第42話:メアリの涙、あるいは最初の読者
ガチャン、と重厚な機械音が止まった。
徹夜作業の末、パレットハウスの床に積み上げられたのは、厚手の紙で綴じられ、カツミ(北斎)の鮮やかな表紙で包まれた一冊の「塊」。リベルタ、ひいてはこの世界で初めて誕生した単行本第1巻の試作1号である。
「……完成ね。……演算によれば、製本の強度は十分、インクの定着率も誤差0.02パーセント以内。……完璧な、情報のパッケージだわ」
レオ(ダ・ヴィンチ)が疲労を見せず、冷徹に品質を検品する。ヴィン(ゴッホ)は「カツミさんの分身がいっぱいですぅぅ!」と本を抱きしめて涙ぐんでいる。
そんな喧騒の中、メアリ(フェルメール)だけが、吸い寄せられるようにその一冊を手に取り、アトリエの隅、光と影が最も美しく交差する特等席へと静かに消えていった。
一時間。アトリエに奇妙な静寂が訪れた。
カツミは「 ふ、ふみゅうぅ……。 メアリの奴、寝てしまったのかえ?」と首を傾げながら、彼女の様子を見に行った。
メアリは、膝の上に置いた本を、食い入るように見つめていた。
彼女の指は、絵の「技法」をなぞっているのではない。物語の「先」を求めて、震える手でページを捲っているのだ。
「……にゃはは。メアリ、そんなに熱心に見て……」
カツミが声をかけようとした瞬間、言葉が止まった。
メアリの、あの真珠の耳飾りが揺れる横顔を、一筋の雫が伝い落ちたからだ。
「……っ。……あは……ふふっ……」
メアリは、カツミが描いた下俗なギャグシーンで小さく吹き出し、その直後、登場人物たちが不器用に心を通わせる一コマで、堪えきれずに嗚咽を漏らした。
それは、これまでカツミを「最高の被写体」として、冷徹なまでに美しく観察し、描いてきた巨匠・メアリの姿ではなかった。
ただの、一人の**「読者」**だった。
「……メアリよ。おぬし、泣いておるのかえ?」
カツミの問いに、メアリは弾かれたように顔を上げた。その瞳は潤み、頬は林檎のように赤らんでいる。
「……っ! ……見ないで。……これは、その……インクの匂いが目に染みただけよ……」
メアリは激しく狼狽え、大切な宝物を隠すように本を抱きしめた。
「……でも、カツミ。……不思議ね。……私はあなたの『光』を、ずっと近くで見てきたはずなのに。……紙に閉じ込められたこの黒い線が、どうしてこんなに、私の心を揺さぶるの……?」
「……メアリ……」
「……この物語の中にいる人たちは、不完全で、馬鹿げていて、影だらけ。……なのに、どうしてこんなに愛おしいのかしら。……カツミ。……私、あなたの絵を描きたいんじゃなくて……あなたの『続き』が読みたくて、堪らないの」
メアリのその言葉は、レオの絶賛よりも、パブロの売上予測よりも、重くカツミの胸に響いた。
カツミは、自分の手が小さく震えているのに気づいた。
「……にゃはは。……そうかえ。……おぬしを、そんな顔にさせてしまったかえ……」
メアリの涙。
それは、カツミがリベルタに来てから積み上げてきた一線一線が、ついに「芸術」という壁を突き破り、誰かの「魂の救い」になった証明だった。
カツミは、メアリに抱きしめられた本を見つめ、決然と立ち上がった。
「パブロ! レオ! おぬしたち、この本はまだ未完成じゃ!!」
「 ふ、ふみゅうぅ!? 何を言い出すの、カツミ! 印刷は終わったわよ!」
「いや、足りぬ! 第1話じゃ! ……わしは、今のわしの全霊を込めて、第1話をもう一度描き直さねばならぬわい!!」
メアリの涙が、カツミの中に眠っていた真の画狂の火を灯した。
あの日、路地裏で「波」を描いた無名の絵師は、今、一人の読者のために、運命の筆を再び握り直そうとしていた。
(つづく)




