六月の雨、七回の攻防
六月中旬。春季リーグも終盤に入ってきた。
東都大は5勝1敗。首位の東京英栄大とは勝ち点で並んでいた。
この試合に勝てばリーグ優勝が確定する。負ければ最終節まで持ち越しになる。
相手は東都法明大。先週の試合では勝っているが、相手は「打倒東都」を掲げてローテーションを整えてきていた。
試合前夜、奏汰はノートを開いた。
法明大の打線を一番から九番まで書き出し、前回対戦時のデータを振り返る。4番の仁科大河は前回の弱点を修正してくる可能性が高い。実際、水上もそうだったように、中学時代からの知り合いたちは一打席ごとに適応してくる賢い打者ばかりだ。
「今回は同じ手は使えない」
奏汰は鉛筆を持ち直し、仁科の次の対策を考え始めた。
内角への意識が高いなら、今度は外角一辺倒ではなく、内角のボール球から入って外角へ展開する。初球の内角ボール球で仁科のスイングを引き出し、その反応を見て第二球を決める。
打者の反応を見て次の球を決める。それは配球の基本中の基本だが、実際にできる捕手は少ない。データや定石に引っ張られて、目の前の打者ではなく「想定した打者」に向かって配球してしまう。
奏汰が中学で全国制覇したとき、それができていたのは、永瀬という絶対的な武器があったからだった。
永瀬なら、どのカウントからでも三振が取れる。だから奏汰は打者の反応を見て、球種を選ぶことができた。
今の桐嶋は、永瀬には及ばない。まだ及ばない。でも。
「でも、組めるか」
奏汰は鉛筆を止めた。
桐嶋のボールを思い浮かべた。ストレートの角度、スライダーの曲がり幅、チェンジアップの抜け感。今の桐嶋の全武器を、奏汰は配球に組み込めている気がし始めていた。
それは、永瀬のときとは違う感覚だった。
永瀬は才能で解決した。桐嶋は奏汰との配球で解決しようとしている。どちらが良いというわけではないが、桐嶋のやり方の方が、奏汰には「バッテリー」の感覚がある。
「一緒に組んでる感じがする」
独り言を言って、奏汰は少し驚いた。
そんなことを思うのは、初めてだった。
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試合当日。神宮は雨の予報が外れて、曇り空だった。
スタンドには大学野球には珍しい数の観客が入っていた。五月からの桐嶋の成績がスポーツメディアに取り上げられた影響もあるだろう。
一回表、東都大の攻撃。奏汰は6番に入っていた。
相手の先発は、前回と同じ右の技巧派。球速は130キロ台だが、制球が精密で、変化球の種類が多い。
1番から5番が作ったランナーなし、1アウト2塁の場面で奏汰の打席が来た。
相手バッテリーのサインは読めない。しかし投手の癖は、前回の対戦で把握していた。ランナーを気にするときに右肩が少し下がる。変化球のサインが出たとき、グラブの角度が微妙に変わる。
奏汰は一球目を待った。
インコース低め、ストレート。見逃してストライク。
奏汰はその一球で、今日の相手バッテリーの意図を読んだ。前回は外角中心だったが、今日はインコースから入ってきた。データを修正してきた。
ならばこちらも修正する。
二球目。また内角、今度は少し高め。奏汰は踏み込んで、引っ張り方向に打った。
打球がレフト線を転々とした。2ベースヒット。ランナーが還ってきた。
1点先制。
ベンチから久我の声が聞こえた。「葛城さん!!」
奏汰は2塁ベース上で息を整えた。打てる喜びよりも、相手の配球を読んで実行できた手応えの方が大きかった。
それが奏汰の野球だ。
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試合は序盤から動いた。
桐嶋は初回から3者連続三振と圧巻の立ち上がりを見せ、3回終了時点で東都大が3対0とリードした。
しかし4回、桐嶋が仁科大河に捕まった。
仁科は前回と全く違う構えで打席に入ってきた。スタンスを広くして、前傾を抑えた。内角への対応幅を広げた構えだ。
「修正してきた」と桐嶋がマウンドで奏汰に言った。
「わかってる」と奏汰は返した。「今日の仁科はデータが使えない。反応を見て決める。初球、内角ボール球から入る」
「わかりました」
奏汰はサインを出した。内角、ボール球。
仁科は反応しなかった。見極めた。
内角のボール球を無視できる打者は、外角を狙っている。
奏汰の中でシナリオが変わった。
外角のスライダー。
仁科が踏み込んだ。打球は鋭い、ライト前へのライナーだった。
「打たれた」奏汰は素直に思った。
それでいい。打者が正しく対応してきたなら、捕手は次の対応をすればいい。
次の打席で修正できるかどうかが、仕事の本番だ。
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7回。試合は3対2と、東都大の1点リードになっていた。
法明大が猛反撃し、5回に1点、6回に1点を返してきた。特に6回の失点は、桐嶋の球数が増えてきたところで、奏汰が感じ始めていた「肘への意識」が配球の積極性を少し削いでいた結果だった。
奏汰は7回のマウンド前に一度タイムを取った。
「肘、どうだ」
桐嶋は少し間を置いた。「今のところ問題ない。でも、少し張り感がある」
「何球で出てきた」
「93球。いつもより少し重い」
奏汰は考えた。安藤監督は球数制限を設けていないが、桐嶋の状態を考えれば、このイニングで交代が妥当かもしれない。
しかし桐嶋の目を見た。
「投げたいです」と桐嶋は言った。「あと一イニング。このリードを守りたい」
「3つアウトを取って帰ってこい」と奏汰は言った。「一人でも四球を出したら、即交代。それでいいか」
「はい」
「お前への同情じゃない。四球は肘に一番負荷がかかる。それだけだ」
桐嶋が小さく笑った。「はい、わかってます」
7回の法明大の攻撃。7番から始まる下位打線。
桐嶋は7番を5球でショートゴロ、8番を3球で三振、9番を4球でファーストゴロに打ち取った。
12球。四球ゼロ。
桐嶋がベンチへ戻ってきたとき、奏汰は道具を外しながら言った。「よかった」
「よかった、ですか」
「三者凡退。球数も少ない。よかった」
桐嶋はしばらく黙って、それから「ありがとうございます」と言った。
「礼はいらない」
「受け取ってください」
奏汰は黙った。
ベンチで久我が「桐嶋さん、すごかったっす!!」と叫んでいた。
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8回からは久我湊が登板した。
久我は8回を完璧に抑えて、9回にクローザーの4年生・本田がマウンドに上がった。
東都大は3対2のまま逃げ切り、春季リーグ優勝を決めた。
スタンドが沸いた。
珍しいことに、試合が終わった後もしばらく観客が残っていた。桐嶋の登板を目当てに来たファンらしかった。
部員たちが集まって歓声を上げる中、奏汰は少し離れた場所に立っていた。
「嬉しくないんですか」
桐嶋が横に来た。
「嬉しい」と奏汰は言った。「ただ」
「ただ?」
「全国はここじゃない」
桐嶋は奏汰の横顔を見た。
「全日本大学野球選手権ですね」
「そこで勝てなければ意味がない」
桐嶋は少し考えてから言った。「葛城は、何のために野球をやってるんですか」
奏汰は即答しなかった。
何のために。
プロに行きたいのか。それとも、ただ球を受けていたいのか。永瀬に追いつきたいのか。陸や壮馬や、散り散りになった中学の仲間たちと、もう一度グラウンドで会いたいのか。
「まだわからない」
「それ、いつも言ってますね」
「ああ」
「でも」と桐嶋は言った。「さっき、『最後まで受けたい』って言いましたよね。それって、理由じゃないですか」
奏汰は桐嶋を見た。
桐嶋は真っ直ぐに奏汰を見ていた。
「投手のボールを最後まで受け続けること。それが葛城の野球なんじゃないかと思って」
奏汰は何も言わなかった。
遠くで、久我が大声で「葛城さーん!写真撮りましょうよー!」と叫んでいた。
奏汰はそちらへ歩き出した。
背中で、桐嶋の声が聞こえた。「逃げましたね」
「逃げてない」と奏汰は前を向いたまま言った。「考え中だ」
桐嶋がまた笑った。
夕方の神宮の空に、薄い雲が流れていた。
全日本大学野球選手権まで、あと二週間。
奏汰の右手のミットは、今日も球の重さを覚えていた。




