第31話:江戸の毒、リベルタの華
お栄(応為)がパレットハウスに現れてから三日。アトリエの空気は、かつてないほどに張り詰めていた。
お栄はカツミ(北斎)の横に陣取り、彼女がペンを走らせるたびに、「チッ」と大きな舌打ちを漏らすのである。
「……なんだい、そのトーンの使い方は。光と影をシールでペタペタ貼って、それで絵を描いた気になってんのかい? 親父、江戸にいた頃は墨の濃淡だけで夜の闇を表現してたじゃねぇか」
「 ふ、ふみゅうぅ……っ!! おぬしは昔のことばかり……っ! これはリベルタの技術じゃわい!」
「……演算終了。その指摘は、現代の印刷技術と普及速度を無視した、非効率な精神論だわ」
レオ(ダ・ヴィンチ)が銀色の指先をパチンと鳴らし、カツミとお栄の間に割って入る。その瞳には、大切なマエストロを「否定」されることへの静かな怒りが宿っていた。
「……あなたの言う『墨』。……確かに美しいけれど、それは孤独な芸術だわ。……今のカツミの線には、私たちの光が混ざっている。……それが、この街の希望になっているのよ」
メアリ(フェルメール)がカツミの肩に手を置き、お栄を冷たく見据える。
「あぅぅ! 伝統なんて関係ありません! カツミさんが今、楽しそうに描いている。それが一番の正義ですぅぅ!!」
ヴィン(ゴッホ)が今にもお栄に飛びかからんばかりの熱量で叫ぶ。
お栄は鼻を鳴らすと、カツミの襟首をひょいと掴んで引き寄せた。
「けっ、仲良しこよしだねぇ。……いいかい親父。絵描きってのは、最後は一人で紙に向き合うもんだ。こんなにベタベタ甘やかされて、挙句の果てにお姉さんたちの顔色を伺いながら描く絵に、どんな『魂』が宿るってんだい?」
「……っ!」
カツミは絶句した。それは、リベルタに来てから一度も、誰も彼女に突きつけなかった「毒」だった。
「お栄……おぬし、わしを試しておるのかえ?」
「試すも何も、今のあんたは見てられねぇよ。……よし、決めた。今日は一日、このアトリエを出て、アタシとリベルタの『底』を見に行こうじゃねぇか。もちろん、そのお守りのお姉さんたちは抜きで、ね」
パレットハウスに激震が走ったが、カツミは意外にも、レオたちの静止を振り切って立ち上がった。
「にゃはは。……レオ、メアリ、ヴィン。……案ずるな。わしは少し、この毒を食らってくるわい」
カツミとお栄が向かったのは、リベルタの華やかな市場の裏側――石炭の煙に汚れ、労働者たちが汗を流す旧市街の港湾地区だった。そこにはお姉さんたちの「ライティング」も「黄金比」もない、生々しい剥き出しの現実があった。
「……どうだい、親父。この汚ねぇ街の、泥臭い連中の顔。これを描く時に、その綺麗なトーンや、計算されたパースが役に立つのかい?」
お栄が突きつける問いに対し、カツミはしばらく黙ってスケッチブックを広げた。
だが、彼女の瞳に宿ったのは「迷い」ではなく、かつてないほど鋭い「画狂」の光だった。
「……お栄よ。おぬしは、わしを江戸の鉄蔵に戻したいようじゃが……。……それは無理な相談じゃわい」
カツミは、お栄が愛する「江戸の墨線」で描き始めた。……しかし、その線の隙間に、レオから学んだ「構造」の強さが宿り、メアリから教わった「空気の震え」が乗り、ヴィンに貰った「圧倒的な生命力」が迸る。
「わしは、甘やかされておるのではない。……わしは、おぬしが想像もできぬほど巨大な、四人の巨匠たちの『魂』を、この一本の筆に飲み込んで描いておるのじゃ!!」
描き上がったのは、煤に汚れながらも、明日を夢見て笑う港の労働者。
それは江戸のリアリズムと、リベルタの情熱が融合した、文字通り**「新しい時代の粋」**だった。
「……ちっ。……お見それしたよ。親父の『飲み込みの良さ』は、異世界に来ても変わらねぇんだね」
お栄が、どこか清々しそうに笑った。
夕暮れ。パレットハウスに帰還したカツミは、玄関で待機していたお姉さんたちに、今度は自分から飛び込んだ。
「 ふ、ふみゅうぅ……っ!! 疲れたわい! お栄がいじめるのじゃ! レオ、飯を食わせろ! メアリ、光をくれ! ヴィン、抱きしめろ!!」
「「「カツミ!!!」」」
お姉さんたちの溺愛が、今度はカツミが外で戦い抜いてきたことへの「祝福」として降り注ぐ。
「……ふん。せいぜい大事にされな。アタシはしばらく、この街の酒と絵を味わってから、またあんたの鼻を折りに来てやるからよ」
お栄は、アトリエの客間に自分の荷物を放り込み(決して居座るつもりはないという顔で)、酒場へと消えていった。
毒を飲み込み、さらなる進化を遂げたカツミ。
刺客の視線に晒されながら、パレットハウスの筆は、よりいっそう研ぎ澄まされていく。
(つづく)




