ミットの重さ、名前の重さ
翌朝、奏汰はグラウンドに行く前に、実家へ電話をかけた。
「ミット、送ってほしい」
母親は「あら」と言った。驚いたような、予想していたような、その中間のような声だった。
「野球、またやるの?」
「わからない」
嘘ではなかった。本当にまだわからなかった。ただ、桐嶋のボールを受けた昨夜の感触が、右手の奥に残っていた。それだけが事実だった。
「すぐ送るね」
母親はそれ以上何も聞かなかった。その軽さが、奏汰には少し刺さった。引き止めてほしいわけでも、心配してほしいわけでもなかったが、何かひとこと言ってくれればとも思った。
「……ありがとう」
通話を切って、奏汰は部屋を出た。
---
野球部の監督・安藤啓二は、奏汰が想像していたより若い男だった。
三十代半ばか後半か。かつてプロ経験もあると部員から聞いた。細身で目つきが涼しく、話し方に無駄がない。奏汰の経歴を聞いて、少し眉を動かしたが、すぐに元の表情に戻った。
「帝星を辞めた理由は?」
「合わなかった」
「投手と? それともチームと?」
奏汰は少し間を置いた。「どちらも、かもしれません」
安藤は腕を組んで、奏汰をしばらく見た。
「正捕手はいない。2年の浅野と交互にやってもらうことになるが、最終的にはレギュラーは実力で決める。入部してから最低二週間は見学と基礎練のみ。その後、判断する」
「了解です」
「一つだけ聞く。お前は本当にやる気があるか?」
奏汰は安藤の目を見た。
「受けてみたい投手がいます」
安藤はそれで十分だったようで、頷いた。「明日から来い」
---
翌日から、奏汰の大学生活は一変した。
朝六時起きで自主練。八時から授業。昼休みにグラウンドへ顔を出し、午後の授業が終わればすぐ部室へ。日が暮れるまで練習して、帰宅後は映像で他大学の打者データを見る。
一年半のブランクは、思ったより深かった。
筋肉は落ちていた。特に内もも。捕手の構えに必要な粘りが、最初の週は全く出なかった。蹲踞姿勢でいると膝が笑い、30球も受けると腰に来た。
しかし手の感覚だけは、戻っていた。
それが救いだった。
三日目、奏汰は初めて部員全員と対面した。
部員は二十三人。うち投手が七人。捕手は名目上二人だが、もう一人の浅野哲朗は三年で、肩は強いが捕手としての技術よりも打撃に特化したタイプだった。
「葛城奏汰です。キャッチャーです。よろしくお願いします」
短い挨拶。部員たちの反応はまちまちだった。帝星出身と聞いて期待の目を向けるものもいれば、「なんで辞めた奴が今更」という雰囲気を隠さない者もいた。
そういう目は、慣れていた。
一人だけ、やたら明るい顔で近づいてきた男がいた。
「葛城さんですよね! 久我湊です。投手です。よろしくお願いします!」
一年生にしては体格がいい。身長は奏汰と同じくらい、178センチほど。右腕で、ぱっと見でフォームの綺麗さがわかる体の使い方をしていた。
「久我」と奏汰は名前を繰り返した。「どこ出身?」
「神奈川です!市立東浜中って知ってます?」
奏汰の動きが止まった。
「……知ってる」
「そうなんですか!?僕の二個上に超有名なバッテリーがいたって聞いて、ずっと憧れてたんですよね。葛城奏汰と永瀬颯斗のバッテリー。あ、永瀬さんは今年ドラフト1位でしたよね!すごいっすよね!」
奏汰は少し間を置いてから言った。「そうだな」
「葛城さんって、その葛城奏汰さんですよね?もしかして!?」
「もしかして、だ」
久我が「うわあ」と言って後ろに一歩引いた。感激しているのか怖がっているのかわからない顔だった。
「受けてもらえますか、僕のボール」
「明日、見る」
それだけ言って奏汰は背を向けたが、久我が「ありがとうございます!」と大声で言うのが背中に届いた。
---
久我湊のボールを最初に受けたのは、入部四日目の昼練だった。
久我はすぐに測定できた。
最速134キロ。帝星の先発投手陣と比べると数字は見劣りするが、腕の振りが嘘をつかない。球速の割に打者の手元で伸びる感覚がある。変化球はスライダーとカーブ。制球がまだ荒い。
しかし何より目についたのは、マウンドに立ったときの顔だった。
他の場面では常にゆるく笑っている久我が、投球練習に入ると、すっと目が細くなった。打者を見る目ではなく、捕手を見る目。奏汰のサインに対して一球ごとに考えているのが、表情からわかった。
「カーブ、抜ける」と奏汰は受けながら言った。
「はい、わかってます。でも直し方がわからなくて」
「リリースで手首が寝てる。縦に切るイメージで」
久我が頷き、次の一球を投げた。
抜け方が半分に減った。
「もう一球」
久我が投げた。今度は綺麗に縦に割れた。
「それ」と奏汰は言った。「その感覚を覚えろ」
久我が「やばい」と呟いた。「なんで一言で直るんですか」
「直ってない。今日だけ偶然できた。百球やって、その中で十球できたら直ったと言え」
久我がまた「やばい」と言った。今度は違うトーンで。
---
二週間後、実家からミットが届いた。
段ボールを開けると、古いキャッチャーズミットが布に包まれて入っていた。中学三年のときに親に買ってもらったやつ。高校でも使い続けて、辞めるとき一緒に実家へ送ったもの。
奏汰はそれを取り出して、右手にはめた。
サイズが合う。体に馴染む。革の匂いが、中学のグラウンドを連れてくる。
「まだ使えるな」
独り言を言って、奏汰はミットを磨いた。
翌日、そのミットを持ってグラウンドに行くと、桐嶋が目を細めた。
「それ、ずっと使ってたやつですか」
「中学から」
「いいミットですね」
「高校で磨かなくなった。少し硬くなってる」
「でも、手に合ってる」
桐嶋はそれだけ言って、マウンドに上がった。
その日のブルペンは、今まで一番よかった。
奏汰のミットの中に収まる感触が、借り物とは全然違った。革が手の形を覚えていて、ボールの重さを吸収する角度が自然に出る。捕球音が乾いて高くなった。
「今日、球が違う」と桐嶋が言った。
「ミットが違う」と奏汰は返した。
「それだけで変わるんですか」
「捕手のミットは体の一部だ」
桐嶋はしばらく黙って、それから言った。「奏汰さんって、捕手が好きなんですね」
「さん、はいらない」と奏汰は言った。「葛城でいい」
「じゃあ、葛城が捕手を好きなの、わかります」
奏汰は返事をしなかった。
返事をしなかったことが、答えだった。
---
四月末。東都大の春季リーグが始まる二週間前。安藤監督から奏汰に声がかかった。
「スタメンキャッチャーで行く。桐嶋と組ませる。浅野には事前に話してある」
「了解です」
「一つだけ言っておく。お前が帝星で何があったかは知らん。ここで何があったかだけを見る」
奏汰は頷いた。
それで十分だった。
---
部室に戻ると、浅野哲朗が道具の手入れをしていた。
三年生。180センチ、体格がよく、打者として見れば迫力がある。しかし表情には、どこか割り切れていないものが滲んでいた。
「聞いてると思うが」と奏汰は言った。
浅野は手を止めなかった。「聞いた」
「悪い」
「謝らなくていい」浅野は静かに言った。「実力だろ。俺もわかってた、自分の捕手としての限界は」
奏汰は黙った。
「ただ一つだけ言わせてほしい」
「何だ」
浅野がようやく手を止めて、奏汰を見た。目に、怒りではなく、複雑な真剣さがあった。
「桐嶋のこと、ちゃんと見てやってくれ。あいつ、表に出さないけど、ここまで来るのにかなりきてる」
「何かあったのか」
浅野は少し間を置いた。「俺から話すことじゃない。ただ、受け止める準備だけしとけ」
それだけ言って、浅野は道具の手入れを再開した。
奏汰は部室を出て、グラウンドを見渡した。
桐嶋が一人で走っていた。誰もいないグラウンドを、一定のペースで黙々と。
**登場人物メモ**
> - 久我 湊:東都大1年・投手・東浜中の後輩。明るく努力家。縦カーブが武器になりつつある。
> - 浅野 哲朗:東都大3年・捕手→打者転向受け入れ中。キャリアの転換点に立つ。※東浜中の浅野巧とは別人。
> - 朝比奈 陸:東和スチール・中堅手。奏汰の幼馴染で1学年下。社会人からプロを目指す。




