東和の「8番センター」
五月の第二週土曜日。東都大は東和スチール野球部との練習試合を組んでいた。
都市対抗野球の常連チームとの練習試合は、大学野球部にとって貴重な機会だ。社会人は体が違う。打球の強さも、投手の球速も、大学野球とは別の次元になる。
奏汰はその試合前日の夜、スマートフォンを見ていた。
着信履歴に、見知った番号があった。
折り返すと、二コール で繋がった。
「奏汰さん」
声でわかった。
「陸」
「久しぶりっすね。元気でした?」
朝比奈陸の声は相変わらずのんびりしていた。電話口なのに、体を傾けて話しているのが目に浮かぶようだった。
「明日、練習試合に来るのか」
「あ、知ってたんですか」と陸は言って、少し笑った。「監督に名簿もらって、葛城奏汰って名前見たとき、びっくりしましたよ。東都大に入ったんですね」
「一年半遅れで」
「野球、戻ったんですね」
「まだわからない」と奏汰は言った。これで二度目の台詞だった。
「でも戻ってるじゃないですか」
「……そうかもな」
陸が「よかった」と言った。声に、本当に安心したような色があった。
「俺、ずっと心配してたんですよ。野球辞めてから、奏汰さんのことずっと。連絡しようか迷って、でもなんか余計なことしたらって思って」
「気を遣いすぎだ」
「奏汰さんが気を遣わせるんですよ」
奏汰は何も言わなかった。陸の言葉が刺さる場所に届いていた。
「明日、久しぶりに試合で会いましょう。俺、レフト方向に打つの得意になりましたよ」
「ライト方向じゃないのか。センターなら逆方向が基本だろ」
「それが天才の発想ですよ」
「天才は自分で言わない」
陸が笑った。
通話を切って、奏汰は天井を見た。
陸の声を聞いて、何かが少し緩んだ気がした。一年半、ひとりで固く閉じていたものが、端の方からほぐれてきているような感覚。
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翌日、東和スチールのメンバーが大学グラウンドに現れた。
体が違う。一目でわかる。大学生の体と、社会人として二三年鍛えた体では、まるでシルエットが違う。特に内野手は腰回りの安定感が別次元で、外野手は足首から上の筋肉の付き方が洗練されていた。
奏汰は東和のスタメン表を確認した。
8番センター 朝比奈陸
スタメン、それも8番か。試合で見るのは中学以来だ。
「知ってる人いますか」
後ろから久我が覗き込んできた。
「幼馴染だ」
「え!?あの東和スチールに幼馴染が?」
「一個下だ。お前たちと同い年かもしれない」
久我が「どんな選手ですか」と聞いてきたが、奏汰は「見てろ」とだけ言った。
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試合は東都大の攻撃から始まった。
先発は桐嶋。初回、東和の先頭打者に対してカウント1-1から内角低めにストレートで見逃し三振。続く2番には外角へのスライダーで打ち取り、3番には四球を与えたが4番を内角高めのツーシームで詰まらせた。
一回を3アウト1四球で無失点。
「いい立ち上がりだ」と安藤監督が言った。
奏汰はベンチに引き上げながら、桐嶋に言った。「四球は誘ってたのか」
「はい」桐嶋は静かに言った。「3番より4番を内角で攻めたかったんで、3番に球数使うより次に備えた方がいいと判断しました」
「サインと違う判断をするときは、事前に話せ」
「はい。次からそうします」
桐嶋は反論しなかった。奏汰の言葉を受け取って、考えて、頷く。その素直さが、奏汰には信頼できると感じさせた。
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3回、東和スチールの攻撃。
先頭の7番が死球で出塁した。続く8番が打席に入った。
朝比奈陸。
身長171センチ、体重67キロ。数字だけ見れば線が細い。しかし打席に入った瞬間の佇まいが、他の打者と全然違った。
リラックスしているのに、足がしっかり地面を掴んでいる。スタンスが自然で、無駄な力が全く入っていない。構えだけで、奏汰には「この打者は速球に強い」とわかった。
奏汰は桐嶋にサインを出した。外角低めスライダー。
桐嶋が投じた。
陸は一歩外にステップして、引っ張らずにレフト方向へ流し打った。
打球がレフト線を転々とした。ランナーが3塁を蹴ってホームイン。陸は2塁で止まった。
「レフトに打つ、か」奏汰は呟いた。
昨夜の電話の言葉の意味が、今わかった。
スライダーを外に逃げながらレフト方向に流す。引っ張らないことで、変化球への対応幅を広げている。しかも打球の角度が低く、外野の頭を越えず、確実にヒットになるコースを計算していた。
「あいつ……」
奏汰はマスクの中で小さく笑った。
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試合は結局、5対3で東都大が勝利した。
桐嶋は6回3失点でマウンドを降り、後半は久我湊が3回をゼロで抑えた。久我の制球が安定していたのは、ここ二週間で縦カーブが武器になってきたからだった。
試合終了後、整列のとき、陸が奏汰の前を通りかかった。
「奏汰さん、久しぶりです」
「相変わらず細いな」
「細くないですよ。ちゃんと筋肉ついてます」
陸はそう言って、ユニフォームの袖をまくって腕を見せた。確かに、中学のときより明らかに体が仕上がっていた。
「チームは?」
「いいとこですよ。年上の人に揉まれながら、自分のペースで伸びてる感じがします」
「プロは」
「考えてます。ドラフトまでに結果出さないといけないんで、今年、都市対抗で結果出したい」
陸は軽い口調で言うが、目が全然軽くなかった。
「お前の打撃、変わったな」と奏汰は言った。
「奏汰さんが教えてくれたことを、ずっとやり続けただけですよ」
奏汰は首をかしげた。「俺、何か言ったか」
「中学のとき、ストレートだけに絞るな、変化球に合わせてストレートを打て、って言ってたじゃないですか。あれがずっと頭に残ってて」
奏汰は少し考えた。言った記憶はあるようなないような。しかしそれを実践し続けて、社会人でも通用する打者に育てたのは陸自身だ。
「お前は賢い」と奏汰は言った。
「奏汰さんがそう言うなら、嬉しいっすね」
陸はにやりと笑って、チームメイトのところへ戻っていった。
後ろ姿を見ながら、奏汰は思った。
あいつの「センター」は、ここにいる。プロでも十分に通用する。
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夜、ひとりで道具を片付けていると、桐嶋が戻ってきた。
「さっきの人、朝比奈選手でしたね」
「幼馴染だ」
「知ってます。調べました」桐嶋は少し申し訳なさそうに言った。「練習試合の相手チームは一応確認するんで。朝比奈陸、去年の東和の都市対抗メンバーの中で一番守備範囲が広くて、出塁率がチームトップでした」
「それを俺に言う意味は」
桐嶋は少し考えてから言った。「あの人がプロを目指してるのなら、僕たちも負けてられないと思って」
奏汰は桐嶋を見た。
「お前は毎回そういうことを言うな」
「そういうことしか言えないんで」
「……悪くない」
桐嶋が少し笑った。
奏汰は道具をバッグに詰めながら、陸のことを考えた。
あいつはプロを目指して、社会人野球という道を選んだ。永瀬は高卒でプロに入った。自分は一年半遠ざかっていた。
それぞれの場所で、それぞれのやり方で、野球と向き合っている。
奏汰は右手を見た。
今日の試合、12回のキャッチングで一度もパスボールをしなかった。盗塁阻止は2回中2回。配球は3失点したが、打たれたのはすべてストレート系で、桐嶋の球がバレた回だった。次回への修正点はある。
ただ、グラウンドに立っている間、何も迷わなかった。
それが、久しぶりに感じる、捕手としての手応えだった。
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その夜、奏汰はノートを開いた。
高校を辞めてから、一度も書いていなかった「配球ノート」だ。
白紙のページに、今日の試合を振り返り始めた。
東和の打者別の傾向。桐嶋のボールの特性。久我の縦カーブの効果。
書きながら、頭の中で打者が動いた。架空の試合が、ノートの上で進行した。
奏汰が気づいたのは、書き始めてから一時間後だった。
この感覚、もう一年半も感じていなかった。
野球を考えることが、怖くなかった。
むしろ、楽しかった。
ペンを置いて、奏汰は窓の外を見た。五月の夜風が、網戸を揺らした。
遠くで電車の音がして、消えた。
奏汰は再びノートに向かい、次の試合に向けた配球プランを書き始めた。
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一週間後。春季リーグ第一戦が、神宮球場で行われた。
相手は東京明倫大。東京六大学系の名門で、今年は打線が強力だと聞いていた。
外野スタンドに、少数だが観客が入っていた。
奏汰はホームベース後方にしゃがみ、グラウンドを見渡した。
神宮の土の感触。遠くのフェンス。スコアボードに刻まれる「東都大」の文字。
「緊張してますか」後ろから桐嶋が言った。
「してない」
「僕は少しだけしてます」
「それでいい。緊張を力に変えろ」
「葛城らしいコメントですね」
「うるさい」
桐嶋が小さく笑った。
プレイボールの声がかかった。
奏汰は深く息を吸った。
ミットを右手に、マスクを被り、キャッチャーズギアを確認する。
一年半と半月。
帰ってきたのかもしれないと、初めて思った。
ベンチから安藤監督の声がした。「葛城、頼む」
奏汰はマスクを被ったまま、静かに頷いた。
そして、しゃがんだ。
球が来るのを待つ、あの姿勢で。




