北の空、プロの球
五月の神宮は、風が強い。
外野からのバックネット方向への風は、フライを伸ばし、カーブの曲がりを狂わせる。捕手にとって、今日の風向きは頭に入れておかなければならない情報のひとつだった。
奏汰はスコアボードの上の旗を確認しながら、マスクを被った。
東京明倫大との春季リーグ初戦。相手のクリーンナップは全員が体格のいい関西出身で、内角への対応が上手いと事前の映像で確認していた。特に3番の水上凌。
水上の名前を見たとき、奏汰は少し止まった。
水上凌。二塁手だったあいつが、今は明倫の主軸打者か。
中学時代のチームメイトだ。ポジションが変わったのか、それとも野手として残ったのか。試合で直接確認することになるとは思っていなかった。
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初回の明倫の攻撃。
1番、2番を桐嶋がそれぞれ三球で打ち取り、3番に水上凌が入った。
左打者。構えが変わっていた。中学のときの水上を奏汰は知っていたが、打者としての水上は初めて見る。前傾姿勢で、トップの位置が高く、引っ張りに強いタイプの構えだった。
奏汰はサインを出した。外角低めのスライダー。
桐嶋が投じる。
水上はそれを見逃した。ボール。
もう一度、外角のスライダー。
今度は水上が踏み込んだ。打球はライト前へ綺麗に弾んだ。
ヒット。
奏汰はマスクの中で、素直に「打たれた」と思った。
初球のスライダーを見逃して、同じ球を踏み込んで打った。一球で外角への対応を修正した。
「こいつ、賢い」と奏汰は独り言を言った。
次の4番に対しては、水上を一塁に置いた状態でのリードが必要になる。内角への意識が高い打者には、外角を徹底する配球が定石だが、今日の風は外角への変化球を甘くする。ならば内角のストレートで詰まらせる方向か。
奏汰はサインを出した。
インコース高め、ストレート。
桐嶋が頷いた。
球が来た。4番打者が振り遅れて、詰まったゴロが一塁方向へ転がった。ダブルプレー。
イニング終了。
桐嶋がベンチへ戻りながら奏汰に言った。「3番、手強いですね」
「ああ。変化球への対応が一打席で終わった。次から直球系で攻める」
「わかりました」
奏汰は水上の背中を見た。一塁でアウトになった水上が、ベンチへ戻りながら振り返った。
目が合った。
水上の目が少し動いた。驚いたような、それから納得したような。
奏汰は無言でマスクを被り直した。
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試合は2対0で東都大が勝利した。
桐嶋は8回を2安打無失点。9回は久我が締めた。奏汰は3打数1安打。打撃はまだ戻り切っていないが、それよりも配球の感覚が予想以上に機能していたことの方が大きかった。
試合後、グラウンドの隅で水上が待っていた。
「葛城」
奏汰は立ち止まった。
水上凌は、中学のときより一回り体が大きくなっていた。肩幅が増して、下半身に安定感がある。野球をずっと続けてきた体だとわかる。
「久しぶり」と奏汰は言った。
「ああ。まさかお前がいるとは思わなかった」
「こっちも」
水上は少し間を置いた。「帝星辞めたって聞いたとき、正直驚いた」
「そうか」
「全国制覇したバッテリーの片割れだったから」
「永瀬が全国制覇した。俺はただ受けてた」
水上は首を振った。「そんなことない。あの配球は葛城がいたから機能してた。永瀬一人だったら、あそこまで崩れなかったかもしれないけど、あそこまで相手を支配もできなかった」
奏汰は何も言わなかった。
「まあ、今日は負けたけどな」水上は軽く笑った。「3番で打てたのは一本だけだったし、ちゃんとリードされてた。葛城、戻ってきたんだな」
「まだわからない」
「何度目だそれ」水上がおかしそうに言った。「毎回その答えだったろ、中学のときも。でも結局いつも一番最後まで残って、一番しっかりやってた」
奏汰は水上の顔を見た。
同じチームで三年間やっていた男の顔だ。
「お前は変わらないな」と奏汰は言った。
「お前も変わってない。表情が固いとこ」
水上はそう言って、手を上げた。「また試合で会おう。次は打つ」
「阻止する」
「楽しみにしてる」
水上が去って、奏汰は空を見上げた。
五月の夕暮れが、神宮の上を橙色に染めていた。
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その夜、スマートフォンに通知が来た。
スポーツニュースのアプリからだった。
『北道ライオンズ・永瀬颯斗、ファームで今季初完封』
奏汰はしばらく画面を見ていた。
開かないでいようと思った。
三秒ほどで、開いた。
記事は短かった。二軍の試合で7回を投げ、84球、被安打2、無四球、8奪三振。コーチのコメントとして「制球が安定してきた。近いうちに一軍で使える」とあった。
写真が一枚。
白いユニフォームに、見慣れない背番号。それでも、投げ終わった後のフォームの形が、奏汰の知っている永瀬颯斗だった。
左腕を体の前に流す、独特のフォローフォロー。中学のときから変わっていない。
奏汰は画面を閉じた。
「速くなってるだろうな」
一人で言った。
あの頃すでに143キロだった。今なら150を超えているはずだ。プロの捕手が受けているボールの重さを、奏汰は右手で想像した。
「受けられるか」
答えのない問いだった。
ただ、受けたい、という気持ちが、消えていなかった。
それが奏汰には、少しだけ意外だった。
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翌週。春季リーグ第二戦。
相手は東京法明大。明倫より守備が堅く、投手力があるチームだった。
試合前のキャッチボール中、桐嶋が口を開いた。
「相手の4番、仁科大河って選手知ってますか」
奏汰は手を止めた。「知ってる。俺の元チームメイトだ」
「また中学の仲間ですか」
「一塁手だった」
「打ち方、わかりますか」
「七年前の話だ。今は別人かもしれない」
「でも何か手がかりになるかもしれない」
奏汰は少し考えた。「仁科は内角に強かった。引っ張る打球を持ち球にしてた。今も同じなら、外角低めへの変化球で打ち取れる可能性が高い」
桐嶋が頷いた。「試してみましょう」
試合は法明大の先発右腕が予想以上に良く、序盤は桐嶋との投げ合いになった。
4回、仁科大河が第一打席に入った。
背番号4。大きい。180センチは超えている。中学のときの仁科より明らかに体が仕上がっている。
しかし構えを見た瞬間、奏汰はわかった。
内角への意識が高い。手首の返しが早く、インコースを引っ張るために前傾姿勢が染みついている。
外角低めのスライダー。
仁科は踏み込んだが、引っかけてサードゴロ。
第二打席。ランナーを置いた場面。奏汰は今度は外角への変化球を囮にして、内角への速球で仁科を詰まらせた。フライアウト。
試合後、仁科が奏汰のところへ来た。
「葛城。知ってたか、俺のこと」
「顔は変わった。打ち方は変わってなかった」
仁科は少し笑った。「七年前の癖を覚えてるのかよ」
「忘れない」
「相変わらずだな」仁科は肩をすくめた。「東都にいるとは思わなかった。帝星で何があったか知らないけど、こっちで続けてるなら、まあ……よかった」
仁科の言い方は、水上よりもぶっきらぼうで、だからかえって真剣さが滲んでいた。
「次はもっとちゃんと打つ」と仁科は言った。
「打てると思うなよ」と奏汰は言った。
仁科が「上等だ」と言って、ベンチへ戻った。
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春季リーグが折り返しに差しかかった六月初旬。
東都大は3勝1敗で首位と一ゲーム差の2位だった。
桐嶋の調子は上がり続けていた。防御率1.02。奪三振率は12を超えている。大学野球の話題として、いくつかのスポーツメディアが「東都の新星・桐嶋蓮」を取り上げ始めていた。
しかし奏汰には、気になることがあった。
桐嶋が試合の後、妙に消耗している。体力的な問題ではなく、精神的な重さのようなものが、試合後の顔に出る。
以前に浅野が言っていた言葉が頭に残っていた。
「桐嶋のこと、ちゃんと見てやってくれ。あいつ、表に出さないけど、ここまで来るのにかなりきてる」
その「かなりきてる」の意味を、奏汰はまだ聞いていなかった。
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六月の第二週の練習後、奏汰は桐嶋と二人でグラウンドに残った。
他の部員はいなくなっていた。日が長い季節だが、それでも七時を過ぎると空が暗くなってくる。グラウンドの照明が点いていた。
「浅野から聞いた」と奏汰は切り出した。「お前が松ヶ丘から編入した理由、本当のことを話せ」
桐嶋は少しの間黙った。
「松ヶ丘でも成績は出てたんだろ」と奏汰は続けた。「防御率、奪三振率、どれも大学野球トップクラスだった。なのにわざわざ環境を変えた。捕手が弱かったとは言ってたが、それだけじゃないだろ」
桐嶋が顔を上げた。
「松ヶ丘で、1年の終わりに肘を痛めたんです」
奏汰は黙って聞いた。
「UCL部分断裂。手術はしなかったけど、半年の投球禁止でした。復帰後は球速が3キロ落ちて、フォームも変えないといけなかった。コーチと合わなくて、チームに居づらくなって」
「今の肘は」
「ほぼ戻ってます。フォームを変えてから、むしろ以前より負担が減った。でも……正直、怖いんです」
奏汰は桐嶋の顔を見た。
いつも真っ直ぐな桐嶋の目が、今夜は少し揺れていた。
「試合の終盤、球数が増えてくると、どこかで肘を気にしてる自分がいる。意識しないようにしてるんですけど、その意識がまた意識を呼んで」
「それで試合後に消耗するのか」
桐嶋は小さく頷いた。
「俺に言わなかった理由は」
「言ったら、手加減されると思って。葛城に球数を管理されることは必要だと思ってますけど、同情で管理されたくなかった」
奏汰は少し考えてから言った。「お前は俺を誰だと思ってる」
「え」
「同情で配球するキャッチャーに見えるか」
桐嶋は奏汰の顔を見て、少し眼を細めた。
「見えないです」
「なら話せ。お前の状態を全部話せ。試合前、試合中、試合後。肘に違和感があれば即座に俺に伝えろ。サインを変える。球数を調整する。それが俺の仕事だ」
桐嶋はしばらくの間、グラウンドを見ていた。
「怖いんです、もう一度壊れることが」
「わかった」と奏汰は言った。
「え?」
「お前が怖いのはわかった。俺はそれを知った上で組む。お前の怖さも計算に入れてリードする」
桐嶋が奏汰を見た。
「それって」
「それだけだ」と奏汰は言った。「特別なことじゃない。投手の状態を把握するのはキャッチャーの仕事だ。肘のことも、怖いという感情も、全部お前の状態の一部だ」
しばらく沈黙があった。
グラウンドの照明が白く、二人の影を地面に落としていた。
桐嶋が深く息を吸って、吐いた。
「わかりました」
「次の試合から、違和感があれば球一球ごとに教えろ」
「はい」
「あと」と奏汰は言った。「俺が肘のことを気にするのは、お前への同情じゃない。お前のボールを最後まで受けたいからだ」
桐嶋は一瞬、目を丸くした。
それからゆっくりと、笑った。
これまでで一番、力の抜けた笑い方だった。
「……葛城、意外とかっこいいこと言いますね」
「うるさい」
「いや、本当に。照れてますか、今」
「照れてない」
「顔、赤いですよ」
「照明のせいだ」
桐嶋がまた笑った。
奏汰はそっぽを向いたが、右手のミットを握り直したのは、誰にも気づかれなかった。




