秋の神宮、それぞれの重力
九月に入ると、空気が変わる。
グラウンドの土が乾いた感触になり、朝のキャッチボールで吐く息がわずかに白くなる。夏の試合数をこなした体が、疲労よりも熟成に向かう。野球人として、秋はそういう季節だった。
奏汰にとって初めての秋季リーグが始まった。
東都大の秋のスタメンは、春から少し変わっていた。夏の練習試合で台頭した1年生の右翼手が7番に入り、浅野哲朗が指名打者枠で先発に戻ってきた。浅野は夏の間、打撃に特化した練習を積んでいた。正捕手の座を譲った分、「打者としての浅野哲朗」を取り戻すことに集中していた。
「今日は打ちますよ」と浅野は試合前に奏汰に言った。
「打てるかどうかは見てみないとわからない」と奏汰は返した。
「相変わらずですね、葛城は」
「お前こそ、自信があるのか」
浅野は少し考えてから「あります」と言った。今度は笑みがなかった。真剣な目だった。
「なら打て」
奏汰はそれだけ言って、キャッチャーズギアを着けた。
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秋季リーグ初戦。相手は東京英栄大。
春はリーグを通じて対戦しなかったチームだ。打線が強力で、スカウトが視察に来るほどのドラフト候補を何人か抱えていた。
その中で最も注目されていたのが、4番一塁手の仁科大河だった。
「また仁科か」と桐嶋がスタメン表を見ながら言った。
「春に二回対戦している。秋は修正してくる」
「どう攻めますか」
「見てから決める。今日の仁科がどう変わったかを、まず一打席で確認する」
桐嶋が頷いた。「最初の一打席を捨てる、ということですね」
「捨てるんじゃない。情報にする」
奏汰はそう言ってグラウンドへ出た。
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1回裏、英栄大の攻撃。1番、2番を桐嶋が手際よく打ち取り、3番の左打者にはスライダーで三振を奪った。完璧な立ち上がりだった。
4番・仁科大河。
奏汰は構えながら、仁科の体を全体的に観察した。
スタンスが春より少し広い。前傾が抑えられ、腰の位置が下がっている。重心を落として、変化球への対応幅を広げた構えだ。
春の反省を活かしてきた。
奏汰はサインを出した。まず内角高めへのストレート。球速より角度で詰まらせるコース。
桐嶋が頷いて、投じた。
仁科はそれを見逃した。ストライク。
次に外角低めへのスライダー。春なら確実に引っかけていたコースだ。
仁科は今度も見逃した。ボール。ゾーンを見極めていた。
三球目。また内角へのストレート。今度は少し高め。
仁科がバットを出した。フライ。センターがキャッチした。
アウトを取れた。しかし奏汰には、「取れた」よりも「仁科の春からの変化」の方が収穫だった。
仁科は内角への対応を改善していた。ただし、完全には修正しきれていない。詰まりながらも芯に近い当たりを打てる位置にはなっていないが、反応速度は上がっていた。
「次の打席から修正する」
奏汰はベンチへ戻りながら頭の中で更新した。
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試合は5対1で東都大が快勝した。
浅野哲朗は指名打者として4打数2安打1打点。宣言通り打ってみせた。
試合後、浅野は奏汰に「どうでしたか」と聞いてきた。
「悪くなかった」と奏汰は言った。
浅野が「素直に褒めてくださいよ」と苦笑した。
「褒めた」
「どこがですか」
「悪くなかった、は褒め言葉だ」
浅野が天を仰いだ。「葛城さんの語彙力、なんとかなりませんかね」
「語彙力は十分ある。選んでる」
「最悪だ」と浅野は笑いながら言った。
奏汰はその横顔を見て、思ったより悪くない秋になりそうだと感じた。
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九月の第三週。
スポーツアプリの通知が来た。
『北道ライオンズ・永瀬颯斗、一軍昇格。今週末の試合でリリーフ登板予定』
奏汰はその通知を見て、しばらくスマートフォンを持ったまま動かなかった。
一軍。
プロ野球の一軍のマウンドに、永瀬颯斗が立つ。
頭の中で、中学のグラウンドが浮かんだ。二人でキャッチボールを続けた夕暮れ。永瀬の左腕が振り下ろされる瞬間の、あの独特のフォームの残像。
奏汰は通知を開いた。
記事の短いコメント欄に、ファームコーチの言葉があった。「制球と球威が安定してきた。一軍の打者に通用するボールになってきた」。
「当然だ」と奏汰は思った。永瀬は最初から、そういう投手だった。
問題は、自分だ。
永瀬がプロの一軍のマウンドに立つとき、奏汰はどこにいるのか。
大学のグラウンドで、秋季リーグを戦っている。
それは劣っているわけじゃない。それぞれの道があると、頭ではわかっていた。しかし。
「受けてみたい」
その感情は変わらなかった。
永瀬颯斗のボールを、もう一度受けたい。
それがいつか叶う日のために、今やることがある。
奏汰はスマートフォムを置いて、配球ノートを開いた。
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週末。奏汰は珍しくテレビをつけた。
北道ライオンズの試合が中継されていた。
7回から永瀬がリリーフ登板した。
実況が「ルーキー右腕、永瀬颯斗が登板します」と告げた。
奏汰はテレビを正面から見た。
永瀬のウォームアップ投球。
一球目を見た瞬間、奏汰の右手が無意識に動いた。
「速い」
独り言が出た。
映像越しでもわかる。球の出どころが遅く、ホップ成分が大きい。中学の143キロが、今は150を超えているだろう。プロの一軍捕手が受けるミットの中に、あのボールが収まっている。
永瀬は2イニングを投げて3奪三振、被安打0で抑えた。
テレビが次のバッターの場面に切り替わった。
奏汰はテレビを消した。
部屋が静かになった。
右手の感触が、まだ残っていた。
架空の感触。受けていない球の重さ。
「まだ先だ」と奏汰は言い聞かせた。「今は、今やることをやれ」
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秋季リーグは快調に進んだ。
東都大は5試合を終えて4勝1敗。唯一の敗戦は相馬哲也を擁する芝浦慶文大との第三戦だった。
相馬哲也。中学時代の三塁手。現在は慶文大の主軸打者として、リーグを代表するスラッガーになっていた。
春は対戦がなかった。秋に初めてグラウンドで向かい合った。
相馬の打撃は、中学のときの面影を完全に残していた。インパクトの瞬間に腕が一本になる打ち方。引っ張りの力が異常に強く、流し打ちも精密だった。
奏汰は相馬と三打席対戦した。
一打席目は外角低めのスライダーで打ち取れた。二打席目は同じコースを読まれてレフトへ流された。三打席目はフルカウントから内角へのストレートを選んだが、相馬に完全にタイミングを合わせられ、センターへの二塁打にされた。
「強い」と奏汰は認めた。
その試合は1対2で負けた。相馬の2打点が決勝点になった。
試合後、相馬が奏汰のそばに来た。
「久しぶりだな、葛城」
「ああ」
「お前がいるとは思わなかった。帝星を辞めたって聞いてたから」
「辞めた。一年半後に戻った」
相馬は少し顎を引いた。「そうか」
「お前は変わらないな。打ち方が中学のときのままだ」
「変える必要がなかった。俺の打ち方は最初から正解だった」
相馬は笑わずに言った。自信ではなく、事実として言っていた。
「次は抑える」と奏汰は言った。
「楽しみにしてる」
相馬は短くそう言って、背を向けた。
中学の頃、相馬はあまり喋らなかった。キャプテンの御堂壮馬とは違って、言葉より行動で示すタイプだった。それは今も変わっていないようだった。
「御堂に会ったか」と奏汰は思わず言った。
相馬が振り返った。
「神宮大会で当たるかもしれないな」
相馬の目が少し動いた。何か考えているような間があった。
「……葛城」と相馬は言った。「壮馬は、変わった」
「どう変わった」
「俺が言うより、自分で確かめた方がいい」
それだけ言って、相馬は今度こそ背を向けて歩いていった。
奏汰はその背中を見送った。
「変わった」という言葉が、頭に残った。
御堂壮馬。中学のキャプテン。親友と言えるくらい近かった男。
神宮大会で、もし当たれば。
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秋季リーグ最終戦。
東都大は勝てば優勝、引き分けでも優勝、負けると最終日の結果次第という状況だった。
相手は東都法明大。春に一度対戦している。4番の仁科大河とは春秋を通じて四度目の対戦になる。
試合は序盤から桐嶋が圧倒した。
夏を経て、桐嶋の投球が春よりさらに洗練されていた。肘の管理を奏汰と共有するようになってから、球数の使い方が効率的になり、心理的な消耗が減った。秋になって、桐嶋はより「自分の投球」ができるようになっていた。
「7回を任せます」と奏汰は試合前に桐嶋に言った。「8回から久我に繋ぐ。それだけを考えろ」
「はい」
「肘の状態は」
「今日は問題ない。むしろいい感触です」
「わかった。信じる」
桐嶋が少し目を細めた。「最近、葛城が言ってくれる言葉、正確なんですよね」
「どういう意味だ」
「信じる、って言うとき、本当に信じてる顔してる。前は、どこかで確認しながら信じてる感じがしたけど」
奏汰は少し黙った。「俺も変わったのかもしれない」
「いい変わり方ですよ」
「うるさい」
桐嶋が笑った。
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試合は7回を終えて4対0。
桐嶋は7回94球、被安打3、無失点。完璧な投球だった。
8回から久我が登板した。
久我は夏を経て、明らかに成長していた。縦カーブの制球が安定し、内角への攻めも臆さなくなっていた。浅野の完投を目の前で経験し、「プロ級の投手」を肌で知ったことが、久我の何かを変えていた。
8回を2者連続三振を含む三者凡退。
9回、クローザーの本田が締めた。
4対0で快勝。秋季リーグ優勝。
神宮大会出場が決まった。
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ベンチ前で、部員全員が集まった。
安藤監督が短く言った。「神宮まで三週間ある。今日の勝ち方を忘れるな。個々の課題を潰して、神宮に臨め」
奏汰は少し離れた場所で、スタンドを見た。
陸が来ると言っていた。
探すと、一塁側のスタンドの端に、見慣れた顔があった。
朝比奈陸が、一人で立って試合を見ていた。奏汰と目が合うと、軽く手を振った。
奏汰は頷き返した。
試合後、スタンドの外で陸と合流した。
「優勝おめでとうございます」
「ありがとう」
「桐嶋さん、春よりさらによくなってましたね。球の出どころが安定してる」
「分かるか」
「分かりますよ。センターから投手の背中は全部見えますから」
陸はそう言って、グラウンドの方へ視線を向けた。
「神宮、楽しみにしてます」
「見に来るか」
「もちろん。都市対抗優勝しましたけど、ドラフトはまだ先なんで、今は野球を見て勉強してます。それに」陸は少し言葉を切った。「奏汰さんの試合、できるだけ全部見たい」
奏汰は陸の横顔を見た。
「なんでだ」
「なんでって……好きだから、奏汰さんの野球が」
陸はさらっと言った。照れもなく、当たり前のことのように。
奏汰は少し黙った。
「……来い。チケット取れるかどうかはわからんが」
「自分で取りますよ!」
陸がそう言って笑った。
夜の空気が涼しくなっていた。神宮の銀杏並木が、秋の気配をかすかに匂わせていた。




