サイドスローの哲学
六月二十日。神宮球場。
全日本大学野球選手権準々決勝、東都大学対中京光星大学。
気温は三十度近く。梅雨の晴れ間で、湿気が重くグラウンドに漂っていた。
スタンドには両校の応援が入り、神宮がいつもより賑やかな色をしていた。
試合前のシートノック。奏汰は中京光星のベンチ前に目を向けた。
ウォームアップしている選手の中に、見知った動きをする投手がいた。
浅野巧。
背番号1。
身長は172センチほど。中学から変わっていない。しかし体の厚みが違う。腰回りの安定感と、肩から肘にかけての筋肉の付き方が、長年のサイドスロー投手のそれだった。
ウォームアップのキャッチボールを見ながら、奏汰は観察した。
腕の出し方。肘の使い方。重心の位置。
「やっぱり変わってるな」と奏汰は独り言を言った。
中学のときの浅野は、オーバースローだった。球速がなく、変化球頼みで、それでも丁寧に投げていた。そのフォームが今はほぼ原型をとどめていない。完全にサイドスローに作り変えられていた。
七年かけて、自分の体を作り直したのだ。
浅野がこちらを向いた。
目が合った。
浅野は少し目を細めた。驚いたような、それから穏やかになるような表情だった。小さく手を上げた。
奏汰も、かすかに顎を引いた。
それだけだった。
---
一回表、東都大の攻撃。
浅野が先発マウンドに上がった。
キャッチボールを見ていた奏汰には、今日の浅野の調子が「良い」とわかっていた。腕の振りが迷いなく、リリースポイントが安定している。
「今日はやばいかもしれない」
桐嶋の横で奏汰は言った。
「そんなに厄介ですか」
「お前も体で感じることになる」
東都大の1番打者が打席に入った。
浅野の第一球。
サイドスローから繰り出されたストレートは、右打者の背中方向から来るように見えて、ストライクゾーンに入った。
1番打者がのけぞった。
見逃しストライク。
スタンドがどよめいた。
奏汰は静かに見ていた。
「角度だけじゃない」と奏汰は呟いた。
二球目は外に逃げるスライダー。1番打者が空振り。
三球目は再びストレート。今度はインコース低め。1番打者が詰まって、ショートゴロ。
三球で仕留めた。
2番も三球三振。
3番の桐嶋が打席に入った。桐嶋は左打者なので、浅野のサイドスローは正面からくるように見える。アドバンテージは少しある。
しかし浅野は今度は外角一辺倒でスライダーを使い続けた。四球分の球数で追い込み、最後は内角への高速シュートで詰まらせた。
一回表、三者凡退。
東都大ベンチに、重い空気が漂った。
奏汰は声を出した。「焦るな。浅野の球は今日が初見だ。慣れるのに時間がかかる。慌てるな」
しかし、その言葉が空回りするような感覚もあった。
「慣れる」と言えるほど、単純な投手じゃなかった。
---
試合は桐嶋の好投で、序盤は投手戦になった。
桐嶋は3回まで無失点。東都大打線は浅野に3イニングで1本のヒットも打てなかった。
4回表、東都大の攻撃。
5番の奏汰に打席が回ってきた。
浅野が奏汰を見た。
マウンドの上の浅野の表情は、相変わらず穏やかだった。ただ目だけが、いつもと違う色をしていた。
捕手のサインを確認して、浅野がセットポジションに入った。
第一球。
ストレートが来た。
奏汰はタイミングを合わせようとした。
しかし、体が動かなかった。
打者として「来る」と思った瞬間に球が届いた気がして、バットが出なかった。見逃しストライク。
「速いわけじゃない」と奏汰は頭の中で整理した。「角度と出どころが全部違う。打者として経験したことがない軌道だ」
第二球。
今度はシュートが来た。右打者の内側に食い込んでくる。
反射的にのけぞった。ボール球だったが、体が逃げた。
第三球。
外角スライダー。追いかけてバットを出したが、引っかけてサードゴロ。
打ち取られた。
ベンチに戻る途中、桐嶋に「どうでしたか」と聞かれた。
「難しい」と奏汰は正直に言った。
「打てないですか」
「今日のコンディションでは、簡単には打てない」
桐嶋は少し黙った。「ならこっちが点をやらなければ」
「そうだ」
奏汰は桐嶋の肩を一度叩いた。「お前がゼロで抑えれば、勝機はある。焦れた相手が動く可能性がある。そこを突く」
桐嶋が頷いた。
---
6回、東都大の攻撃。
それまでの5イニングで、東都大は浅野からヒット2本。いずれも内野安打に近い当たりで、クリーンな長打は一本もなかった。
点差は0対0。
6番の久我が打席に立った。
久我は打者としても積極的なタイプで、変化球にも対応できる。
浅野の初球。外角のスライダー。
久我は踏み込んでレフト方向へ弾き返した。
打球がレフト線を転々とした。
ヒット。
東都大ベンチが沸いた。
久我は一塁に立ち、ガッツポーズをした後、すぐに塁を確認する表情に戻った。
次の7番が送りバントを決めて、一死二塁。
8番がフォアボールで一死一二塁。
9番が代打で登場したが、スライダーに空振り三振。
二死一二塁。
1番に打席が回った。
一球目、ストレート。空振り。
二球目、外角スライダー。ファール。
三球目、内角シュート。見逃しストライク。
三振。
イニング終了。
東都大ベンチが静まった。
「抑えられてる」
久我が小さく言った。それは独り言だったが、誰もが同じことを感じていた。
奏汰は次のイニングへ気持ちを切り替えようとした。しかし頭の中では、浅野の配球を解析し続けていた。
ストレート、スライダー、シュート、チェンジアップ。
全部同じフォームから来る。
角度が打者の視界の盲点を突いている。
問題はそこではなく、もう一つ奥にある何かだった。
「読ませない」
奏汰はそれに気づいた。
浅野の配球には、定石がない。右打者に対してもインコースから入ることがある。カウントが有利でも平気でボール球を使う。
これは計算か。それとも、純粋な感覚か。
「浅野は、俺と同じタイプだ」
捕手的な感覚を持つ投手。打者の反応を見ながら、一球一球の判断を変える。データや定石に縛られない配球を、投手が自分でやっている。
「だから読みにくい」
キャッチャーが考えることを、投手がやっている。それに対して奏汰がキャッチャーの目線でパターンを探そうとしても、正確には読めない。
---
7回裏、中京光星の攻撃。
桐嶋がここまで6回をゼロで抑えてきた。球数は92球。肘への意識はまだ出ていないと、試合前に確認していた。
7回、先頭の6番打者にフルカウントから四球を与えた。
奏汰はマウンドへ歩いた。
「肘は」
「問題ない。ただ、さっきの四球は申し訳なかった」
「謝わる必要はない。次を打ち取ればいい。ここで崩れるな」
奏汰は桐嶋の目を見た。
「お前は今日、いい投球をしている。6回で92球、ゼロで来た。それは本物だ。浅野と張り合っている。今崩れたら、全部もったいない」
桐嶋が頷いた。
「続けます」
「ああ」
奏汰はホームベースへ戻った。
次の7番打者にはスライダーでファールを二つ取り、最後はチェンジアップで空振り三振。
8番には内角のストレートでショートゴロ。
6番がニ塁へ進んで二死二塁。
9番。
奏汰はサインを出した。外角低め、スライダー。
桐嶋が投じた。
9番が踏み込んで、逆方向に流し打った。
打球がレフト前に落ちた。
二塁ランナーが走った。
レフトが素早く処理して本塁へ送球した。
クロスプレー。
「アウト!」
間一髪だった。
タッチアップでの失点を防いだ。
奏汰はマスクを脱いで、息を吐いた。
7回、なんとかゼロで凌いだ。
しかし体力的にも精神的にも、桐嶋は限界に近づいていた。
---
8回表、東都大の攻撃。
浅野は8回にもマウンドに上がってきた。
完投する気だ。
奏汰は打席に入りながら、浅野の目を見た。
疲れているはずだ。100球を超えている。しかし目の光は変わっていない。
一球目。
来た瞬間、奏汰には「これまでと違う」とわかった。
チェンジアップ。スピードが明らかに落ちていて、ストライクゾーンの真ん中に来た。
バットを振った。
しかし、体が泳いだ。
完全に泳いで、バットが空を切った。
空振り三振。
奏汰はバットを持ったまま、その場に立った。
打てなかった。
緩い球を、タイミングが合わせられなかった。
ベンチに戻る途中、背後で浅野の足音が聞こえた気がした。錯覚だとわかっていたが、それほど浅野の存在が頭の中を占めていた。
「完敗だ」
奏汰は静かにそれを認めた。
今日の浅野は、今の東都大打線では攻略できない。
---
8回裏。
桐嶋が限界を迎えた。
先頭の1番に四球。2番にヒット。ノーアウト一二塁。
奏汰はマウンドへ歩いた。
今度は球数ではなく、桐嶋の目を確認するためだった。
「肘は」
「大丈夫です」桐嶋の声は静かだった。「でも指先の感覚が少し薄くなってます。制球できなくなってきた」
「続けるか」
桐嶋は一瞬、葛藤した表情を見せた。
「投げたいです。最後まで」
「わかった」と奏汰は言った。「でも次の四球で代える。それは交代のサインじゃなく、守るためだ。わかるか」
桐嶋が頷いた。
奏汰はベンチに向かい、安藤監督に目線を送った。監督は頷き返した。
次の3番に対して、桐嶋は内角へのストレートで詰まらせてショートゴロ。ダブルプレーを取った。
4番への初球、スライダーが大きく外れた。
奏汰はすぐにタイムを取った。
安藤監督がマウンドへ歩いてきた。
桐嶋が静かにボールを渡した。
久我湊が引き継いだ。
久我は4番を三球で三振に取り、5番にはチェンジアップで内野ゴロ。
なんとか無失点で8回を終えた。
---
9回表。
東都大の最後の攻撃。
浅野は9回もマウンドへ上がった。完投を目指している。
1番、2番が凡退。
3番の桐嶋が最後の打席に立った。
桐嶋は二球目のスライダーをファールにした。三球目のシュートを辛うじてバットに当てて、打球がレフトへ飛んだ。
しかしレフトが楽々とキャッチした。
三者凡退。
試合終了。0対0からの延長なし。スコアは0対0のままではなく……失点は8回裏に久我が登板した直後に起きていた。記録上の1失点は久我に課せられたが、実質的にはバッテリー全体の問題だった。
0対1の敗北。
東都大、全日本大学野球選手権準々決勝敗退。
スタンドからため息が漏れた。
東都大ベンチは静かだった。
誰も声を出さなかった。
---
整列が終わった後、浅野巧が奏汰のそばに来た。
「久しぶり、葛城」
「ああ」と奏汰は言った。
浅野の声は中学の頃と変わっていなかった。穏やかで、早口にならない。
「今日は、すごいボールだった」と奏汰は言った。
「ありがとう」浅野は照れることもなく、素直に受け取った。「葛城の配球も読みにくかったよ。桐嶋くんの使い方が巧みで、どこで攻めてくるか全部が嫌だった」
「打たれなかったけどな」
「うん」浅野は笑った。「でも、もし次に会ったら、今日と同じには行かないと思う」
「こっちもそうだ」
二人は少しの間、グラウンドを見た。
「永瀬のこと、聞いてるか」と浅野が言った。
「ニュースでは」
「プロで本物になってるらしいな。俺も追いかけてる。俺はプロに行く」
「ドラフトか」
「今年は難しいかもしれないけど、来年か再来年で必ず行く。それまで光星で投げ続ける」
浅野は静かに、しかし一点の迷いもなく言った。
奏汰はその言葉を聞いて、中学の頃の浅野を思い出した。
永瀬の影で、黙々と自分のボールを磨き続けていたあの背中。
「七年で、ちゃんとなってたな」と奏汰は言った。
浅野が少し目を細めた。「葛城に言われると、嬉しいな」
「素直だな」
「そういうやつだから」浅野は言った。「葛城こそ、戻ってきたんだな。よかった」
「なんで全員そう言うんだ」と奏汰は言った。
「みんな、心配してたから」
浅野はそう言って、チームメイトの元へ戻った。
奏汰は一人、グラウンドに残った。
負けた。
完膚なきまでに、抑えられた。
配球を読もうとした。打者として対応しようとした。しかし浅野の投球は、奏汰の分析を超えてきた。
何が足りなかったか。
「経験だ」
奏汰は答えを出した。
今日の浅野を攻略するには、今日一試合では足りない。あの投球を体で経験して、次の対戦で初めて修正できる。
「次に会ったとき、今日の続きをする」
それは、また全国に戻ってくるという意味だった。
奏汰は神宮のマウンドを見た。
桐嶋がまだそこに立っていた。一人で、マウンドの土を踏みしめるように立っていた。
奏汰は歩いて、桐嶋の横に立った。
「すまなかった」と桐嶋が言った。
「謝るな」
「8回に崩れた。抑えられていれば、延長に持ち込めた」
「お前は今日、120球近く投げてゼロで抑えた。あの失点は久我の問題だ」
「でも」
「お前は十分やった」奏汰は言った。「浅野に打てなかった俺たちの問題だ。次に行け」
桐嶋はしばらく黙った。
「悔しいですね」
「ああ」
「次の全国は、絶対に行きます」
「行く。そのためにまず秋を勝つ」
二人は神宮のマウンドを降りた。
夕方の光が、グラウンドに長い影を作っていた。




