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『バッテリー・リボーン』  作者: shaaawan


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9/11

秋の神宮、それぞれの重力

九月に入ると、空気が変わる。


グラウンドの土が乾いた感触になり、朝のキャッチボールで吐く息がわずかに白くなる。夏の試合数をこなした体が、疲労よりも熟成に向かう。野球人として、秋はそういう季節だった。


奏汰にとって初めての秋季リーグが始まった。


東都大の秋のスタメンは、春から少し変わっていた。夏の練習試合で台頭した1年生の右翼手が7番に入り、浅野哲朗が指名打者枠で先発に戻ってきた。浅野は夏の間、打撃に特化した練習を積んでいた。正捕手の座を譲った分、「打者としての浅野哲朗」を取り戻すことに集中していた。


「今日は打ちますよ」と浅野は試合前に奏汰に言った。


「打てるかどうかは見てみないとわからない」と奏汰は返した。


「相変わらずですね、葛城は」


「お前こそ、自信があるのか」


浅野は少し考えてから「あります」と言った。今度は笑みがなかった。真剣な目だった。


「なら打て」


奏汰はそれだけ言って、キャッチャーズギアを着けた。


---


秋季リーグ初戦。相手は東京英栄大。


春はリーグを通じて対戦しなかったチームだ。打線が強力で、スカウトが視察に来るほどのドラフト候補を何人か抱えていた。


その中で最も注目されていたのが、4番一塁手の仁科大河だった。


「また仁科か」と桐嶋がスタメン表を見ながら言った。


「春に二回対戦している。秋は修正してくる」


「どう攻めますか」


「見てから決める。今日の仁科がどう変わったかを、まず一打席で確認する」


桐嶋が頷いた。「最初の一打席を捨てる、ということですね」


「捨てるんじゃない。情報にする」


奏汰はそう言ってグラウンドへ出た。


---


1回裏、英栄大の攻撃。1番、2番を桐嶋が手際よく打ち取り、3番の左打者にはスライダーで三振を奪った。完璧な立ち上がりだった。


4番・仁科大河。


奏汰は構えながら、仁科の体を全体的に観察した。


スタンスが春より少し広い。前傾が抑えられ、腰の位置が下がっている。重心を落として、変化球への対応幅を広げた構えだ。


春の反省を活かしてきた。


奏汰はサインを出した。まず内角高めへのストレート。球速より角度で詰まらせるコース。


桐嶋が頷いて、投じた。


仁科はそれを見逃した。ストライク。


次に外角低めへのスライダー。春なら確実に引っかけていたコースだ。


仁科は今度も見逃した。ボール。ゾーンを見極めていた。


三球目。また内角へのストレート。今度は少し高め。


仁科がバットを出した。フライ。センターがキャッチした。


アウトを取れた。しかし奏汰には、「取れた」よりも「仁科の春からの変化」の方が収穫だった。


仁科は内角への対応を改善していた。ただし、完全には修正しきれていない。詰まりながらも芯に近い当たりを打てる位置にはなっていないが、反応速度は上がっていた。


「次の打席から修正する」


奏汰はベンチへ戻りながら頭の中で更新した。


---


試合は5対1で東都大が快勝した。


浅野哲朗は指名打者として4打数2安打1打点。宣言通り打ってみせた。


試合後、浅野は奏汰に「どうでしたか」と聞いてきた。


「悪くなかった」と奏汰は言った。


浅野が「素直に褒めてくださいよ」と苦笑した。


「褒めた」


「どこがですか」


「悪くなかった、は褒め言葉だ」


浅野が天を仰いだ。「葛城さんの語彙力、なんとかなりませんかね」


「語彙力は十分ある。選んでる」


「最悪だ」と浅野は笑いながら言った。


奏汰はその横顔を見て、思ったより悪くない秋になりそうだと感じた。


---


九月の第三週。


スポーツアプリの通知が来た。


『北道ライオンズ・永瀬颯斗、一軍昇格。今週末の試合でリリーフ登板予定』


奏汰はその通知を見て、しばらくスマートフォンを持ったまま動かなかった。


一軍。


プロ野球の一軍のマウンドに、永瀬颯斗が立つ。


頭の中で、中学のグラウンドが浮かんだ。二人でキャッチボールを続けた夕暮れ。永瀬の左腕が振り下ろされる瞬間の、あの独特のフォームの残像。


奏汰は通知を開いた。


記事の短いコメント欄に、ファームコーチの言葉があった。「制球と球威が安定してきた。一軍の打者に通用するボールになってきた」。


「当然だ」と奏汰は思った。永瀬は最初から、そういう投手だった。


問題は、自分だ。


永瀬がプロの一軍のマウンドに立つとき、奏汰はどこにいるのか。


大学のグラウンドで、秋季リーグを戦っている。


それは劣っているわけじゃない。それぞれの道があると、頭ではわかっていた。しかし。


「受けてみたい」


その感情は変わらなかった。


永瀬颯斗のボールを、もう一度受けたい。


それがいつか叶う日のために、今やることがある。


奏汰はスマートフォムを置いて、配球ノートを開いた。


---


週末。奏汰は珍しくテレビをつけた。


北道ライオンズの試合が中継されていた。


7回から永瀬がリリーフ登板した。


実況が「ルーキー右腕、永瀬颯斗が登板します」と告げた。


奏汰はテレビを正面から見た。


永瀬のウォームアップ投球。


一球目を見た瞬間、奏汰の右手が無意識に動いた。


「速い」


独り言が出た。


映像越しでもわかる。球の出どころが遅く、ホップ成分が大きい。中学の143キロが、今は150を超えているだろう。プロの一軍捕手が受けるミットの中に、あのボールが収まっている。


永瀬は2イニングを投げて3奪三振、被安打0で抑えた。


テレビが次のバッターの場面に切り替わった。


奏汰はテレビを消した。


部屋が静かになった。


右手の感触が、まだ残っていた。


架空の感触。受けていない球の重さ。


「まだ先だ」と奏汰は言い聞かせた。「今は、今やることをやれ」


---


秋季リーグは快調に進んだ。


東都大は5試合を終えて4勝1敗。唯一の敗戦は相馬哲也を擁する芝浦慶文大との第三戦だった。


相馬哲也。中学時代の三塁手。現在は慶文大の主軸打者として、リーグを代表するスラッガーになっていた。


春は対戦がなかった。秋に初めてグラウンドで向かい合った。


相馬の打撃は、中学のときの面影を完全に残していた。インパクトの瞬間に腕が一本になる打ち方。引っ張りの力が異常に強く、流し打ちも精密だった。


奏汰は相馬と三打席対戦した。


一打席目は外角低めのスライダーで打ち取れた。二打席目は同じコースを読まれてレフトへ流された。三打席目はフルカウントから内角へのストレートを選んだが、相馬に完全にタイミングを合わせられ、センターへの二塁打にされた。


「強い」と奏汰は認めた。


その試合は1対2で負けた。相馬の2打点が決勝点になった。


試合後、相馬が奏汰のそばに来た。


「久しぶりだな、葛城」


「ああ」


「お前がいるとは思わなかった。帝星を辞めたって聞いてたから」


「辞めた。一年半後に戻った」


相馬は少し顎を引いた。「そうか」


「お前は変わらないな。打ち方が中学のときのままだ」


「変える必要がなかった。俺の打ち方は最初から正解だった」


相馬は笑わずに言った。自信ではなく、事実として言っていた。


「次は抑える」と奏汰は言った。


「楽しみにしてる」


相馬は短くそう言って、背を向けた。


中学の頃、相馬はあまり喋らなかった。キャプテンの御堂壮馬とは違って、言葉より行動で示すタイプだった。それは今も変わっていないようだった。


「御堂に会ったか」と奏汰は思わず言った。


相馬が振り返った。


「神宮大会で当たるかもしれないな」


相馬の目が少し動いた。何か考えているような間があった。


「……葛城」と相馬は言った。「壮馬は、変わった」


「どう変わった」


「俺が言うより、自分で確かめた方がいい」


それだけ言って、相馬は今度こそ背を向けて歩いていった。


奏汰はその背中を見送った。


「変わった」という言葉が、頭に残った。


御堂壮馬。中学のキャプテン。親友と言えるくらい近かった男。


神宮大会で、もし当たれば。


---


秋季リーグ最終戦。


東都大は勝てば優勝、引き分けでも優勝、負けると最終日の結果次第という状況だった。


相手は東都法明大。春に一度対戦している。4番の仁科大河とは春秋を通じて四度目の対戦になる。


試合は序盤から桐嶋が圧倒した。


夏を経て、桐嶋の投球が春よりさらに洗練されていた。肘の管理を奏汰と共有するようになってから、球数の使い方が効率的になり、心理的な消耗が減った。秋になって、桐嶋はより「自分の投球」ができるようになっていた。


「7回を任せます」と奏汰は試合前に桐嶋に言った。「8回から久我に繋ぐ。それだけを考えろ」


「はい」


「肘の状態は」


「今日は問題ない。むしろいい感触です」


「わかった。信じる」


桐嶋が少し目を細めた。「最近、葛城が言ってくれる言葉、正確なんですよね」


「どういう意味だ」


「信じる、って言うとき、本当に信じてる顔してる。前は、どこかで確認しながら信じてる感じがしたけど」


奏汰は少し黙った。「俺も変わったのかもしれない」


「いい変わり方ですよ」


「うるさい」


桐嶋が笑った。


---


試合は7回を終えて4対0。


桐嶋は7回94球、被安打3、無失点。完璧な投球だった。


8回から久我が登板した。


久我は夏を経て、明らかに成長していた。縦カーブの制球が安定し、内角への攻めも臆さなくなっていた。浅野の完投を目の前で経験し、「プロ級の投手」を肌で知ったことが、久我の何かを変えていた。


8回を2者連続三振を含む三者凡退。


9回、クローザーの本田が締めた。


4対0で快勝。秋季リーグ優勝。


神宮大会出場が決まった。


---


ベンチ前で、部員全員が集まった。


安藤監督が短く言った。「神宮まで三週間ある。今日の勝ち方を忘れるな。個々の課題を潰して、神宮に臨め」


奏汰は少し離れた場所で、スタンドを見た。


陸が来ると言っていた。


探すと、一塁側のスタンドの端に、見慣れた顔があった。


朝比奈陸が、一人で立って試合を見ていた。奏汰と目が合うと、軽く手を振った。


奏汰は頷き返した。


試合後、スタンドの外で陸と合流した。


「優勝おめでとうございます」


「ありがとう」


「桐嶋さん、春よりさらによくなってましたね。球の出どころが安定してる」


「分かるか」


「分かりますよ。センターから投手の背中は全部見えますから」


陸はそう言って、グラウンドの方へ視線を向けた。


「神宮、楽しみにしてます」


「見に来るか」


「もちろん。都市対抗優勝しましたけど、ドラフトはまだ先なんで、今は野球を見て勉強してます。それに」陸は少し言葉を切った。「奏汰さんの試合、できるだけ全部見たい」


奏汰は陸の横顔を見た。


「なんでだ」


「なんでって……好きだから、奏汰さんの野球が」


陸はさらっと言った。照れもなく、当たり前のことのように。


奏汰は少し黙った。


「……来い。チケット取れるかどうかはわからんが」


「自分で取りますよ!」


陸がそう言って笑った。


夜の空気が涼しくなっていた。神宮の銀杏並木が、秋の気配をかすかに匂わせていた。


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