C-198
昼すぎ、稲取に着いた。
駅前の坂を下りると、海が見えた。四月の光はもう柔らかいだけではなく、坂道の白い壁を少し眩しくしていた。風は湿った塩の匂いを運んでくる。
観光協会の建物は、駅から歩いて五分の、小さな二階建てだった。一階の入口に、警告札が立てかけてあった。「岬の遊歩道、夜間立入禁止」。ラミネートの端が薄くめくれている。
二階の小会議室に通された。長机が一つ。お茶が出された。湯呑みの湯気は薄い。
観光協会の課長と、町から来た自治体担当の若い男と、地元の管理者の三浦さんが待っていた。三浦さんは五十前後の、日に焼けた、肩の張った体つきの男だった。
課長が、紙を一枚、机の上に滑らせた。
「こちらがなくなった方が発見された場所になります」
地図のコピーだった。岬の輪郭の中に、印が二つ打たれていた。四月四日と、四月十六日。場所は、ほとんど同じ、岬の根元の海側の岩場。
「もっと規制を強くできないでしょうか?」
霧島が、静かに押した。
課長は湯呑みに目を落とした。
「一月から三月の山は、もう越えました。ただ、五月の連休を前に、宿がほとんど埋まっていまして。ここで岬全体を閉めると、周辺まで一気にキャンセルが出ます」
「行方不明者と死者が出ている重大な事案なんですよ?」
「はい。そこは、分かっています」
課長の声は小さかった。
窓の外、遊歩道の入口の方が見える。観光客が歩いていて、子供連れの夫婦が二組。年配の夫婦が三組。警告札に視線を向ける者は少なかった。
その中で、外国人らしい若い男が一人、C-198側の柵をひょいと越えた。四月の海風の中で、短パンに半袖。連れの女が笑いながらスマホを構える。男は危ない場所へ踏み込むというより、よく分からない段差を越えるくらいの顔で、自撮り棒を伸ばしていた。
「ああいうのも、毎回止めきれてはいない状況で」
三浦さんが低く言った。
「柵、低いですから」
自治体担当の若い男が、申し訳なさそうに言った。課長がすぐに続ける。
「高くすればいい、という話でもありません。観光地の景観の問題もあって」
「分かりました。まず、C-198の中を見たいのですが」
*
C-198入口は、岬の海側、岩棚の下にあった。
黒い洞のような穴が、岩の縁に口を開けていた。中から潮の匂いがする。波が低い音で、奥の壁にぶつかっているらしかった。
真凛と霧島は入口の外に残った。三浦さんも、柵の外側に立っている。
「篠塚さん、本当に一人で大丈夫ですか」
霧島が聞いた。
「大丈夫。いつも通りだ」
「いつも通りが、だいぶ特殊なんですよねぇ」
「外で待っててくれ」
真凛が、短く頷いた。
「こちらで無線はつなげておきます」
「頼む」
ヘッドライトを点けて、入口に入った。
中は浅かった。
最初の十数メートルは、海蝕洞に近い。壁は黒く濡れていて、足元に潮溜まりが点々とある。そこから少し進むと、ダンジョンらしい整った通路に変わったが、深さはなかった。曲がり角が二つ。小部屋が三つ。奥に、潮の匂いのする広めの空間が一つ。
潮溜まりの縁で、白い泡の塊がひとつ膨らんだ。
ただの泡ではなかった。中に、蟹のような脚が六本見える。拳二つ分ほどの甲殻が、泡ごと体を持ち上げていた。背中の泡膜がヘッドライトを受け、ぬるりと光る。近づくと、細いハサミを振り上げてきた。
一歩、踏み込む。
ハサミがこちらを掴む前に、剣で切るというよりは甲殻ごと叩き潰す。泡が弾けて、甲殻の割れる小さな音が床に落ちた。
二体目。今度は細い藻の束。硬質化して、束の先だけが透明に尖っている。見た目だけなら濡れた飾りのようだが、当たれば防護服に穴を開ける。
肩を引いて避け、柄頭で根元を潰した。
三体目、四体目。他にも表れたが、どれも、海沿いの浅層らしい小物だった。面倒ではあるが、危険ではない。こちらを止めるような重さはなかった。
最深部に着いた。
拍子抜けするほど浅い場所だった。壁際に潮溜まりが一つあり、天井から水が落ちている。床に、異常な熱はない。壁の奥から来る圧もない。空気の流れも、入口から奥へ抜けているだけだ。
異変の中心がここにあるなら、もっと、嫌なものが残る。
C-087で感じる、床の下から返ってくる重さ。深い場所に何かがいる時の、重苦しい空気
ここには、それがない。
「終わりか」
独り言が、壁に吸われた。
潮溜まりの縁を剣先で軽く突いた。水が揺れた。白い泡が二つ浮いたが、中に脚はない。ただの泡だった。
ここは異変の本体ではない。
*
入口へ戻ると、外の光が眩しかった。
真凛がすぐに顔を上げた。三浦さんは柵の外側で、さっきの外国人観光客に何かを説明している。男は両手を上げて、悪気のない顔で笑っていた。
霧島は、その少し手前で立っていた。スマートウォッチの通知を切ろうとして、指が一度、画面の横を滑った。顔色が、昼に見た時より悪い。目の下の隈が、心なしかさらにどす黒くなっているように見える。
「どうでしたか」
霧島が聞いた。
「浅い。小物はいたが、異変の本体じゃないだろう」
「小物、ですか」
「泡を背負った小蟹みたいなやつと、硬くなった藻だ。初見ではあるが、浅層の範囲だ。最深部まで見た。ここが海流を変えている感じはない」
真凛がメモを取った。
霧島が、眉間を軽く押さえた。
「うーん、どうしましょう」
「現C-198がこれなら、園田が言っていた旧の方も見るしかないな」
「えっ、それって……」
霧島がそう言いかけたとき、体勢を崩して足元がふらつく。
「霧島」
「はい。大丈夫です。ちょっと、寝不足がですね」
「先に宿へ戻って寝てこい」
「いやいや、ここからが本番じゃないですか。私、段取りを」
「今のお前なら、通行禁止の札を海のど真ん中にでも立てそうだ」
「そこまではしませんよぉ」
返しはいつもの調子に近かったが、声の芯が細い。真凛が、霧島の横へ一歩寄った。
「霧島さん。私が代わりに対応します。霧島さんは一度休んでください」
「久我さんまで」
「倒れられる方が困ります」
霧島は、そこでようやく黙った。悔しそうというより、眠気に負けた顔だった。
「……一時間だけ、横になります」
「もっと寝ろ」
「篠塚さん、言い方」
「寝ろ」
霧島は、小さく笑ってから、観光協会の職員に付き添われて、先に宿へ戻った。
*
「昔、ここにもう一つダンジョンがあったと聞いたんですが」
真凛が、戻ってきた三浦さんに尋ねた。
三浦さんは、少し困った顔をした。
「うーん、都市伝説の類で聞いたことはあるのですが、詳しくは知らないです」
自治体担当の若い男は、もっと分からない顔をしていた。
「すみません。私、異動して二年目でして」
課長がそこで視線を上げた。
「そういうことなら、漁協の年長の方に聞いた方が早いかもしれません」
「誰に聞けばいいでしょう?」
三浦さんが、そこで少し姿勢を正した。
「稲村トメさんです。この辺の海のことなら、あの人に聞くのが一番です」
若い自治体担当が、小さく瞬きをした。
「え、三浦さん、そんな方が」
三浦さんが、少しだけ苦い顔をした。
「知らないのか」
「すみません」
「いや、知らない方が普通かもしれませんね」
*
夜は、町が取ってくれた宿に入った。
依頼を受けてもらったから、せめて飯だけでも、と観光協会の課長が言った。ありがたい。
食堂は海側だった。窓の外に、黒くなり始めた海が見える。地元の人らしい客が二組、こちらをちらりと見られた気がする。
女将は六十前後の、声の低い女だった。愛想は薄いが、皿を運ぶ手は早かった。卓には、湯気の立った小鉢が二つ、もう先に置かれていた。
「お通しです。海藻のぬたと、太刀魚の南蛮漬け」
それだけ言って、湯呑みに番茶を注いで戻した。地元の小さな配慮が、湯呑みの底から伝わってきた。
海藻のぬたを一口食った。酢味噌の酸味が奥に染みていく。
女将は次に大きな皿を運んできた。金目鯛の煮付け。赤い皮がつやつやと光っている。甘辛い匂いだ。箸を入れると、身がほろっと外れた。
「煮汁、お好みでもう一かけしてください。うちはそういう出し方なんです」
女将がそう言って、あおさの味噌汁と、胡瓜と茗荷の浅漬けを順に並べた。
煮汁を少し足して、口に入れる。濃ゆい甘さの奥に、魚の脂が残る。
真凛が、スマホを取り出した。箸を置き、煮付けの皿を少しだけ窓側へ寄せる。赤い皮に、食堂の灯りがきれいに乗る角度を探している。
そういえば、盛り付けの写真を撮るのが好きだと言っていたな。
「この前、霧島がいた時は撮ってなかったよな」
「撮っていましたよ」
真凛は画面を見たまま答えた。
「いつ」
「お二人が見ていない間に」
「器用だな」
「篠塚さんも写りたかったんですか」
真凛が、少しだけ口元を緩めた。
「いや」
「では、料理だけにしておきます」
食事が半分ほど進んだところで、真凛が箸を置いた。
「篠塚さん」
「なんだ」
「霧島さんなんですが……」
宿に戻ってから真凛が様子を見に行ったが、霧島は靴下を片方だけ脱いだ状態で、布団に沈んでいたらしい。起こさず、部屋の灯りだけ落としてきた、と真凛は言った。
真凛は、ほうじ茶の湯呑みを両手で包んでほっと息をつく。
「明日、もう一度、観光協会の課長さんと、自治体の担当さんと、三浦さんに聞きましょう。トメさんに会えるよう、段取りします」
「そうだな」
女将が、奥から小ぶりの茶碗を持って戻ってきた。
「金目の煮汁で茶漬け、いきます? うちの締めです」
「いただきます」
女将が、白飯を半膳ほどよそって、煮汁を少し足し、出汁の入った急須から、熱い茶を回しかけた。皮の脂が湯の中で薄く広がる。
箸ですくって、口に入れる。胃が温まる。
金目鯛をもう一口食べた。甘辛い味が、少し疲れた体に入ってくる。
ごちそうさまでした。
会計のとき、女将が、紙に包んだものを一つカウンターに出した。
「霧島さんにね、おにぎり置いておきますね。起きたときに食べられるように」
真凛が頭を下げた。俺も軽く下げた。
明日は、人に聞くところからだ。




