表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『バッテリー・リボーン』  作者: shaaawan


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/7

サイドスローの哲学

六月二十日。神宮球場。


全日本大学野球選手権準々決勝、東都大学対中京光星大学。


気温は三十度近く。梅雨の晴れ間で、湿気が重くグラウンドに漂っていた。


スタンドには両校の応援が入り、神宮がいつもより賑やかな色をしていた。


試合前のシートノック。奏汰は中京光星のベンチ前に目を向けた。


ウォームアップしている選手の中に、見知った動きをする投手がいた。


浅野巧。


背番号1。


身長は172センチほど。中学から変わっていない。しかし体の厚みが違う。腰回りの安定感と、肩から肘にかけての筋肉の付き方が、長年のサイドスロー投手のそれだった。


ウォームアップのキャッチボールを見ながら、奏汰は観察した。


腕の出し方。肘の使い方。重心の位置。


「やっぱり変わってるな」と奏汰は独り言を言った。


中学のときの浅野は、オーバースローだった。球速がなく、変化球頼みで、それでも丁寧に投げていた。そのフォームが今はほぼ原型をとどめていない。完全にサイドスローに作り変えられていた。


七年かけて、自分の体を作り直したのだ。


浅野がこちらを向いた。


目が合った。


浅野は少し目を細めた。驚いたような、それから穏やかになるような表情だった。小さく手を上げた。


奏汰も、かすかに顎を引いた。


それだけだった。


---


一回表、東都大の攻撃。


浅野が先発マウンドに上がった。


キャッチボールを見ていた奏汰には、今日の浅野の調子が「良い」とわかっていた。腕の振りが迷いなく、リリースポイントが安定している。


「今日はやばいかもしれない」


桐嶋の横で奏汰は言った。


「そんなに厄介ですか」


「お前も体で感じることになる」


東都大の1番打者が打席に入った。


浅野の第一球。


サイドスローから繰り出されたストレートは、右打者の背中方向から来るように見えて、ストライクゾーンに入った。


1番打者がのけぞった。


見逃しストライク。


スタンドがどよめいた。


奏汰は静かに見ていた。


「角度だけじゃない」と奏汰は呟いた。


二球目は外に逃げるスライダー。1番打者が空振り。


三球目は再びストレート。今度はインコース低め。1番打者が詰まって、ショートゴロ。


三球で仕留めた。


2番も三球三振。


3番の桐嶋が打席に入った。桐嶋は左打者なので、浅野のサイドスローは正面からくるように見える。アドバンテージは少しある。


しかし浅野は今度は外角一辺倒でスライダーを使い続けた。四球分の球数で追い込み、最後は内角への高速シュートで詰まらせた。


一回表、三者凡退。


東都大ベンチに、重い空気が漂った。


奏汰は声を出した。「焦るな。浅野の球は今日が初見だ。慣れるのに時間がかかる。慌てるな」


しかし、その言葉が空回りするような感覚もあった。


「慣れる」と言えるほど、単純な投手じゃなかった。


---


試合は桐嶋の好投で、序盤は投手戦になった。


桐嶋は3回まで無失点。東都大打線は浅野に3イニングで1本のヒットも打てなかった。


4回表、東都大の攻撃。


5番の奏汰に打席が回ってきた。


浅野が奏汰を見た。


マウンドの上の浅野の表情は、相変わらず穏やかだった。ただ目だけが、いつもと違う色をしていた。


捕手のサインを確認して、浅野がセットポジションに入った。


第一球。


ストレートが来た。


奏汰はタイミングを合わせようとした。


しかし、体が動かなかった。


打者として「来る」と思った瞬間に球が届いた気がして、バットが出なかった。見逃しストライク。


「速いわけじゃない」と奏汰は頭の中で整理した。「角度と出どころが全部違う。打者として経験したことがない軌道だ」


第二球。


今度はシュートが来た。右打者の内側に食い込んでくる。


反射的にのけぞった。ボール球だったが、体が逃げた。


第三球。


外角スライダー。追いかけてバットを出したが、引っかけてサードゴロ。


打ち取られた。


ベンチに戻る途中、桐嶋に「どうでしたか」と聞かれた。


「難しい」と奏汰は正直に言った。


「打てないですか」


「今日のコンディションでは、簡単には打てない」


桐嶋は少し黙った。「ならこっちが点をやらなければ」


「そうだ」


奏汰は桐嶋の肩を一度叩いた。「お前がゼロで抑えれば、勝機はある。焦れた相手が動く可能性がある。そこを突く」


桐嶋が頷いた。


---


6回、東都大の攻撃。


それまでの5イニングで、東都大は浅野からヒット2本。いずれも内野安打に近い当たりで、クリーンな長打は一本もなかった。


点差は0対0。


6番の久我が打席に立った。


久我は打者としても積極的なタイプで、変化球にも対応できる。


浅野の初球。外角のスライダー。


久我は踏み込んでレフト方向へ弾き返した。


打球がレフト線を転々とした。


ヒット。


東都大ベンチが沸いた。


久我は一塁に立ち、ガッツポーズをした後、すぐに塁を確認する表情に戻った。


次の7番が送りバントを決めて、一死二塁。


8番がフォアボールで一死一二塁。


9番が代打で登場したが、スライダーに空振り三振。


二死一二塁。


1番に打席が回った。


一球目、ストレート。空振り。


二球目、外角スライダー。ファール。


三球目、内角シュート。見逃しストライク。


三振。


イニング終了。


東都大ベンチが静まった。


「抑えられてる」


久我が小さく言った。それは独り言だったが、誰もが同じことを感じていた。


奏汰は次のイニングへ気持ちを切り替えようとした。しかし頭の中では、浅野の配球を解析し続けていた。


ストレート、スライダー、シュート、チェンジアップ。


全部同じフォームから来る。


角度が打者の視界の盲点を突いている。


問題はそこではなく、もう一つ奥にある何かだった。


「読ませない」


奏汰はそれに気づいた。


浅野の配球には、定石がない。右打者に対してもインコースから入ることがある。カウントが有利でも平気でボール球を使う。


これは計算か。それとも、純粋な感覚か。


「浅野は、俺と同じタイプだ」


捕手的な感覚を持つ投手。打者の反応を見ながら、一球一球の判断を変える。データや定石に縛られない配球を、投手が自分でやっている。


「だから読みにくい」


キャッチャーが考えることを、投手がやっている。それに対して奏汰がキャッチャーの目線でパターンを探そうとしても、正確には読めない。


---


7回裏、中京光星の攻撃。


桐嶋がここまで6回をゼロで抑えてきた。球数は92球。肘への意識はまだ出ていないと、試合前に確認していた。


7回、先頭の6番打者にフルカウントから四球を与えた。


奏汰はマウンドへ歩いた。


「肘は」


「問題ない。ただ、さっきの四球は申し訳なかった」


「謝わる必要はない。次を打ち取ればいい。ここで崩れるな」


奏汰は桐嶋の目を見た。


「お前は今日、いい投球をしている。6回で92球、ゼロで来た。それは本物だ。浅野と張り合っている。今崩れたら、全部もったいない」


桐嶋が頷いた。


「続けます」


「ああ」


奏汰はホームベースへ戻った。


次の7番打者にはスライダーでファールを二つ取り、最後はチェンジアップで空振り三振。


8番には内角のストレートでショートゴロ。


6番がニ塁へ進んで二死二塁。


9番。


奏汰はサインを出した。外角低め、スライダー。


桐嶋が投じた。


9番が踏み込んで、逆方向に流し打った。


打球がレフト前に落ちた。


二塁ランナーが走った。


レフトが素早く処理して本塁へ送球した。


クロスプレー。


「アウト!」


間一髪だった。


タッチアップでの失点を防いだ。


奏汰はマスクを脱いで、息を吐いた。


7回、なんとかゼロで凌いだ。


しかし体力的にも精神的にも、桐嶋は限界に近づいていた。


---


8回表、東都大の攻撃。


浅野は8回にもマウンドに上がってきた。


完投する気だ。


奏汰は打席に入りながら、浅野の目を見た。


疲れているはずだ。100球を超えている。しかし目の光は変わっていない。


一球目。


来た瞬間、奏汰には「これまでと違う」とわかった。


チェンジアップ。スピードが明らかに落ちていて、ストライクゾーンの真ん中に来た。


バットを振った。


しかし、体が泳いだ。


完全に泳いで、バットが空を切った。


空振り三振。


奏汰はバットを持ったまま、その場に立った。


打てなかった。


緩い球を、タイミングが合わせられなかった。


ベンチに戻る途中、背後で浅野の足音が聞こえた気がした。錯覚だとわかっていたが、それほど浅野の存在が頭の中を占めていた。


「完敗だ」


奏汰は静かにそれを認めた。


今日の浅野は、今の東都大打線では攻略できない。


---


8回裏。


桐嶋が限界を迎えた。


先頭の1番に四球。2番にヒット。ノーアウト一二塁。


奏汰はマウンドへ歩いた。


今度は球数ではなく、桐嶋の目を確認するためだった。


「肘は」


「大丈夫です」桐嶋の声は静かだった。「でも指先の感覚が少し薄くなってます。制球できなくなってきた」


「続けるか」


桐嶋は一瞬、葛藤した表情を見せた。


「投げたいです。最後まで」


「わかった」と奏汰は言った。「でも次の四球で代える。それは交代のサインじゃなく、守るためだ。わかるか」


桐嶋が頷いた。


奏汰はベンチに向かい、安藤監督に目線を送った。監督は頷き返した。


次の3番に対して、桐嶋は内角へのストレートで詰まらせてショートゴロ。ダブルプレーを取った。


4番への初球、スライダーが大きく外れた。


奏汰はすぐにタイムを取った。


安藤監督がマウンドへ歩いてきた。


桐嶋が静かにボールを渡した。


久我湊が引き継いだ。


久我は4番を三球で三振に取り、5番にはチェンジアップで内野ゴロ。


なんとか無失点で8回を終えた。


---


9回表。


東都大の最後の攻撃。


浅野は9回もマウンドへ上がった。完投を目指している。


1番、2番が凡退。


3番の桐嶋が最後の打席に立った。


桐嶋は二球目のスライダーをファールにした。三球目のシュートを辛うじてバットに当てて、打球がレフトへ飛んだ。


しかしレフトが楽々とキャッチした。


三者凡退。


試合終了。0対0からの延長なし。スコアは0対0のままではなく……失点は8回裏に久我が登板した直後に起きていた。記録上の1失点は久我に課せられたが、実質的にはバッテリー全体の問題だった。


0対1の敗北。


東都大、全日本大学野球選手権準々決勝敗退。


スタンドからため息が漏れた。


東都大ベンチは静かだった。


誰も声を出さなかった。


---


整列が終わった後、浅野巧が奏汰のそばに来た。


「久しぶり、葛城」


「ああ」と奏汰は言った。


浅野の声は中学の頃と変わっていなかった。穏やかで、早口にならない。


「今日は、すごいボールだった」と奏汰は言った。


「ありがとう」浅野は照れることもなく、素直に受け取った。「葛城の配球も読みにくかったよ。桐嶋くんの使い方が巧みで、どこで攻めてくるか全部が嫌だった」


「打たれなかったけどな」


「うん」浅野は笑った。「でも、もし次に会ったら、今日と同じには行かないと思う」


「こっちもそうだ」


二人は少しの間、グラウンドを見た。


「永瀬のこと、聞いてるか」と浅野が言った。


「ニュースでは」


「プロで本物になってるらしいな。俺も追いかけてる。俺はプロに行く」


「ドラフトか」


「今年は難しいかもしれないけど、来年か再来年で必ず行く。それまで光星で投げ続ける」


浅野は静かに、しかし一点の迷いもなく言った。


奏汰はその言葉を聞いて、中学の頃の浅野を思い出した。


永瀬の影で、黙々と自分のボールを磨き続けていたあの背中。


「七年で、ちゃんとなってたな」と奏汰は言った。


浅野が少し目を細めた。「葛城に言われると、嬉しいな」


「素直だな」


「そういうやつだから」浅野は言った。「葛城こそ、戻ってきたんだな。よかった」


「なんで全員そう言うんだ」と奏汰は言った。


「みんな、心配してたから」


浅野はそう言って、チームメイトの元へ戻った。


奏汰は一人、グラウンドに残った。


負けた。


完膚なきまでに、抑えられた。


配球を読もうとした。打者として対応しようとした。しかし浅野の投球は、奏汰の分析を超えてきた。


何が足りなかったか。


「経験だ」


奏汰は答えを出した。


今日の浅野を攻略するには、今日一試合では足りない。あの投球を体で経験して、次の対戦で初めて修正できる。


「次に会ったとき、今日の続きをする」


それは、また全国に戻ってくるという意味だった。


奏汰は神宮のマウンドを見た。


桐嶋がまだそこに立っていた。一人で、マウンドの土を踏みしめるように立っていた。


奏汰は歩いて、桐嶋の横に立った。


「すまなかった」と桐嶋が言った。


「謝るな」


「8回に崩れた。抑えられていれば、延長に持ち込めた」


「お前は今日、120球近く投げてゼロで抑えた。あの失点は久我の問題だ」


「でも」


「お前は十分やった」奏汰は言った。「浅野に打てなかった俺たちの問題だ。次に行け」


桐嶋はしばらく黙った。


「悔しいですね」


「ああ」


「次の全国は、絶対に行きます」


「行く。そのためにまず秋を勝つ」


二人は神宮のマウンドを降りた。


夕方の光が、グラウンドに長い影を作っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ