表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『バッテリー・リボーン』  作者: shaaawan


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/7

再会は、雨の日に

登場人物


- **葛城かつらぎ 奏汰そうた** 主人公。キャッチャー。中学時代は全国制覇を経験したが、高校で挫折し野球を離れた。大学2年生。

- **永瀬ながせ 颯斗はやと** 中学時代のバッテリーパートナー。圧倒的な才能を持つ左腕。甲子園最強校・聖栄学園に進学し、高卒でプロ入り。

- **桐嶋きりしま れん** 大学で偶然再会するライバル校のエース。現在は大学野球界のトップ投手。

## プロローグ ――捕手の手は、嘘をつかない


ミットが鳴る音というのは、他のどんな音とも違う。


バットの快音でも、スパイクが土を蹴る音でもない。革と革がぶつかり合い、空気を押しつぶし、球場全体に響き渡るあの一音。


捕手だけが知っている音だ。


葛城奏汰は、大学の空きグラウンドのベンチに腰かけたまま、右手の親指をじっと見ていた。


かつてその手は、永瀬颯斗のボールを受け続けた。


最速143キロ。中学生としては化け物じみたストレート。カーブ、スライダー、チェンジアップ――永瀬の投げるものはすべて、奏汰のミットへ吸い込まれるように収まった。


あの感触を、指が覚えていた。今でも夢を見る。


満員のスタンド。「市立東浜中」のユニフォーム。外野スタンドから降り注ぐ声援。そして、マウンドの永瀬が奏汰を見て、かすかに頷く。あの瞬間を、何百回繰り返して夢に見ただろう。


しかし奏汰が目を覚ますと、そこには野球のない現実があった。


大学2年生、19歳。葛城奏汰は今、社会学部の平均的な学生として、つまらない毎日を送っていた。


サークルには入らなかった。野球部の勧誘は断った。グラウンドの近くは避けて歩く。


それが、「挫折した人間」の正しい作法だと、奏汰は思っていた。


見なければいい。聞かなければいい。忘れれば、痛くない。


そう信じて生きてきた1年半だった。


四月の雨は意地悪だ。


傘を持ってこなかった奏汰は、大学のグラウンド裏の軒下に駆け込み、スマートフォンで雨雲レーダーを確認した。あと20分は止まらない。


「最悪だ」


小さく呟いて、コンクリートの壁にもたれかかる。


グラウンドの向こうで、野球部の練習が続いていた。雨天練習のためか、室内練習場に切り替えているらしく、数人がランニングシューズのまま廊下を走っていく。奏汰はそっちを見ないようにして、視線をスマートフォンに落とした。


「雨、ひどいっすね」


声をかけられて顔を上げると、見知らぬ男が軒下に飛び込んできた。


大きい。奏汰よりも頭半分は背が高く、細身に見えて肩幅がある。濡れたTシャツが体に張り付いていて、野球で鍛えたとわかる体つきが透けて見えた。年は同じくらいか、一つ上か。


「ほんとですね」奏汰は短く返した。


男は息を整えながら、濡れた前髪をかき上げた。どこかで見たような、見ていないような。奏汰は記憶の引き出しを漠然と探った。


「ここ、野球部のグラウンドですよね」男は言った。「見学に来たんですけど、タイミング悪くて」


「見学?」


「はい。他大学からです。今年、編入試験受けて入ったんで、まだ部に正式には入ってなくて」


編入。ということは、どこかの大学に一度入っていた、ということだ。


「どこから?」


「松ヶ丘大です」


奏汰の手が止まった。


松ヶ丘大。神奈川の強豪校。一昨年の大学野球春季リーグで、圧倒的な成績を残したチーム。そしてそのエースは――


「桐嶋、蓮」


口から名前が出た。男が振り返り、少し目を丸くした。


「そうです。知ってました?」


「……名前くらいは」


嘘をついた。知っているどころじゃない。


高校2年の春。奏汰が最後に公式戦のグラウンドに立った日。相手のエースが桐嶋蓮だった。


---


高校進学のとき、奏汰は迷わなかった。


永瀬颯斗とのバッテリーで全国の頂点に立った。自分たちなら高校でもやれる。そういう根拠のない自信が、奏汰を東京の強豪校・帝星高校への進学に向かわせた。


問題は、永瀬がいなかったことだ。


永瀬は奏汰に何も言わず、甲子園最強と呼ばれる聖栄学園に進んだ。「お前とは別の道を行く」と、卒業式の日にたった一言だけ言って。


奏汰は置いていかれた気分で、それでも前を向こうとした。


帝星は強かった。1年からレギュラーを狙える環境があった。しかし、現実は甘くなかった。


全国制覇した中学の捕手として、周囲の期待は大きかった。コーチも、チームメイトも、「葛城なら当然できる」という目で見た。しかし奏汰には、永瀬颯斗という圧倒的な基準があった。


永瀬のボールを受けてきた奏汰の手は、他の投手のボールを「物足りない」と感じてしまう。それはリードにも出た。永瀬なら三振を取れるコース、永瀬なら打者を抑えられる配球――永瀬の投球を前提に発達した奏汰の捕手としての感覚が、他の投手との歯車を狂わせた。


それでも1年の秋まではなんとかやれていた。


転機は2年の春だった。


県大会準決勝。相手は桐嶋蓮を擁する横浜湊高校。


桐嶋のボールを奏汰は初めて生で見た。


最速152キロ。完璧なコントロール。しかもその日の桐嶋は特別で、9回を1安打完封、帝星の打線を完全に沈黙させた。14奪三振。打者は誰も有効な当たりを打てなかった。


試合そのものは0対1の惜敗だった。


しかし奏汰を壊したのは、試合の敗北より別のことだった。


ベンチに引き上げる途中、奏汰はちらりと桐嶋のほうを見た。


桐嶋は涼しい顔をしていた。疲弊した様子もなく、あれだけ投げた後なのに体の緊張がほぐれるように笑っている。そして桐嶋の後ろを歩いていた捕手が、桐嶋の肩に手を置いて何か話しかけていた。


あの距離感。


あの信頼。


奏汰には、それがなかった。


帝星のエースとの関係は、最後まで「仕事上のパートナー」を超えられなかった。永瀬との間にあった、言葉を超えたつながりのようなものが、奏汰には見つけられなかった。


夏の大会前に、奏汰は監督室を訪ねた。


「野球、辞めます」


監督は何も言わなかった。しばらくして、「そうか」とだけ言った。


その一言が、奏汰には余計に重かった。引き留めてもらえるとは思っていなかったが、まるで予想していたかのような反応に、自分の浅さを突きつけられた気がした。


---


「葛城、奏汰さんですよね」


桐嶋の声が、記憶の扉を閉じた。


奏汰は顔を上げた。桐嶋が奏汰をじっと見ていた。


「あなたのこと、知ってます。帝星の2番手捕手だった人。2年春の準決勝、覚えてます」


「2番手じゃない」奏汰は反射的に言った。「……1年の秋から先発だった」


「そうでしたっけ」桐嶋は悪意なく言った。「すみません、確かめたことなかったんで」


悪意がなかったのはわかる。それが余計に、刺さる。


「あなたはそのあと、野球辞めたんですよね」


「なんで知ってる」


「永瀬颯斗と同じバッテリーだったから、気になってたんです。永瀬は今年、北道ライオンズに入りましたよね。同期のドラフト1位で」


奏汰は黙った。


永瀬颯斗のドラフト1位指名は、スポーツニュースのトップを飾った。高校通算での完投記録、聖栄での甲子園制覇、そして驚異的な奪三振率。誰もが認める逸材だった。


奏汰はそのニュースを、スマートフォンの画面で一度だけ見て、すぐに閉じた。


「俺に何の用だ」


「野球、もう一回やりませんか」


雨音が大きくなった。


桐嶋は奏汰から視線を逸らさなかった。


「俺、松ヶ丘じゃ物足りなくなったんで編入してきました。この大学の野球部なら、もっと上を目指せると思って。俺はプロに行く。絶対に行く」


「それが俺と何の関係がある」


「あの試合、あなたが帝星の捕手じゃなかったら、もう少し苦しんでたと思うんで」


奏汰は眉を寄せた。


「俺は負けた側だ」


「わかってます」桐嶋は言った。「でも、あなたのリードは面白かった。内角への出し方、カウントの作り方、配球の緩急。正直、2年生の捕手であそこまでやられるとは思ってなかった。だから最後まで、力で捻じ伏せるしかなかった」


力で捻じ伏せた。そう言い切れる投手が、目の前に立っている。


奏汰は桐嶋を正面から見た。身長186センチ、細身だが柔軟性のある体。利き腕は右のはずだが、左手の使い方が自然で、全身を上手く使う投げ方をするのだろうと、捕手としての感覚が自動的に読み取っていた。


まずい。体が、まだ覚えている。


「俺はもう野球やってない」


「そうですか」桐嶋は特に残念そうでもなく言った。「でも、うちの部、捕手が弱いんですよ。2軍にもいないくらいで。もし気が向いたら、一度見に来てください」


そう言って、桐嶋は雨の中に歩き出した。傘もなく、ずんずんと濡れながら。


「ちょっと待て」奏汰は声をかけた。「傘くらい借りて行け」


「大丈夫です。濡れても死にませんから」


桐嶋は振り向かずに言って、そのままグラウンドの方へ消えていった。


奏汰は軒下に残って、雨粒がコンクリートを叩く音を聞いていた。


右手の親指が、じくりと疼いた。


古傷ではなかった。ずっと眠っていた何かが、目を覚ましかけているような感覚だった。


---


その夜、奏汰は自分の部屋で天井を見ていた。


ロフトベッドの上。薄暗い部屋。窓の外では雨がまだ続いていた。


頭の中で、桐嶋の言葉が繰り返した。


「あなたのリードは面白かった」


馬鹿にされたのか。同情されたのか。それとも本気で言ったのか。


高校2年の春に奏汰が辞めてから、野球絡みで心が動いたのは初めてだった。それが悔しかった。もう関係ないはずなのに、と。


スマートフォンを手に取り、何となく検索した。


「桐嶋蓮 松ヶ丘大 野球」


記事がいくつか出てきた。昨年のリーグ戦の成績。防御率0.98。奪三振率は圧倒的で、リーグMVP。一部からはドラフト上位候補とも言われていた。


「編入してきた理由があるのか」


奏汰は呟いた。松ヶ丘でその成績なら、プロからの評価はすでに高いはずだ。なぜわざわざ環境を変える必要があった。


次に、別の名前を検索した。


「永瀬颯斗 北道ライオンズ」


オープン戦の記録が出てきた。登板機会はまだ少ないが、すでにファームで150キロを超えるボールを投げているらしい。コーチのコメントに「将来のエース候補」という言葉があった。


奏汰はスマートフォンを置いた。


そして、中学時代に使っていたキャッチャーズミットのことを思い出した。


あれは実家に置いてきた。高校を辞めるとき、全部の道具を実家に送った。もう使わないと思って。


「…………」


奏汰は長い間、天井を見ていた。


雨音が静かになっていった。


気づいたら、スマートフォンで実家の母親にメッセージを打っていた。


「ミット、まだある?」


返信はすぐ来た。


「あるよ。どうしたの?」


奏汰はしばらく画面を見ていた。それから返信した。


「なんでもない。捨てないでおいて」


送信してから、自分が何を期待しているのかわからなくなった。


桐嶋蓮のことを嫌いかと言われたら、そうでもない。むしろあの真っ直ぐさが鬱陶しいくらいに気になる。


野球のことを忘れたかと言われたら、嘘になる。毎日忘れようとして、毎日忘れられていなかった。


永瀬颯斗のことを恨んでいるかと言われたら――。


奏汰は目を閉じた。


「球、返せよ」と言いたかった。お前が行ってしまったから、俺はここにいる。お前がいなくなったから、俺の手は空のままだ。


しかし、そんなことを言える立場じゃないのも、わかっていた。


永瀬は最初から「別の道を行く」と言っていた。奏汰が一人でその言葉を引きずっただけで、永瀬には永瀬の歩むべき道があった。


だから恨めない。恨めなくて、だから余計に、捨てられなかった。


ロフトから降りて、クローゼットを開ける。


高校時代に持ってきて、そのまま放置していた鞄の中に、使い古したグローブが一つだけあった。捕手用ではなく、ただの練習用の内野手グローブ。高校1年の初めに使っていたやつ。


奏汰はそれを取り出して、右手にはめた。


革の匂いが鼻をついた。


「……硬くなってる」


誰に言うでもなく呟いて、グローブを外し、また鞄に戻した。


次の日、奏汰は野球部のグラウンドへ足を向けた。


練習を見るだけのつもりだった。ただ確認したかっただけだ。桐嶋蓮が言ったことが本当かどうか、捕手が本当にいないのかどうか。


それだけのつもりだった。


グラウンドのフェンス越しに、ノック練習を見た。捕手が構えている。大柄な3年生らしいが、スローイングが荒く、配球の組み立てより先にサインを出すのが雑だとわかった。


桐嶋がブルペンで投げていた。相手は補助の選手で、本格的な受け手ではない様子だった。


奏汰はフェンスに指をかけて、桐嶋のフォームを見た。


右投げ。前の記事の通り。体の回転が大きく、リリースポイントが打者から見えにくい。体重移動がなめらかで、肘の角度がいい。腕が遅れて出てくる、いわゆる「タメ」のある投げ方だ。


球が速いだけじゃない。


奏汰の手がフェンスを強く握った。


桐嶋が奏汰に気づいて、軽く手を上げた。


奏汰は反射的に、頷き返していた。


受けてみたい、と思った。


その衝動が、自分でも意外なくらい、はっきりとそこにあった。


---


放課後、奏汰は野球部の部室を訪ねた。


監督に話を聞きたかったが、部室にいたのは桐嶋だけだった。


「来るとは思ってなかったです」桐嶋は言った。「というか、思ってました」


「どっちだよ」


「思ってたけど、来たら素直に嬉しいほうです」


奏汰は部室を見回した。ユニフォームが並び、バットケースが積まれ、野球の道具の匂いがした。懐かしいとも思わなかった。ただ、体が自然とその空間に収まった。


「正式に入部しろとは言いません」桐嶋は続けた。「でも、俺のボールを一度でも受けてみてください。それで何も感じなかったら、もう来なくていいです」


「一度でも受けたら、引き返せないかもしれないぞ」


奏汰は自分で言っておいて、苦くなった。本音が出た。


桐嶋は笑った。


「それが狙いです」


「最悪だな」


「投手なんてみんなそういうもんです」


奏汰は少し黙って、それから言った。


「ミット、貸せ」


桐嶋が部室の棚から古いキャッチャーズミットを取り出した。奏汰はそれを右手にはめた。


すぐにわかった。サイズが違う。奏汰の手より小さい。それでも、革の感触が手のひらに広がって、体の奥で何かのスイッチが入る音がした。


「行きましょう」桐嶋が立ち上がった。


二人は誰もいないグラウンドに出た。


夕方の斜光の中、奏汰はホームベース後方にしゃがんだ。


1年半ぶりの構え。膝が地面に近い、あの低い姿勢。


マウンドの桐嶋が奏汰を見た。


奏汰はミットを構えた。


何も考えなかった。


ただ、受ける。


桐嶋が振りかぶった。


ボールが来た。


バン、と乾いた音が鳴った。


奏汰の手がじんと痺れた。


速い。予想より速い。ストレートだけで145を超えている。しかもコースが内角低めに綺麗に決まっていた。


奏汰はミットをそのままにして、ボールを握り込んだ。


体が、覚えていた。


構えの角度、体重のかけ方、ミットの向き――1年半のブランクなど関係なかった。肉体が勝手に動いた。捕手としての記憶は、消えていなかった。


「もう一球」


奏汰は返球した。


桐嶋がサインを要求するように目で聞いてきた。


奏汰は右手で外角低めにサインを出した。


桐嶋が少し驚いた顔をした。それから、頷いた。


外角低めに、スライダーが来た。


完璧なコース。打者がいたら、踏み込んだ足を止められる。


奏汰はミットで受けながら、次のサインを考えていた。


内角のストレートで腰を引かせて、外角にスライダー。次は内角にチェンジアップか、あるいはもう一度ストレートで打ち取るか。


打者のいないグラウンドで、奏汰は存在しない打者を組み立てていた。


気づいたら、日が完全に沈んでいた。


「今日はここまでにします」桐嶋が言った。「どうでしたか」


奏汰は立ち上がって、ミットを外した。


手がじんじんしていた。1年半ぶりに本物のボールを受けた痛みだった。


「上手い投手だな」奏汰は言った。


「お世辞はいいです」


「お世辞じゃない。でも荒削りなとこもある。リリースポイントがたまにズレる。疲れてくると顕著になりそうだ」


桐嶋が目を細めた。


「一球目から気づいてたんですか」


「三球目から」


沈黙。それからまた、桐嶋が笑った。今度は昼間より深い、本物の笑みだった。


「入ってください。この部に」


奏汰はミットを桐嶋に返した。


「監督に話を聞いてからだ」


それは、断りではなかった。


桐嶋は何も言わず、ただ頷いた。


夜のグラウンドに、二人の影が伸びていた。


奏汰の右手はまだ痺れていた。


それが嫌じゃなかった。


むしろ、ずっと眠っていた手が、ようやく目を覚ましたような感触だった。


空だった手のひらに、また球の重さが戻ってくる予感があった。




---


*続く*


---



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ