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『バッテリー・リボーン』  作者: shaaawan


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2/7

ミットの重さ、名前の重さ

翌朝、奏汰はグラウンドに行く前に、実家へ電話をかけた。


「ミット、送ってほしい」


母親は「あら」と言った。驚いたような、予想していたような、その中間のような声だった。


「野球、またやるの?」


「わからない」


嘘ではなかった。本当にまだわからなかった。ただ、桐嶋のボールを受けた昨夜の感触が、右手の奥に残っていた。それだけが事実だった。


「すぐ送るね」


母親はそれ以上何も聞かなかった。その軽さが、奏汰には少し刺さった。引き止めてほしいわけでも、心配してほしいわけでもなかったが、何かひとこと言ってくれればとも思った。


「……ありがとう」


通話を切って、奏汰は部屋を出た。


---


野球部の監督・安藤啓二は、奏汰が想像していたより若い男だった。


三十代半ばか後半か。かつてプロ経験もあると部員から聞いた。細身で目つきが涼しく、話し方に無駄がない。奏汰の経歴を聞いて、少し眉を動かしたが、すぐに元の表情に戻った。


「帝星を辞めた理由は?」


「合わなかった」


「投手と? それともチームと?」


奏汰は少し間を置いた。「どちらも、かもしれません」


安藤は腕を組んで、奏汰をしばらく見た。


「正捕手はいない。2年の浅野と交互にやってもらうことになるが、最終的にはレギュラーは実力で決める。入部してから最低二週間は見学と基礎練のみ。その後、判断する」


「了解です」


「一つだけ聞く。お前は本当にやる気があるか?」


奏汰は安藤の目を見た。


「受けてみたい投手がいます」


安藤はそれで十分だったようで、頷いた。「明日から来い」


---


翌日から、奏汰の大学生活は一変した。


朝六時起きで自主練。八時から授業。昼休みにグラウンドへ顔を出し、午後の授業が終わればすぐ部室へ。日が暮れるまで練習して、帰宅後は映像で他大学の打者データを見る。


一年半のブランクは、思ったより深かった。


筋肉は落ちていた。特に内もも。捕手の構えに必要な粘りが、最初の週は全く出なかった。蹲踞姿勢でいると膝が笑い、30球も受けると腰に来た。


しかし手の感覚だけは、戻っていた。


それが救いだった。


三日目、奏汰は初めて部員全員と対面した。


部員は二十三人。うち投手が七人。捕手は名目上二人だが、もう一人の浅野哲朗は三年で、肩は強いが捕手としての技術よりも打撃に特化したタイプだった。


「葛城奏汰です。キャッチャーです。よろしくお願いします」


短い挨拶。部員たちの反応はまちまちだった。帝星出身と聞いて期待の目を向けるものもいれば、「なんで辞めた奴が今更」という雰囲気を隠さない者もいた。


そういう目は、慣れていた。


一人だけ、やたら明るい顔で近づいてきた男がいた。


「葛城さんですよね! 久我湊です。投手です。よろしくお願いします!」


一年生にしては体格がいい。身長は奏汰と同じくらい、178センチほど。右腕で、ぱっと見でフォームの綺麗さがわかる体の使い方をしていた。


「久我」と奏汰は名前を繰り返した。「どこ出身?」


「神奈川です!市立東浜中って知ってます?」


奏汰の動きが止まった。


「……知ってる」


「そうなんですか!?僕の二個上に超有名なバッテリーがいたって聞いて、ずっと憧れてたんですよね。葛城奏汰と永瀬颯斗のバッテリー。あ、永瀬さんは今年ドラフト1位でしたよね!すごいっすよね!」


奏汰は少し間を置いてから言った。「そうだな」


「葛城さんって、その葛城奏汰さんですよね?もしかして!?」


「もしかして、だ」


久我が「うわあ」と言って後ろに一歩引いた。感激しているのか怖がっているのかわからない顔だった。


「受けてもらえますか、僕のボール」


「明日、見る」


それだけ言って奏汰は背を向けたが、久我が「ありがとうございます!」と大声で言うのが背中に届いた。


---


久我湊のボールを最初に受けたのは、入部四日目の昼練だった。


久我はすぐに測定できた。


最速134キロ。帝星の先発投手陣と比べると数字は見劣りするが、腕の振りが嘘をつかない。球速の割に打者の手元で伸びる感覚がある。変化球はスライダーとカーブ。制球がまだ荒い。


しかし何より目についたのは、マウンドに立ったときの顔だった。


他の場面では常にゆるく笑っている久我が、投球練習に入ると、すっと目が細くなった。打者を見る目ではなく、捕手を見る目。奏汰のサインに対して一球ごとに考えているのが、表情からわかった。


「カーブ、抜ける」と奏汰は受けながら言った。


「はい、わかってます。でも直し方がわからなくて」


「リリースで手首が寝てる。縦に切るイメージで」


久我が頷き、次の一球を投げた。


抜け方が半分に減った。


「もう一球」


久我が投げた。今度は綺麗に縦に割れた。


「それ」と奏汰は言った。「その感覚を覚えろ」


久我が「やばい」と呟いた。「なんで一言で直るんですか」


「直ってない。今日だけ偶然できた。百球やって、その中で十球できたら直ったと言え」


久我がまた「やばい」と言った。今度は違うトーンで。


---


二週間後、実家からミットが届いた。


段ボールを開けると、古いキャッチャーズミットが布に包まれて入っていた。中学三年のときに親に買ってもらったやつ。高校でも使い続けて、辞めるとき一緒に実家へ送ったもの。


奏汰はそれを取り出して、右手にはめた。


サイズが合う。体に馴染む。革の匂いが、中学のグラウンドを連れてくる。


「まだ使えるな」


独り言を言って、奏汰はミットを磨いた。


翌日、そのミットを持ってグラウンドに行くと、桐嶋が目を細めた。


「それ、ずっと使ってたやつですか」


「中学から」


「いいミットですね」


「高校で磨かなくなった。少し硬くなってる」


「でも、手に合ってる」


桐嶋はそれだけ言って、マウンドに上がった。


その日のブルペンは、今まで一番よかった。


奏汰のミットの中に収まる感触が、借り物とは全然違った。革が手の形を覚えていて、ボールの重さを吸収する角度が自然に出る。捕球音が乾いて高くなった。


「今日、球が違う」と桐嶋が言った。


「ミットが違う」と奏汰は返した。


「それだけで変わるんですか」


「捕手のミットは体の一部だ」


桐嶋はしばらく黙って、それから言った。「奏汰さんって、捕手が好きなんですね」


「さん、はいらない」と奏汰は言った。「葛城でいい」


「じゃあ、葛城が捕手を好きなの、わかります」


奏汰は返事をしなかった。


返事をしなかったことが、答えだった。


---


四月末。東都大の春季リーグが始まる二週間前。安藤監督から奏汰に声がかかった。


「スタメンキャッチャーで行く。桐嶋と組ませる。浅野には事前に話してある」


「了解です」


「一つだけ言っておく。お前が帝星で何があったかは知らん。ここで何があったかだけを見る」


奏汰は頷いた。


それで十分だった。


---


部室に戻ると、浅野哲朗が道具の手入れをしていた。


三年生。180センチ、体格がよく、打者として見れば迫力がある。しかし表情には、どこか割り切れていないものが滲んでいた。


「聞いてると思うが」と奏汰は言った。


浅野は手を止めなかった。「聞いた」


「悪い」


「謝らなくていい」浅野は静かに言った。「実力だろ。俺もわかってた、自分の捕手としての限界は」


奏汰は黙った。


「ただ一つだけ言わせてほしい」


「何だ」


浅野がようやく手を止めて、奏汰を見た。目に、怒りではなく、複雑な真剣さがあった。


「桐嶋のこと、ちゃんと見てやってくれ。あいつ、表に出さないけど、ここまで来るのにかなりきてる」


「何かあったのか」


浅野は少し間を置いた。「俺から話すことじゃない。ただ、受け止める準備だけしとけ」


それだけ言って、浅野は道具の手入れを再開した。


奏汰は部室を出て、グラウンドを見渡した。


桐嶋が一人で走っていた。誰もいないグラウンドを、一定のペースで黙々と。



**登場人物メモ**

> - 久我くが みなと:東都大1年・投手・東浜中の後輩。明るく努力家。縦カーブが武器になりつつある。

> - 浅野あさの 哲朗てつろう:東都大3年・捕手→打者転向受け入れ中。キャリアの転換点に立つ。※東浜中の浅野巧とは別人。

> - 朝比奈あさひな りく:東和スチール・中堅手。奏汰の幼馴染で1学年下。社会人からプロを目指す。


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