再会は、雨の日に
登場人物
- **葛城 奏汰** 主人公。キャッチャー。中学時代は全国制覇を経験したが、高校で挫折し野球を離れた。大学2年生。
- **永瀬 颯斗** 中学時代のバッテリーパートナー。圧倒的な才能を持つ左腕。甲子園最強校・聖栄学園に進学し、高卒でプロ入り。
- **桐嶋 蓮** 大学で偶然再会するライバル校のエース。現在は大学野球界のトップ投手。
## プロローグ ――捕手の手は、嘘をつかない
ミットが鳴る音というのは、他のどんな音とも違う。
バットの快音でも、スパイクが土を蹴る音でもない。革と革がぶつかり合い、空気を押しつぶし、球場全体に響き渡るあの一音。
捕手だけが知っている音だ。
葛城奏汰は、大学の空きグラウンドのベンチに腰かけたまま、右手の親指をじっと見ていた。
かつてその手は、永瀬颯斗のボールを受け続けた。
最速143キロ。中学生としては化け物じみたストレート。カーブ、スライダー、チェンジアップ――永瀬の投げるものはすべて、奏汰のミットへ吸い込まれるように収まった。
あの感触を、指が覚えていた。今でも夢を見る。
満員のスタンド。「市立東浜中」のユニフォーム。外野スタンドから降り注ぐ声援。そして、マウンドの永瀬が奏汰を見て、かすかに頷く。あの瞬間を、何百回繰り返して夢に見ただろう。
しかし奏汰が目を覚ますと、そこには野球のない現実があった。
大学2年生、19歳。葛城奏汰は今、社会学部の平均的な学生として、つまらない毎日を送っていた。
サークルには入らなかった。野球部の勧誘は断った。グラウンドの近くは避けて歩く。
それが、「挫折した人間」の正しい作法だと、奏汰は思っていた。
見なければいい。聞かなければいい。忘れれば、痛くない。
そう信じて生きてきた1年半だった。
四月の雨は意地悪だ。
傘を持ってこなかった奏汰は、大学のグラウンド裏の軒下に駆け込み、スマートフォンで雨雲レーダーを確認した。あと20分は止まらない。
「最悪だ」
小さく呟いて、コンクリートの壁にもたれかかる。
グラウンドの向こうで、野球部の練習が続いていた。雨天練習のためか、室内練習場に切り替えているらしく、数人がランニングシューズのまま廊下を走っていく。奏汰はそっちを見ないようにして、視線をスマートフォンに落とした。
「雨、ひどいっすね」
声をかけられて顔を上げると、見知らぬ男が軒下に飛び込んできた。
大きい。奏汰よりも頭半分は背が高く、細身に見えて肩幅がある。濡れたTシャツが体に張り付いていて、野球で鍛えたとわかる体つきが透けて見えた。年は同じくらいか、一つ上か。
「ほんとですね」奏汰は短く返した。
男は息を整えながら、濡れた前髪をかき上げた。どこかで見たような、見ていないような。奏汰は記憶の引き出しを漠然と探った。
「ここ、野球部のグラウンドですよね」男は言った。「見学に来たんですけど、タイミング悪くて」
「見学?」
「はい。他大学からです。今年、編入試験受けて入ったんで、まだ部に正式には入ってなくて」
編入。ということは、どこかの大学に一度入っていた、ということだ。
「どこから?」
「松ヶ丘大です」
奏汰の手が止まった。
松ヶ丘大。神奈川の強豪校。一昨年の大学野球春季リーグで、圧倒的な成績を残したチーム。そしてそのエースは――
「桐嶋、蓮」
口から名前が出た。男が振り返り、少し目を丸くした。
「そうです。知ってました?」
「……名前くらいは」
嘘をついた。知っているどころじゃない。
高校2年の春。奏汰が最後に公式戦のグラウンドに立った日。相手のエースが桐嶋蓮だった。
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高校進学のとき、奏汰は迷わなかった。
永瀬颯斗とのバッテリーで全国の頂点に立った。自分たちなら高校でもやれる。そういう根拠のない自信が、奏汰を東京の強豪校・帝星高校への進学に向かわせた。
問題は、永瀬がいなかったことだ。
永瀬は奏汰に何も言わず、甲子園最強と呼ばれる聖栄学園に進んだ。「お前とは別の道を行く」と、卒業式の日にたった一言だけ言って。
奏汰は置いていかれた気分で、それでも前を向こうとした。
帝星は強かった。1年からレギュラーを狙える環境があった。しかし、現実は甘くなかった。
全国制覇した中学の捕手として、周囲の期待は大きかった。コーチも、チームメイトも、「葛城なら当然できる」という目で見た。しかし奏汰には、永瀬颯斗という圧倒的な基準があった。
永瀬のボールを受けてきた奏汰の手は、他の投手のボールを「物足りない」と感じてしまう。それはリードにも出た。永瀬なら三振を取れるコース、永瀬なら打者を抑えられる配球――永瀬の投球を前提に発達した奏汰の捕手としての感覚が、他の投手との歯車を狂わせた。
それでも1年の秋まではなんとかやれていた。
転機は2年の春だった。
県大会準決勝。相手は桐嶋蓮を擁する横浜湊高校。
桐嶋のボールを奏汰は初めて生で見た。
最速152キロ。完璧なコントロール。しかもその日の桐嶋は特別で、9回を1安打完封、帝星の打線を完全に沈黙させた。14奪三振。打者は誰も有効な当たりを打てなかった。
試合そのものは0対1の惜敗だった。
しかし奏汰を壊したのは、試合の敗北より別のことだった。
ベンチに引き上げる途中、奏汰はちらりと桐嶋のほうを見た。
桐嶋は涼しい顔をしていた。疲弊した様子もなく、あれだけ投げた後なのに体の緊張がほぐれるように笑っている。そして桐嶋の後ろを歩いていた捕手が、桐嶋の肩に手を置いて何か話しかけていた。
あの距離感。
あの信頼。
奏汰には、それがなかった。
帝星のエースとの関係は、最後まで「仕事上のパートナー」を超えられなかった。永瀬との間にあった、言葉を超えたつながりのようなものが、奏汰には見つけられなかった。
夏の大会前に、奏汰は監督室を訪ねた。
「野球、辞めます」
監督は何も言わなかった。しばらくして、「そうか」とだけ言った。
その一言が、奏汰には余計に重かった。引き留めてもらえるとは思っていなかったが、まるで予想していたかのような反応に、自分の浅さを突きつけられた気がした。
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「葛城、奏汰さんですよね」
桐嶋の声が、記憶の扉を閉じた。
奏汰は顔を上げた。桐嶋が奏汰をじっと見ていた。
「あなたのこと、知ってます。帝星の2番手捕手だった人。2年春の準決勝、覚えてます」
「2番手じゃない」奏汰は反射的に言った。「……1年の秋から先発だった」
「そうでしたっけ」桐嶋は悪意なく言った。「すみません、確かめたことなかったんで」
悪意がなかったのはわかる。それが余計に、刺さる。
「あなたはそのあと、野球辞めたんですよね」
「なんで知ってる」
「永瀬颯斗と同じバッテリーだったから、気になってたんです。永瀬は今年、北道ライオンズに入りましたよね。同期のドラフト1位で」
奏汰は黙った。
永瀬颯斗のドラフト1位指名は、スポーツニュースのトップを飾った。高校通算での完投記録、聖栄での甲子園制覇、そして驚異的な奪三振率。誰もが認める逸材だった。
奏汰はそのニュースを、スマートフォンの画面で一度だけ見て、すぐに閉じた。
「俺に何の用だ」
「野球、もう一回やりませんか」
雨音が大きくなった。
桐嶋は奏汰から視線を逸らさなかった。
「俺、松ヶ丘じゃ物足りなくなったんで編入してきました。この大学の野球部なら、もっと上を目指せると思って。俺はプロに行く。絶対に行く」
「それが俺と何の関係がある」
「あの試合、あなたが帝星の捕手じゃなかったら、もう少し苦しんでたと思うんで」
奏汰は眉を寄せた。
「俺は負けた側だ」
「わかってます」桐嶋は言った。「でも、あなたのリードは面白かった。内角への出し方、カウントの作り方、配球の緩急。正直、2年生の捕手であそこまでやられるとは思ってなかった。だから最後まで、力で捻じ伏せるしかなかった」
力で捻じ伏せた。そう言い切れる投手が、目の前に立っている。
奏汰は桐嶋を正面から見た。身長186センチ、細身だが柔軟性のある体。利き腕は右のはずだが、左手の使い方が自然で、全身を上手く使う投げ方をするのだろうと、捕手としての感覚が自動的に読み取っていた。
まずい。体が、まだ覚えている。
「俺はもう野球やってない」
「そうですか」桐嶋は特に残念そうでもなく言った。「でも、うちの部、捕手が弱いんですよ。2軍にもいないくらいで。もし気が向いたら、一度見に来てください」
そう言って、桐嶋は雨の中に歩き出した。傘もなく、ずんずんと濡れながら。
「ちょっと待て」奏汰は声をかけた。「傘くらい借りて行け」
「大丈夫です。濡れても死にませんから」
桐嶋は振り向かずに言って、そのままグラウンドの方へ消えていった。
奏汰は軒下に残って、雨粒がコンクリートを叩く音を聞いていた。
右手の親指が、じくりと疼いた。
古傷ではなかった。ずっと眠っていた何かが、目を覚ましかけているような感覚だった。
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その夜、奏汰は自分の部屋で天井を見ていた。
ロフトベッドの上。薄暗い部屋。窓の外では雨がまだ続いていた。
頭の中で、桐嶋の言葉が繰り返した。
「あなたのリードは面白かった」
馬鹿にされたのか。同情されたのか。それとも本気で言ったのか。
高校2年の春に奏汰が辞めてから、野球絡みで心が動いたのは初めてだった。それが悔しかった。もう関係ないはずなのに、と。
スマートフォンを手に取り、何となく検索した。
「桐嶋蓮 松ヶ丘大 野球」
記事がいくつか出てきた。昨年のリーグ戦の成績。防御率0.98。奪三振率は圧倒的で、リーグMVP。一部からはドラフト上位候補とも言われていた。
「編入してきた理由があるのか」
奏汰は呟いた。松ヶ丘でその成績なら、プロからの評価はすでに高いはずだ。なぜわざわざ環境を変える必要があった。
次に、別の名前を検索した。
「永瀬颯斗 北道ライオンズ」
オープン戦の記録が出てきた。登板機会はまだ少ないが、すでにファームで150キロを超えるボールを投げているらしい。コーチのコメントに「将来のエース候補」という言葉があった。
奏汰はスマートフォンを置いた。
そして、中学時代に使っていたキャッチャーズミットのことを思い出した。
あれは実家に置いてきた。高校を辞めるとき、全部の道具を実家に送った。もう使わないと思って。
「…………」
奏汰は長い間、天井を見ていた。
雨音が静かになっていった。
気づいたら、スマートフォンで実家の母親にメッセージを打っていた。
「ミット、まだある?」
返信はすぐ来た。
「あるよ。どうしたの?」
奏汰はしばらく画面を見ていた。それから返信した。
「なんでもない。捨てないでおいて」
送信してから、自分が何を期待しているのかわからなくなった。
桐嶋蓮のことを嫌いかと言われたら、そうでもない。むしろあの真っ直ぐさが鬱陶しいくらいに気になる。
野球のことを忘れたかと言われたら、嘘になる。毎日忘れようとして、毎日忘れられていなかった。
永瀬颯斗のことを恨んでいるかと言われたら――。
奏汰は目を閉じた。
「球、返せよ」と言いたかった。お前が行ってしまったから、俺はここにいる。お前がいなくなったから、俺の手は空のままだ。
しかし、そんなことを言える立場じゃないのも、わかっていた。
永瀬は最初から「別の道を行く」と言っていた。奏汰が一人でその言葉を引きずっただけで、永瀬には永瀬の歩むべき道があった。
だから恨めない。恨めなくて、だから余計に、捨てられなかった。
ロフトから降りて、クローゼットを開ける。
高校時代に持ってきて、そのまま放置していた鞄の中に、使い古したグローブが一つだけあった。捕手用ではなく、ただの練習用の内野手グローブ。高校1年の初めに使っていたやつ。
奏汰はそれを取り出して、右手にはめた。
革の匂いが鼻をついた。
「……硬くなってる」
誰に言うでもなく呟いて、グローブを外し、また鞄に戻した。
次の日、奏汰は野球部のグラウンドへ足を向けた。
練習を見るだけのつもりだった。ただ確認したかっただけだ。桐嶋蓮が言ったことが本当かどうか、捕手が本当にいないのかどうか。
それだけのつもりだった。
グラウンドのフェンス越しに、ノック練習を見た。捕手が構えている。大柄な3年生らしいが、スローイングが荒く、配球の組み立てより先にサインを出すのが雑だとわかった。
桐嶋がブルペンで投げていた。相手は補助の選手で、本格的な受け手ではない様子だった。
奏汰はフェンスに指をかけて、桐嶋のフォームを見た。
右投げ。前の記事の通り。体の回転が大きく、リリースポイントが打者から見えにくい。体重移動がなめらかで、肘の角度がいい。腕が遅れて出てくる、いわゆる「タメ」のある投げ方だ。
球が速いだけじゃない。
奏汰の手がフェンスを強く握った。
桐嶋が奏汰に気づいて、軽く手を上げた。
奏汰は反射的に、頷き返していた。
受けてみたい、と思った。
その衝動が、自分でも意外なくらい、はっきりとそこにあった。
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放課後、奏汰は野球部の部室を訪ねた。
監督に話を聞きたかったが、部室にいたのは桐嶋だけだった。
「来るとは思ってなかったです」桐嶋は言った。「というか、思ってました」
「どっちだよ」
「思ってたけど、来たら素直に嬉しいほうです」
奏汰は部室を見回した。ユニフォームが並び、バットケースが積まれ、野球の道具の匂いがした。懐かしいとも思わなかった。ただ、体が自然とその空間に収まった。
「正式に入部しろとは言いません」桐嶋は続けた。「でも、俺のボールを一度でも受けてみてください。それで何も感じなかったら、もう来なくていいです」
「一度でも受けたら、引き返せないかもしれないぞ」
奏汰は自分で言っておいて、苦くなった。本音が出た。
桐嶋は笑った。
「それが狙いです」
「最悪だな」
「投手なんてみんなそういうもんです」
奏汰は少し黙って、それから言った。
「ミット、貸せ」
桐嶋が部室の棚から古いキャッチャーズミットを取り出した。奏汰はそれを右手にはめた。
すぐにわかった。サイズが違う。奏汰の手より小さい。それでも、革の感触が手のひらに広がって、体の奥で何かのスイッチが入る音がした。
「行きましょう」桐嶋が立ち上がった。
二人は誰もいないグラウンドに出た。
夕方の斜光の中、奏汰はホームベース後方にしゃがんだ。
1年半ぶりの構え。膝が地面に近い、あの低い姿勢。
マウンドの桐嶋が奏汰を見た。
奏汰はミットを構えた。
何も考えなかった。
ただ、受ける。
桐嶋が振りかぶった。
ボールが来た。
バン、と乾いた音が鳴った。
奏汰の手がじんと痺れた。
速い。予想より速い。ストレートだけで145を超えている。しかもコースが内角低めに綺麗に決まっていた。
奏汰はミットをそのままにして、ボールを握り込んだ。
体が、覚えていた。
構えの角度、体重のかけ方、ミットの向き――1年半のブランクなど関係なかった。肉体が勝手に動いた。捕手としての記憶は、消えていなかった。
「もう一球」
奏汰は返球した。
桐嶋がサインを要求するように目で聞いてきた。
奏汰は右手で外角低めにサインを出した。
桐嶋が少し驚いた顔をした。それから、頷いた。
外角低めに、スライダーが来た。
完璧なコース。打者がいたら、踏み込んだ足を止められる。
奏汰はミットで受けながら、次のサインを考えていた。
内角のストレートで腰を引かせて、外角にスライダー。次は内角にチェンジアップか、あるいはもう一度ストレートで打ち取るか。
打者のいないグラウンドで、奏汰は存在しない打者を組み立てていた。
気づいたら、日が完全に沈んでいた。
「今日はここまでにします」桐嶋が言った。「どうでしたか」
奏汰は立ち上がって、ミットを外した。
手がじんじんしていた。1年半ぶりに本物のボールを受けた痛みだった。
「上手い投手だな」奏汰は言った。
「お世辞はいいです」
「お世辞じゃない。でも荒削りなとこもある。リリースポイントがたまにズレる。疲れてくると顕著になりそうだ」
桐嶋が目を細めた。
「一球目から気づいてたんですか」
「三球目から」
沈黙。それからまた、桐嶋が笑った。今度は昼間より深い、本物の笑みだった。
「入ってください。この部に」
奏汰はミットを桐嶋に返した。
「監督に話を聞いてからだ」
それは、断りではなかった。
桐嶋は何も言わず、ただ頷いた。
夜のグラウンドに、二人の影が伸びていた。
奏汰の右手はまだ痺れていた。
それが嫌じゃなかった。
むしろ、ずっと眠っていた手が、ようやく目を覚ましたような感触だった。
空だった手のひらに、また球の重さが戻ってくる予感があった。
---
*続く*
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