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第37話:レオの降伏、あるいは計算外の鼓動


 山の静寂は、時として音よりも饒舌だ。

 レオ(ダ・ヴィンチ)の魔導センサーが、アトリエ内の酸素濃度、温度、そしてカツミ(北斎)の呼吸数をミリ単位で管理するなか、カツミはある「実験」を密かに完成させていた。

「レオよ。おぬし、わしのバイタル(生命維持)ばかり見ておるが……たまには、おぬし自身の『音』を聴いたことがあるかえ?」

「……唐突ね。私の心拍数は常に一定、黄金比に基づいた理想的なリズムを刻んでいるわ。計算の必要さえない」

 レオが銀色の指先で空中に数式を並べ、冷徹に言い放つ。だが、カツミは「 にゃはは! 」と不敵に笑うと、一束の原稿をレオの鼻先に突きつけた。

「……これは、何?」

 レオの瞳が、原稿の上の「線」に吸い寄せられる。

 そこには、いつものギャグ漫画ではなく、パレットハウスの「夜」が描かれていた。

計算に没頭するあまり、無意識に銀髪を指で巻くレオの癖。

カツミの寝顔を見守るメアリが、一瞬だけ漏らす吐息の「揺らぎ」。

カツミを抱きしめるヴィンの、情熱ゆえに早まる不規則な鼓動。

 カツミは、レオたちが完璧に隠しているつもりだった**「計算外の綻び」**を、墨の一線に変換して紙の上に定着させていた。

「……ありえないわ。この構図、パースは狂っているのに、なぜか……私の網膜が『正しい』と叫んでいる。……心臓の音が、このインクの滲みから聞こえてくる……」

 レオは震える指で、自分が描かれたページをなぞった。

 彼女が信奉してきた「幾何学的な美」の極北。そのさらに外側にある、剥き出しの生命。

「……演算不能。……私の数式では、この線の魅力を説明できない。……カツミ、あなたは……」

「にゃはは! レオ、おぬしは『正解』ばかり探しておるが、人間は、正解でない部分こそが粋なのじゃわい!!」

 レオは、静かに眼鏡を外した。その瞳には、敗北感ではなく、渇望していた真理に触れた者の「悦び」が滲んでいた。

「……降参よ、マエストロ。……私は世界を測る物差しを持っていたけれど、あなたはその物差し自体を、新しい宇宙(物語)に変えてしまったのね」


 レオが、ゆっくりとカツミの前に膝を折った。

 それは、合理性が芸術に、計算が命に屈した歴史的な瞬間だった。

「……計算できないわ。でも、これこそが私が、この生涯をかけて見たかった『美しいエラー』なのね。……カツミ。……今日から私は、あなたの健康管理責任者ドクターであることをやめるわ」

「 ふ、ふみゅうぅ……っ!? 本当かえ! やったわい、自由じゃぁ!!」

「いいえ。……今日から私は、あなたの『第一の信徒フォロワー』になるわ。……さあ、命の根源であるあなたの細胞一つ一つを、今まで以上の精度で、魂ごと『フルメンテナンス』してあげる」

「 はわわわわ!! 余計に重くなったではないかえ!! 」

「……ふぅ。……結局……こうなるのじゃな……」

 翌朝。レオの「降伏」によって、カツミの扱いはさらに過保護なものへと進化した。

 レオはカツミの隣に座り、彼女が線を引くたびに「今の線の周波数は、私の魂を528ヘルツで共鳴させたわ……」と、うっとりしながら記録している。

「……レオ、気持ち悪いわよ。……計算を捨てたレオなんて、ただの『ストーカー』じゃない」

 パブロ(ピカソ)が呆れたようにコーヒーを啜る。メアリ(フェルメール)とヴィン(ゴッホ)も、「レオだけズルい!」とカツミの左右を陣取り、アトリエはいつも以上の熱気に包まれていた。

「 ふ、ふみゅうぅ……。 ……まあ、レオの顔が晴れやかになったのは、悪くないわい……」

 カツミは、レオの膝の上で「計算外の愛」を全身に浴びながら、次のページの構想を練り始めた。

 山頂の邸宅は、今や要塞ではなく、一人の天才を囲む「聖域」へと変わりつつあった。

(つづく)


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