メアリ(フェルメール)が、自分の「読者用」の特装本を大切に抱えながら、窓の外の光景を優しく見守る。彼女の目には、本を手にした人々の顔が、どの名画よりも美しく輝いて見えていた。
「あぅぅ! カツミさんの愛が、リベルタを飲み込んでしまいましたっ!! 私も負けてられません! この本を買ってくれた人全員に、私の向日葵のようなハグを……!!」
「ヴィン! おぬしが混ざると収拾がつかなくなるわい!!」
だが、この熱狂は、一都市の流行では済まなかった。
リベルタに潜伏していた各国のスパイや行商人たちが、この「新しい魔法の巻物(漫画)」を王都へと持ち帰ったのである。
夕暮れ。リベルタの城門を一台の黒塗りの馬車が通り抜けた。
その中には、カツミの単行本第1巻が、厳重な封印と共に置かれている。
「……葛飾カツミ。……この『漫画』なるものが、民の心をこれほどまでに揺さぶるとはな」
馬車の中で本を閉じたのは、王都の調査官だった。彼の表情には、驚嘆と、そして隠しきれない「危惧」が混ざっていた。
芸術を、娯楽を、そして民の感情を支配してきた王都の「秩序」にとって、カツミの奔放な一線は、あまりにも強力な毒であり、薬だった。
夜。お祭り騒ぎが終わったパレットハウスで、カツミはお姉さんたちに囲まれて泥のように眠っていた。
「お疲れ様、マエストロ。……あなたの『一巻』は、世界を動かしたわ。……でも、それは同時に、大きな嵐を呼び寄せたことも意味するけれど」
レオが、眠るカツミの銀髪を優しく整えながら、暗い夜空を見上げる。
王都。大公。そして検閲塔の本拠。
リベルタの熱狂は、ついに巨大な権威の耳に届いた。
「 ふ、ふみゅうぅ……。 まだ描き……足りぬわい……」
寝言でそう呟くカツミ。
明日から始まるのは、もはやリベルタの中だけの物語ではない。
「漫画」という武器を手に、カツミと四人の巨匠たちは、世界の中心へと足を踏み入れることになる。
(つづく)




