朝湯
朝、露天風呂に入った。
湯に肩まで沈めると、体に残っていた粘液の感触が、ようやく剥がれていく気がする。女将は、俺がスライムまみれで宿へ戻ってきたのを見て、朝の空いた時間に使わせてくれた。ありがたい。
海はまだ白く霞んでいて、湯気の向こうで岬の形だけがぼんやり浮いている。
部屋に戻ると、畳が足の裏に冷たかった。浴衣の襟から、まだ湯気が抜けている。
「露天、よかったよ」
「それはよかったです」
真凛が、少しだけ目を細めた。
「霧島は?」
「管理局と警察と自治体の電話を、まとめて受けています。もう戻られるそうです」
「寝てないな」
「たぶん」
窓を半分だけ開けた。潮の匂いが、薄く入ってくる。
霧島は、五分ほどして戻ってきた。髪は整っているが、目の下の影が濃い。スマホを右手から左手へ持ち替え、こちらを見て、いつもの勢いで笑おうとして、半分だけ失敗した顔になった。
「おはようございまぁす。いやあ、朝から、電話って減らないものですねえ」
「寝れてないだろ?」
「目は閉じました。寝たかどうかは、審議ですね」
「それは寝てない」
「ですよねー」
霧島は、部屋の隅に腰を下ろした。正座になりかけて、すぐに崩す。
「で、どうなった」
「まず、今回の依頼は、いったん一区切りです」
「というと」
真凛が問う。
「もともとの依頼は、C-198由来と見られる海流異常の現地対応でしたが、鳴り峠側の旧ダンジョンで巨大スライムを討伐されたことによって、依頼完了ということになります」
「わかった。理由は?」
「これがですねぇ。公的機関と、専門の調査機関が入るんです。管理局だけで抱えるにも、自治体だけで抱えるにも、今回の案件は、ちょっと重すぎますから。なにせ遺骨と、戦闘機も発見されてるので……」
霧島が、息を吐いた。
「鳴り峠内を旧日本軍が軍需品を隠すために使っていたことも、ほぼ間違いないです。ただ、実際に何をどこまで運び込んだのか、どの部隊が管理していたのか、詳しいことはわかんないですけど」
「零戦一機、丸ごと飲まれてたぞ」
「そこが、資料と合わないところなんですよねぇ」
困ったように霧島が頬に手を当てる。
「すぐには解決しないだろうな」
「そーですねぇ、考えたくもないですよ」
霧島は、笑った。
「ただ……海流が変化している理由については、結局、特定できなかったな」
「うーん。まぁそこは後続に任せるしかないですねぇ。あ! 園田さんの所見も、聞いてみませんか? 」
「いいな、電話しよう」
*
スマホを取って園田に発信した。三回鳴って、出た。
『はい、園田です』
「今、大丈夫か?」
『えぇ、さっき久我さんから送られてたスライムの件ですか?』
話が早い。あと真凛はさすがの共有スピードだ。
「あぁ。お前は旧ダンジョンにいたスライムが海流を変化させたと思うか?」
『うーん、聞いている情報だけだと、巨大スライム本体が直接、外の海流を変えたというのは、現実的ではないですね』
返事は早かった。
『いくら巨大でも、あの場所にじっとしているだけで、外の海流まで大きく変えるのは、かなり難しいです。海底地形を変えるとか、継続的に水の通り道を塞ぐとか、そんなレベルですから。ダンジョンに入ったときに気づいたことありました?』
うーん、海底地形はないな。あ、そういえば。
「あいつを倒したあと気づいたんだが、あのダンジョン、溶液があちこちに残ってたんだ。床も壁も、薄い膜みたいになってて」
『あぁ、溶液ですか』
園田が電話越しに考えている。
『スライムの溶液って、地上に漏れた場合、排水管や河川を詰まらせることがあります。今回みたいに巨大な個体で、ずっとあの場所にいたならなおさらです。旧ダンジョンが海とつながっていて、ヘドロみたいに溶液が海底にたまった結果、海流が変化した……って可能性はあります』
「なるほど」
『まぁ、仮説なので、そこまで信用しないでください』
霧島がこちらに身を乗り出してきた。
「篠塚さん、私も園田さんと、お話ししてもよいですか?」
「まぁいいけど」
霧島にスマホを渡す。
「園田さん、霧島です! 本当すごいですねぇ。聞きましたよ、最初から旧ダンジョンに目をつけていたとか!」
『霧島さん、お疲れ様です。個人的には、もっとすごいやつが旧ダンジョンにいると思ってたんですけど。お役に立ててよかったです』
霧島の怒涛の勢いに園田がたじろぐと思ったが、案外平気そうだ。
俺が気圧されているのに気づいてか、霧島は少し抑えめになり、園田と二言三言交わしてから、こちらにスマホを返してきた。
「電話、戻ったよ」
『あ、篠塚さん、お土産、地ビールでお願いします。あと、干物。可能なら、ところてんも』
「お前、意外と欲張りだな」
『お願いしますよー、吉田食堂で待ってますから』
通話を切った。
「園田さん、本当すごいですよ。うちにも欲しいくらい」
霧島が、ぽつりと言った。
*
観光協会の会議室は、この前訪れたときよりも人が少なかった。
長机の上に、紙コップと、湯呑みと、印刷された地図が並んでいる。壁には、稲取の温泉と金目鯛のポスターが貼られていた。隣の事務室から、電話の鳴る音が何度も聞こえてくる。
町長、観光協会の課長、管理者の三浦さん、霧島、俺、真凛。
昨日いた自治体の若い男は、別の担当で外に出ているらしい。電話対応と現場規制の人員手配で、町の人間は朝からばらけている、と課長が最初に説明した。
町長は、五十代後半くらいの、肩の薄い男だった。机の上で、指を組んでいる。三浦さんは、日焼けした顔を少し硬くして、地図の端を押さえていた。
「旧ダンジョン側と、C-198周辺の両方で、しばらく立入禁止の規制が入ります」
観光協会の課長が言った。声は落ち着いているが、手元の紙には赤い線が何本も引かれていた。
「正直に言えば、観光には影響が出ます。五月の連休前ですからキャンセルも出るでしょう。朝から宿の方にも問い合わせが入っているそうです」
町長が、組んでいた指をほどく。
「ただ、篠塚さん」
「はい」
「今回、あなたがあの巨大スライムを討伐してくださったことは、この地域の安全にとって、大きなことです。短期的には逆風ですが、長期的に見れば、私たちは助けられました」
課長も頷いた。
「もし、あのまま入口が開いた状態で、誰かが面白半分に入り続けていたら、観光どころではありませんでした。規制は痛いです。でも、原因が見つかり、危険な個体が処理された。そこは、地域としては本当に良かったと思っています」
感謝されると、少し据わりが悪い。
それから会議は、規制線の文面、報道対応の窓口、専門調査機関への引継ぎへと続く。それらは霧島と真凛が、町長と課長に短く確認していく。俺は、昨日見た旧ダンジョン内の様子を答えた。
最後に、観光協会の課長が少し声を落とした。
「これは、まだほとぼりが冷めた後の話ですが」
「はい」
「巨大スライム饅頭とか、巨大スライムせんべえとか、作れるかもしれないとは、少し、思っています」
三浦さんが、苦笑いした。
「それはちょっと、やめておいた方が……」
「もちろん、今すぐではありません。今すぐでは」
「今すぐじゃなくてもですよ、バッシング受けそうです」
霧島が、こらえきれずに少し吹きだした。
巨大スライム饅頭。
少しだけ、見てみたい気もした。
*
観光協会を出ると、霧島の足取りが、朝よりずいぶん軽くなっていた。
「いやあ、課長さん、最後に全部持っていきましたね!」
真凛は観光協会の前の通りを歩きながら、土産物屋の看板を見ている。心なしか少し楽しそうに見えた。
「久我さん、地ビール、どれがいいと思います?」
霧島が、店先の冷蔵ケースを覗き込んだ。
「園田さん向けですか」
「ですです!」
二人が次々と土産をとっていく。真凛は冷蔵ケースから瓶を一本。ラベルに、稲取の文字が入っていた。霧島は干物の棚から鯵と金目の小さな詰め合わせ。
会計を済ませる。霧島は、自分用に買った小さなせんべいの袋を、もう開けて食べだした。
海の方から、潮風が来る。朝の湯の温かさは、もうほとんど抜けていたが、肩の奥に少しだけ残っていた。
紙袋を持ち直した。土産が重い。眠い。腹も減ってきた。
でも、まあ。
もうひと風呂浴びてから帰ろう。




