第38話:照れ隠しのふみゅうぅ、あるいは空白の黄金比
昨夜の、あの出来過ぎた「降伏」が夢であってくれれば良かった。
翌朝、カツミ(北斎)はアトリエの朝食テーブルで、震える手で餡餅を掴んでいた。向かい側に座るレオ(ダ・ヴィンチ)が、以前の「観察」よりも数倍も密度が高い、熱に浮かされたような眼差しで自分を見つめているからだ。
「……カツミ。今のあなたの、咀嚼による顎のラインの動き。……ああ、やっぱり計算では導き出せない生命の躍動があるわ。……美しい……。もう一口、食べてくれないかしら」
「 ふ、ふみゅうぅ……っ!! 」
カツミは餡餅を喉に詰まらせかけ、顔を真っ赤にして横を向いた。
「レオよ! おぬし、昨日からなんなのじゃ! 黄金比はどうした! 数式はどうした! 黙ってわしを見つめるな、落ち着いて飯が食えぬわい!!」
「……演算? そんなものはもう捨てたわ。今の私の興味は、あなたの魂が発する『ノイズ』そのもの。……さあ、照れなくていいのよ。あなたのその赤らんだ頬の彩度、私の記憶に一生刻み込みたいのだから……」
アトリエ内に漂う「ぎこちない熱気」に、他の巨匠たちが黙っているはずもなかった。
「……ちょっと、レオ。……距離が近すぎるわ。……カツミが窒息しているじゃない。……カツミ。……こっちへいらっしゃい。……レオのギラついた視線から、私の影で守ってあげる……」
メアリ(フェルメール)が、カツミを背後から抱き寄せ、その首筋に冷たい鼻先を寄せる。だが、守っている本人の瞳も、どこか昨日とは違う「熱」を帯びていた。
「あぅぅ! レオさんがズルいのはいつものことですけど、今日のは一段とタチが悪いです! カツミさぁぁん、私の情熱でレオさんの邪念を焼き払いましょう!! さあ、ぎゅーっとしますよ!!」
ヴィン(ゴッホ)が反対側からカツミの腰に抱きつき、三方向からの「過剰な愛」の重圧で、カツミの脳内はゲシュタルト崩壊を起こし始めていた。
「 はわわわわ!! 近い、近いわぁぁ!! おぬしたち、昨日のレオの告白(?)から、なんだか拍車がかかっておらぬかえ!? わしをどうするつもりじゃ!!」
「どうもこうもないわ。……カツミ、あんたが『マエストロ』として覚醒した証拠よ」
パブロ(ピカソ)が、朝食の残りを片付けながら不敵に笑う。
「……あんたの線に当てられて、レオのタガが外れたのよ。これからは、冷徹な科学者じゃなくて、一人の『狂った信者』に追われる生活を覚悟しなさい。……ま、面白い画が撮れそうだけど」
その日は一日、仕事にならなかった。
カツミが筆を執れば、レオが横で「その手首の角度、命の輝きが溢れているわ……」と溜息をつく。
カツミが欠伸をすれば、メアリが「……その無防備な隙間、真珠の光で埋め尽くしたい……」と画材を準備する。
カツミが困って「ふみゅう」と鳴けば、ヴィンが「可愛いすぎますぅぅ!!」と叫んで床を転げ回る。
「 にゃはは……。 ……もう嫌じゃ。……わし、山を降りる。一人で描く……!」
カツミは顔を真っ赤にしたまま、スケッチブックを抱えてアトリエの廊下を全力で走った。
だが、今のレオに「隠密」は通用しない。
「無駄よ、カツミ。あなたの心音のパターン、私の全細胞が記憶しているのだから。……さあ、どこまで逃げられるか試してみましょうか。……ふふ、あははは!!」
「 ふ、ふみゅうぅぅぅ!! レオが壊れた! 誰か助けてくれぇぇ!! 」
山頂の邸宅に、カツミの悲鳴と、お姉さんたちの歓喜の足音が響き渡る。
レオの「降伏」は、パレットハウスの秩序を破壊し、カツミをさらに逃げ場のない「愛の要塞」へと閉じ込めていくのだった。
(つづく)




