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第36話:パブロのスケッチブック、あるいは青の時代の遺物


 月明かりさえもレオの魔導レンズで「読書に最適なルクス」に調整された、静寂すぎる山の夜。

 カツミ(北斎)は、全自動チェアーの拘束を「江戸の軽業」で潜り抜け、アトリエの最深部――普段はパブロ(ピカソ)が帳簿や契約書を管理している禁域へと忍び込んでいた。

「にゃはは。パブロの奴、いつもわしたちに『売れる絵を描け』と口やかましいが、あやつの机の奥にはどんなおネタが隠れておるかのう……」

 カツミが指先で探り当てたのは、分厚い金庫ではなく、埃を被った一冊の古びたスケッチブックだった。

 表紙を捲った瞬間、カツミの紅い瞳が、驚愕で見開かれた。

「……何をしているの。カツミ」

 背後から、凍りつくような冷たい声。

 パブロが、パレットナイフを弄びながら影の中に立っていた。その瞳は、いつもの冷静な編集長のそれではなく、剥き出しの刃のような鋭さを帯びている。

「……見たわね」

「……パブロよ。これ、おぬしが描いたのかえ?」

 スケッチブックに描かれていたのは、今リベルタで流行っている「粋」な絵でも、レオの「美」でもない。

 歪んだ顔、重なり合う視点、青一色で塗り潰された絶望的なまでの孤独――それは、世界のカタチを一度破壊し、再構築しようとする、あまりにも凶暴な**「破壊者の魂」**の記録だった。

「……昔の話よ。私は、自分の描きたいものがこの世界には早すぎると悟った。だから筆を折り、あんたたちのような『本物』を売り出す側に回ったの。……芸術を守るには、数字と権力が必要なのよ」

 パブロは自嘲気味に鼻を鳴らし、スケッチブックを取り上げようとした。

 だが、カツミはその手を「 ふみゅうぅ……っ!! 」と叫びながら、強く、強く掴んで離さなかった。

「……馬鹿を申すな。筆を折っただと? 嘘をつけい!!」

「カツミ……?」

「この線の震え、この色の濁り……! これを描いた魂が、死んでおるわけがなかろうが!! おぬし、わしたちを『売る』ことで、自分のなかのこの化物を、無理やり檻に閉じ込めておるだけではないかえ!!」

 カツミは、パブロのスケッチブックを奪い取ると、自分の愛筆を墨壺に叩き込んだ。

 レオもメアリもヴィンも寝静まった深夜のアトリエ。カツミは、パブロの「破壊」のスケッチを隣に置き、猛烈な勢いで筆を走らせ始めた。

「――おぬしが世界を壊すなら、わしはその破片を拾って、新しい『物語』にしてやるわい!!」

 カツミが描いたのは、パブロの青い絵の中に住む、孤独な道化師の物語。

 パブロの歪んだ線が、カツミの「粋」な墨線と重なり、漫画という表現のなかで初めて、その「凶暴な美しさ」に意味が与えられていく。

 数時間後。描き上げられた原稿を、パブロは震える指で受け取った。

 そこには、冷徹なプロデューサーではなく、一人の情熱的な表現者としての「パブロ」が、カツミの圧倒的な敬意とともに描かれていた。

「……ふっ。……あはは……。……参ったわね。……あんたにそんな目をされたら、また、筆を持ちたくなってしまうじゃない」

 パブロの瞳に、長年忘れていた「青い炎」が宿る。

 彼女はカツミの頭を乱暴に、しかし誰よりも優しく撫でた。

「……にゃはは。……パブロの笑顔、やっと写生できたぞえ……」

 夜明け。力尽きたカツミは、パブロの机の上で泥のように眠りについた。

「……演算終了。カツミ、深夜の無断行動およびパブロとの密会……。これは看過できないエラーだわ。さあ、冷え切った身体を私の『黄金比温熱ハグ』で再起動させなさい」

「……そうね。……パブロの匂いがついているわ。……私が、真珠の光で完璧に『消毒』してあげる……」

「カツミさぁぁぁん!! パブロさんだけズルいですぅぅ!! 私とも秘密のスケッチしてくださいぃぃっ!!」

「 ふ、ふみゅうぅ……。 ……朝から……いつもの……これかえ……」

 パブロは、いつもの冷徹な編集長の仮面を被り直し、新刊の売り上げ予測を立て始めた。

 だが、その机の引き出しのなか。

 古びたスケッチブックの隣には、カツミから贈られた新しい真っ白な画用紙と、一本のパレットナイフが、誇らしげに並んでいた。

(つづく)


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