吉田食堂、鶏もも照り焼き
翌日の正午過ぎ、俺と真凛は東京に帰り着いた。霧島は対応しなければならないことがあるそうで、まだ現地に残ることになった。
宿でもうひと風呂浴びてから帰ったおかげで、体はだいぶ軽くなった気がする。とはいえ、電車で揺られて、駅から戻って、班拠点の椅子に腰を下ろすと、肩の奥に残っていた疲れが、ゆっくり出てきた。
腹が減っていた。
そんな時は全自動卵かけ機。
茶碗に白飯をよそう。米の甘い匂いが、鼻の奥に来る。卵を機械の上の穴へ落とすと、内部で小さく、うぃん、と音がした。黄身が、熱い白飯の真ん中へ、とろりと落ちる。
味噌汁はインスタントだが、葱を足した。湯を注ぐと、味噌の匂いがふっと立つ。焼き海苔と、じいさんが持たせてくれた漬物もある。漬物は胡瓜と大根で、少しだけ生姜が利いていた。昼なのか朝なのか分からないが、今の俺にとっては朝飯だった。
箸を入れた。黄身が白飯の上で崩れ、醤油の色が米粒の間に染みていく。海苔で少し巻いて、口に入れる。熱い米と卵の甘さ、醤油の塩気。
実に、うまいな。
園田が、土産袋を開けていた。俺たちが稲取で買ってきた地ビールと、干物の詰め合わせと、ところてん。冷蔵品の保冷袋を開ける手つきが、妙に丁寧だ。
「おお……本当に買ってきてくれたんですね」
「頼んだのお前だろ」
「頼みましたけど、全部そろうとは思ってなかったので」
園田は、地ビールの瓶を一本、蛍光灯にかざした。ラベルに海の絵が入っている。瓶の中の琥珀色が、少しだけ光った。
「これは吉田食堂で開けましょう。干物も、じいさんに頼めば焼いてくれますかね」
「かもな」
「ところてんは、冷やしておきます」
嬉しそうだった。買ってきてよかったな。
真凛のスマホが震えた。画面を見て、少しだけ眉を上げる。
「霧島さんからです」
「まだ現地か」
「はい」
真凛が、文面を読み上げた。
「『篠塚さんたち、無事帰京されました? 私はまだ稲取です。巨大スライム討伐に篠塚さんを入らせた許可の件で、始末書です。たぶん、こっぴどく叱られます。今、頭を抱えています』だそうです」
観光協会の会議室では元気に笑っていたが、霧島はあれで、上から叱られる立場でもある。爆破によって、危険が出るかもしれない。そう判断して俺を入れた。現場判断としては正しい。だが、書類にすると、いろいろ面倒なのだろう。
「大変だな」
*
夜、吉田食堂に入った。
「来たな、遥一」
「おう」
「空いてるとこ座んな」
カウンターに腰を下ろした。真凛が隣、園田がその隣に座る。園田は、昼に受け取った地ビールの瓶を、紙袋ごと大事そうに足元へ置いた。
お通しが出てきた。小鉢に、茄子の揚げ浸し。箸を入れると、皮の紫がつやっと光った。噛むと、冷たい出汁がじゅわっと染み出して、生姜が鼻に抜ける。
壁の短冊メニューを見上げた。鯵塩焼き、鶏もも照り焼き、肉じゃが、冷や奴。字は相変わらず太い。
「じいさん、今日は魚で何か」
「鯵がいい。あと、鶏もも焼けるぞ」
「じゃあ、鯵と鶏。飯も。あと、肉じゃがを一つ」
「おう。真凛ちゃんと園田は」
「私は鯵でお願いします」
「僕は鶏も。あと、干物、焼けますか。お土産の」
園田が紙袋を少し持ち上げる。じいさんは中を覗いて、鼻を鳴らした。
「稲取のか。あとで軽く炙ってやる」
「ありがとうございます」
園田は、嬉しそうに頭を下げた。
じいさんが奥へ戻ると、園田がスマホを出した。
「篠塚さん、これ、見ました?」
「何を」
「巨大スライムの切り抜きです。剣だけでコアを割るところ。かなりバズってます」
画面をこちらに向けてくる。サムネイルは、半透明の塊の中で、俺が主翼桁に片手をかけているところだった。よくそんな場面を切り出したな。
再生数の桁が、見慣れないことになっている。
「なんでそこが伸びる」
「伸びますよ。今時、巨大スライム相手に剣で中へ入る人、ほとんどいませんから」
そういえば、観光協会で、霧島が町長たちに討伐過程を説明していた時も、途中で変な顔をしていた。
──篠塚さん、体表を割って、中に入ったんですよね?
──入ったな。
──今時、スライムを物理攻撃で討伐する人がいるんですかぁ? 都市部や住宅地域での戦闘なら分かりますが……。
あの時の霧島は、笑っているのか、呆れているのか、判断しにくい顔だった。町長と課長は、そもそも何が普通なのか分からない顔をしていた。三浦さんだけが、俺の方を見て、少しだけ固まっていた。
「普通じゃないのか」
「普通ではないですね」
園田が、スマホを置いて、少し身を乗り出した。
「巨大スライムのコアを倒す方法って、今は火炎放射で焼き切るのが主流なんですよ。焼いて体表を縮ませて、再生速度を落として、コアまで熱を通す。都市部や住宅地だと火を使いにくいので、物理で押すこともありますけど、今回みたいに、剣一本で中へ入ってコアを割るのは、かなり昔ながらっていうか難易度高いです」
「古いやり方で悪かったな」
「すねないでください。みんな感心しているんですよ」
じいさんが、奥から皿を持って戻ってきた。
「飯が冷めねえうちに食いな」
鯵の塩焼きが置かれた。皮がぱりっと焼けて、焦げ目のところから脂が小さく泡を吹いている。大根おろしに醤油を少し落とすと、湯気の中に、魚の匂いと醤油の匂いが混ざった。 大根おろしを少し乗せて、口に入れると、塩気と脂が先に来て、あとから大根の辛さが抜けていく。
続けて、鶏ももの照り焼き。皮目が飴色で、端が少し焦げている。皿の底に、甘辛いタレが薄く広がっていた。肉じゃがの小鉢には、煮崩れかけたじゃがいもと、透き通った玉ねぎと、薄い牛肉が入っている。白飯の茶碗も来る。米粒が立っている。
箸を入れると皮が少しだけパリと音を立てた。中は柔らかく、噛むと、タレと肉汁が一緒に出る。生姜が少し利いていて、酒にも飯にも合う味だった。肉じゃがのじゃがいもは、箸で持つと角が少し崩れた。口に入れると、甘い出汁が舌に広がる。玉ねぎはほとんど溶けかけていて、牛肉の脂が飯を呼ぶ味だった。
「ッ……うまい!」
真凛が、鯵を一口食べて、目元を少し緩めた。
「美味しいです」
「だろ」
じいさんが、鼻を鳴らす。
園田は、炙ってもらった干物を見て、完全に機嫌がよくなっていた。
「これ、土産で正解でしたね、頼んだ自分を褒めたいです」
「そこは俺たちを褒めろ」
園田が笑い、真凛が静かに茶を飲んだ。
吉田食堂の飯は、俺たちに実家に帰ったような安心感をくれる。
*
同じ頃、霧島は稲取の宿の外にいた。
夜の海は見えない。ただ、坂の下の方から、波の音だけが薄く聞こえてくる。観光協会で借りた資料袋を脇に抱えたまま、霧島はスマホを耳に当てていた。
『お疲れさま、霧島さん』
「お疲れさまでぇす。安藤さん、今ならまだ始末書を書く前なので、私の心は比較的きれいですよ」
『それは、今から汚れるという意味か』
「そこは否定してほしかったです」
軽く笑ってみせたが、喉の奥は乾いていた。
巨大スライム。認定解除済みの旧ダンジョン。自治体が存在すら把握していなかった危険個体。どれも、通常の報告書に収まる言葉ではない。
『C-198の件は、こちらでも受けた。旧ダンジョンの扱いは、別系統の調査に回す』
「ですよねぇ。篠塚さんたちへの依頼としては、いったん区切れますよね?」
『ああ。少なくとも、現地被害の根は断ったと見ていいだろう』
霧島は、少しだけ息を吐いた。
「……では、次の件ですか」
電話の向こうで、安藤が黙った。
「真凛さんは、もう気づいているんじゃないですかねぇ。この依頼が建前だってことが」
『そうかもしれないな』
安藤の声は、いつもより低かった。
『それでも、頼む。篠塚班が対応した、という実績も』
霧島は、夜の坂道を見下ろした。
『C-087の管理契約について、外から声が入り始めている。現場判断だけで守れる段階を、少し越えた』
「篠塚さんたちには」
『まだ言わないでほしい』
「嫌われますよ、私」
『分かっている』
「分かってて言うんですかぁ」
『ああ。君も分かっているはずだ』
霧島は空を見上げた。星は少ない。海沿いの夜風が、目の下の疲れにしみる。
『霧島さん、そちらの方の進捗は……』
「……うーん、まだまだってところですねぇ。あともうちょっとなんですけど」
『そうか……まずいな』
「なんとか間に合わせますよ」
『頼む』
「ただし、安藤さん」
『ああ』
「私、あの人たちを便利な駒として扱うつもりはありませんから」
『分かっている』
「そこ、忘れたら怒りますよ。真凛さんより先に」
電話の向こうで、安藤が小さく息を吐いた。
『それは、かなり怖いな』
「でしょう?」
霧島は笑った。
宿の窓には明かりが残っていた。中に戻れば、報告書と始末書と、次の依頼書が待っている。
「……篠塚さん、すみません」
誰に聞かせるでもなく、霧島はそう言った。




