超深層種、上がってくる
超深層の探索が再開された翌日の朝だった。
園田から電話が来た。朝の五時四十分。寝ぼけた頭でスマホを取ると、園田の声がいつもと違った。低くて、速い。
「篠塚さん。C-087の入口ゲートの監視カメラに異常が出ています。五時十五分、ゲート内部から魔力反応が急上昇しました。一階層の空気が——変わっています」
「変わってるってどういうことだ」
「十一階層の空気と同じ密度です。一階層なのに」
布団を蹴った。フローリングが冷たい。
真凛にもメッセージを送った。十五秒で既読がついた。返信。「向かいます」
C-087の入口に着いたのは六時過ぎだった。園田がすでにゲート前にいた。ツールボックスを肩に、測定器を手に持っている。画面の数字が赤く点滅していた。
「魔力濃度が一階層で通常の八倍。五階層は二十倍を超えています。十一階層の深層魔力が、下から押し上がってきています」
「上に来てるのか」
「はい。深層の何かが、上層に向かって移動しています」
ゲートを開けた。中から流れてきた空気が重い。十一階層で感じるあの空気が、一階層にまで染み出している。鉄と石の匂い。肌がぴりつく。
腰の鞘から剣を抜いた。園田が巻き直してくれたグリップが、手のひらに吸いつく。
「園田、外で待っていろ」
「いえ、行きます。記録が必要です」
「危険だ」
「記録がなければ、あとで管理局に何も説明できません」
園田の声が硬い。だが、目は逸らしていない。
「……分かった。後ろについてこい。俺が合図したら走れ」
「了解です」
一階層に入った。
通路の壁に亀裂が走っていた。石材がひび割れて、隙間から紫色の光が漏れている。十一階層の壁面と同じ光。深層の光が、上層にまで浸食している。
ゴブリンがいない。いつもなら一階層に五体はいるゴブリンが、一匹もいない。逃げたか、散ったか。
二階層。同じだ。スケルトンがいない。通路に骨の破片が散らばっている。何かに蹴散らされたような壊れ方。
三階層を抜けた。オークの死体が転がっていた。体が半分溶けている。甲殻のような黒い何かが体表にこびりついていた。九階層の竜の甲殻と同じ質感。
四階層。
空気が、変わった。
密度が急に上がった。息を吸うのに力がいる。手の甲の産毛が逆立つ。腕が重い。全身に圧がかかっている。
そして——足元に振動が来た。
地鳴りではない。何かが歩いている振動。大きい。重い。四階層の通路の奥から、規則的な震動が伝わってくる。
「篠塚さん」
園田の声がかすれた。
「何か来ます」
通路の奥の暗闇から、紫色の光が漏れた。壁の紋様ではない。何かの体の中にある光。歩くたびに光が揺れている。
出てきた。
体長五メートル。四足歩行。全身が黒い甲殻で覆われている。背中から角のような突起が三本突き出て、紫色に発光している。九階層の竜と同じ系統だが、小さい。だが——
目。金色の瞳。四つ。頭部の両側に二つずつ。四つの目がすべて俺を見ている。
「……超深層種か」
十一階層以深に棲息していた生物が、上層に上がってきた。園田が言った通りだ。ダンジョンが活性化して、深層の生態系が動き出している。
超深層種が一歩踏み出した。床が軋んだ。甲殻の表面に紋様が走っている。十一階層の壁面と同じ紋様。こいつの体にも、あの文字が刻まれている。
配信は——していない。朝の緊急対応だ。カメラは回していない。
それでいい。この場面を見せるべき相手は、画面の向こうじゃない。
「園田、下がれ」
「記録は——」
「カメラだけ回せ。それ以上近づくな」
園田が二歩下がった。ヘルメットカメラの電源を入れる音が聞こえた。
超深層種が咆哮した。九階層の竜ほどの音量ではない。だが、声に含まれる周波数が違う。体の奥に響く。骨が震える。
走った。
前脚の振り下ろしを横に避ける。四階層の通路は狭い。巨体が壁にぶつかって、石片が散る。甲殻が壁を削る音。硬い。
懐に入った。甲殻の継ぎ目を探す。九階層の竜と同じだ。腹と脚の付け根に隙間がある。
剣を突いた。
手応え。硬い。だが、竜ほどではない。刃が甲殻の隙間に入った。押し込む。甲殻の内側に到達する感触。手首に衝撃が走る。肘、肩、腰。全身で押し込む。
超深層種が体を捩った。剣が引き抜かれそうになる。握り込んだ。グリップが手に食い込む。園田の巻き直しが効いている。滑らない。
もう一撃。剣を引いて、隣の隙間に突き直した。今度は角度を変えて、斜め上に。甲殻の内側を抉る。
紫色の光が噴き出した。血ではない。光。あの紋様の光と同じ色。
超深層種の脚が折れた。膝が落ちる。四メートルの体が傾く。
首の付け根。甲殻が最も薄い場所。竜と同じ構造だ。
跳んだ。肩の上に乗った。甲殻の表面がざらざらしている。足が滑る。踏ん張った。
剣を首の付け根に突き立てた。柄まで沈む。
超深層種が静かになった。
四つの金色の瞳が、ゆっくりと閉じていった。最後の一つが閉じる前に、何かを見た気がした。九階層の竜と同じだ。怒りでも恐怖でもない。何か——安堵に近いもの。
体が塵に還った。黒い粒子が紫色の光を纏って、天井に消えていく。
四階層の通路に、静寂が戻った。
剣を降ろした。右手が震えている。左手で手首を押さえた。息が荒い。心臓が速い。
園田がカメラを構えたまま立っていた。目が大きく開いている。だが、逃げなかった。
「園田」
「はい」
「映ったか」
「全部映ってます」
「管理局に見せろ。真凛に送れ」
「了解です」
*
真凛がC-087の入口に着いたのは、七時だった。
俺と園田はゲートの外のベンチに座っていた。俺はコンビニで買った水を飲んでいた。園田はカメラの映像を確認していた。
真凛が俺の右手を見た。視線が一瞬止まった。まだ微かに震えが残っている。
「篠塚さん、怪我は」
「ない」
「園田さんは」
「僕も大丈夫です」
真凛が映像を見た。園田のヘルメットカメラが捉えた、超深層種との戦闘。四分十二秒。真凛は一度全部見てから、二度見した。三度目は園田の横で止めながら確認した。
「この映像を管理局に提出します。超深層種が上層に出てきた事実は、管理局にとっても重大です。C-087の管理体制を抜本的に見直す根拠になります」
「分かった」
「篠塚さん」
「ん」
「勝手に行かないでください。次は三人で」
真凛の声が低かった。怒っているのではないのだろう。
「……了解」
C-087の超深層種が上層に上がってきた。ダンジョンが活性化している。もう底辺ダンジョンの話ではない。
水を飲み干した。ペットボトルの底に残った最後の一口。ぬるい。
腹が減った。吉田食堂、開いてるかな。




