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第七章 海に道はあるか


交州の夜が深くなっても、港は眠らなかった。


昼より静かだ。


だが止まってはいない。


甲板では見張りの足音が規則正しく板を鳴らし、帆柱の影がゆっくり揺れている。


呂水は酒を飲んだあと、いつの間にか船腹の影で眠っていた。


羅玄は舵輪のそばに座ったまま、起きているのか眠っているのか分からない顔で海を見ている。


雷彰は荷の積み直しが終わったあとも一人だけ岸を気にしていて、やがて周遜に何か短く告げてから下がった。


少年は船首の龍のそばにいた。


交州へ入ってから、胸の中に何か新しいざわめきが残っていた。


海の上で感じるものとは違う。


波ではない。


潮でもない。


人の流れ、荷の流れ、金の流れ。


目に見えるのに、掴もうとすると形を変える流れだった。


その時、岸から声が飛んだ。


「江龍に伝える!」


甲板の空気が、わずかに変わる。


見張りが身を乗り出し、周遜が船尾から顔を上げる。


岸壁には二人の兵が立っていた。




交州太守府の紋をつけた灯を下げている。


「太守の館より使いだ!」


周遜はすぐには返事をしなかった。


灯の加減、兵の立ち方、周囲に伏せた影がないか、一息で見ていた。


「何用だ」


岸から答えが返る。


「太守がお呼びだ。今夜のうちに」


呂水が半身を起こし、面白くなさそうに鼻を鳴らす。


「港へ入ったその日に御呼ばれとは、えらく気が早えな」


雷彰は低く言う。


「断ればどうなる」


兵は答えない。


代わりに、もう一人が一歩前へ出た。


「太守は、客に二度は声をかけぬ」


周遜の口元が、ほんのわずかに動いた。


笑ったのではない。


面倒な相手だと、あらためて確かめた顔だった。


「分かった」


短く言って、周遜は振り向いた。


「雷彰」


「いる」


「船を見ろ」


「呂水」


「おう」


「岸で余計な口を利くな」


呂水が歯を見せる。


「誰に言ってる」


「お前だ」


それから周遜の目が、少年へ向いた。


「来い」


少年は一瞬、自分の後ろを見た。


誰か別の者へ向けた言葉かと思ったのだ。


周遜は繰り返さない。


それだけで十分だった。


少年は黙って後に続いた。




交州太守の館は、港を見下ろす低い丘の上にあった。


王城のように高くはない。



石と木を組み合わせた建て方は南方の湿り気に合わせており、軒は広く、回廊は風を通すように深く取られている。


庭には異国から運ばれたと思しき木が何本か植わり、夜でも葉が鈍く光っていた。


館の前には槍を持つ兵が並んでいる。


だが数で威圧する感じは薄い。


少数で足りると知っている者たちの立ち方だった。


少年は歩きながら思った。


この館もまた、港と同じだ。


飾ってはいる。


だが、本当に守っているのは見た目ではない。


案内されたのは、広間ではなく、横に長い一室だった。


床には厚い敷物が敷かれ、南海の産らしい香木が細く焚かれている。


壁には地図が掛かっていた。


山と河だけではない。


海岸線。


湾。


河口。


港。


いくつもの海の入口と出口が描かれている。


その地図の前に、一人の男が立っていた。


司紘だった。


昼に見た時と同じく、姿勢に無駄がない。


衣は上等だが、豪奢さで相手を呑む気はない。


むしろ、港の喧噪から一歩引いたところで、それでもすべてを聞き逃さぬ耳を持っているような静けさがあった。


司紘は振り返り、周遜を見た。


「久しいな」


周遜は軽く肩をすくめる。


「呼び出される筋合いは薄いと思ったが」


「断らず来たということは、筋合いがゼロでもなかったのだろう」


二人の間に、乾いた空気が流れた。


敵意とも、親しみとも言い切れない。


だが少年には分かった。


これは初対面の空気ではない。


司紘が少年へ目を向ける。


「その子は」


周遜は短く答える。


「拾った」


「港で拾った顔ではないな」


「海で拾った」


司紘の目が、わずかに細くなった。


その一瞬で、衣の傷み、手の荒れ方、足の置き方、視線の運びまで見られた気がした。


「なるほど」


その時、部屋の奥の簾がわずかに鳴った。


そこから一人の若者が出てきた。


年は少年より少し上。


だが顔立ちには、まだ若さの鋭さが残っている。


衣は整っているが、ただ守られて育った者の身のこなしではない。


目がよく動く。


部屋の空気、人の距離、地図、そして少年まで、一息で見ていた。


司紘が言う。


「司凌だ」


若者は軽く一礼した。


過剰にへりくだらず、しかし礼を欠かない。


「お初に」


少年は黙って頭を下げた。


まだ名を持ち出す気にはなれない。


司凌の目が、その沈黙に少しだけ留まる。


だが問いはしなかった。




司紘が席につき、周遜にも座るよう顎を引く。


周遜は遠慮なく腰を下ろした。


少年はその少し後ろに立つ。


司凌は父の脇ではなく、地図の近くに立った。


その位置が妙に似合っていた。


司紘が言う。


「港へ入った船は、なるべく見るようにしている」


周遜が鼻を鳴らす。


「暇な太守だ」


「暇で港が守れるなら、私はもっと楽をしている」


周遜は答えない。


司紘は香木の煙越しに周遜を見た。


「お前が交州へ来る時は、だいたい二つだ。荷を流す時と、情報を拾う時」


「今日は前者だ」


「半分はそうだろうな」


司紘の声は穏やかだった。


だが中身は針みたいに細い。


「もう半分は、越を見ている顔だ」


少年の胸の奥が、わずかに硬くなる。


越。


その名がここで出ると、港で聞いた時とは違う重みがあった。


噂ではない。


現実の流れの中に置かれた名の重さだった。


周遜は隠しもしない。


「見てどうなる」


司紘は壁の地図を見た。


「越は河を押さえ、港を呑み、税を吸っている」


その指が長江の流れをなぞる。


「河を押さえれば、内陸の穀も鉄も木も動く。港を押さえれば、海から来るものまで選べる」


次に、指が南へ降りる。


「交州は遠い。だが遠いからこそ、最後まで自分の流れを持てる」


周遜が言う。


「だから太守は港を手放さない」


「当たり前だ」


司紘は淡々としていた。


「国家とは、土地の上に立つものだと皆思っている。半分は正しい。だが半分は違う」


部屋の空気が少し変わる。


少年は思わず、司紘の次の言葉を待っていた。


「土地だけでは国は痩せる」


司紘は海岸線の描かれた地図へ視線を移す。


「河があり、港があり、そこへ人と荷と金が流れて、初めて国は太る」




司凌がそこで口を開いた。


「つまり、道です」


父の言葉を継ぐのに慣れている声だった。


「陸路だけではなく、水の道。見えないけれど、確かに人を運び、物を運び、金を運ぶ道」


少年はその言葉に引っかかった。


見えないけれど、確かにある道。


それは黒牙礁のあいだで見た潮筋に似ていた。


港で見た荷の流れにも似ていた。


父の船団がつないでいた広州と福州のあいだの中継にも似ていた。


司凌が少年の方を見る。


「海に道はない、と言う者もいます」


その声は問いかけるようでいて、試すようでもあった。


「波の上に道標はない。昨日の跡も残らない。なら、海はただの広がりでしかない、と」


少年は少し考えた。


答えはすぐには出ない。


だが黙っているのも違う気がした。



「道は」



言いかけて止まる。



司凌は待った。



急かさない。


その待ち方が、少しだけ周遜とは違っていた。


少年は言い直した。


「目には残らない」


「……」


「でも、ある」


周遜も司紘も、何も言わない。


少年は自分の中のものを言葉へ変えようとした。


「潮が変わる場所がある。風が集まるところがある。船が入りやすい湾も、入ったら死ぬ湾もある」


「昨日と同じ形じゃなくても、流れはまた来る」


司凌の目が静かに光る。


「それを見つける者だけが、道を知る」


少年はうなずかなかった。


ただ、胸の奥にあるものを吐き出すみたいに続けた。


「港もそうだと思う」


「港も?」


「荷が集まるところがある。金が溜まるところがある。人が消えるところがある」


司紘の視線が一段深くなる。



少年は構わず言った。


「見えなくても、流れてるなら、それは道だ」



部屋の中が静かになった。



司凌が、ふっと息を吐く。


「面白い」


司紘は息子を見ずに言った。


「お前が軽々しく面白いと言う時は、たいてい厄介な種だ」


「国を動かすものは、だいたい厄介です」


司紘の口元が、ごくわずかに緩んだ。


それが笑いなのか、呆れなのかは分からなかった。




周遜がそこで初めて少年を見た。


横目だったが、いつもの値踏みとは少し違う。


海の上でしか使えないと思っていたものが、港でも通じると知った者の目だった。


司紘は少年へ尋ねた。


「お前は名を持たぬのか」


周遜が口を開くより先に、少年は言った。


「ある」


司紘は待つ。


だが少年はその先を言わない。


司紘はそれ以上問わなかった。


「なら、よい」


そして静かに続ける。


「名を隠す者には、隠すだけの理由がある。理由もなく名を捨てる者よりは、よほどましだ」


その言葉に、少年は少しだけ救われた気がした。


慰めではない。


だが切り捨てられてもいない。


司凌が地図へ寄った。


「父上」


「何だ」


「越が河を喰うなら、こちらは海を太らせるべきです」


司紘は何も言わない。


司凌は続けた。


「河は閉じられる。関も置ける。城も築ける。けれど海は、全部を塞ぐことはできません」


その指が海岸線の南をなぞる。


「港と港を結べば、越が河で吸い上げる流れを、別の道で逃がせる」


周遜が低く笑った。


それは愉快さというより、若い刃の光り方を見た時の笑いだった。


「太守の館にしては、ずいぶん海賊みたいな話だ」


司凌は涼しい顔で返す。


「流れを読むだけです。奪うか守るかの違いしかない」


司紘がそこで初めて深く息をついた。


「お前たちは、よく似ている」


誰に向けた言葉か、一瞬分からなかった。


周遜か。司凌か。


それとも、地図の前に立つ少年も含めてか。


司紘は言う。


「私は港を守る。周遜は港の外で流れを裂く。司凌は机の上で流れを編んでいる」


そして少年へ目を向けた。


「お前は、そのどれになる」


少年は答えられなかった。


まだ分からない。


だが分からないままにしておくには、胸の中に何かが芽を出しかけていた。


海に道はあるか。


ある。


だが、ただ見つけるだけでは足りないのではないか。


港と港を結ぶ。


流れを逃がす。


奪われる前に別の道を作る。


それは、父のしていた中継とも似ていた。


周遜が荷を組み替えるのとも似ていた。


司紘が港を守る理にも繋がっていた。


海の上に道標は立たない。


だが、人が繰り返し行き来し、荷が流れ、金が通り、守る者がいて、使う者がいれば、それは道になる。


道は見つけるだけではなく、育てるものなのかもしれない。


その時だった。


外から一人の兵が入ってきた。


膝をつき、短く報告する。


「太守」


司紘の眉がわずかに動く。


「何だ」


「北の倉にて、越の印を持つ商人が動いております」


部屋の空気が変わる。


司紘は声を荒げない。


だが静けさの質が変わった。


「見張らせろ。まだ触るな」


「は」


兵が下がる。


周遜が鼻を鳴らす。


「港は賑やかだな」


司紘は答える。


「賑やかな場所ほど、鼠はよく走る」


司凌が言った。


「鼠は道を知っています」


少年は、その言葉に小さく息を呑んだ。


道を知る者が流れを作る。


流れを作る者が、国を太らせる。


なら、海の道を握る者は、ただの船乗りでも、ただの賊でもない。


もっと大きな何かになりうる。


司紘が立ち上がる。


「今夜はここまでだ」


周遜も腰を上げた。


「用がそれだけなら、帰る」


「帰れ」


司紘は言う。


「だが、交州で刃を抜くな。抜くなら、私の知らぬ場所で抜け」


周遜は口の端だけで笑った。


「相変わらず勝手な太守だ」


「お前に言われたくはない」


司凌が少年を見る。


「また話したい」


それは命令でも社交辞令でもなかった。


本当に、もう少し先まで聞いてみたいという顔だった。


少年は何も答えなかった。


だが、その沈黙を司凌は拒絶とは受け取らなかったらしい。


ただ軽くうなずいた。


館を出ると、交州の夜気がひときわ濃く感じられた。


港の灯が下に広がっている。


江龍の黒い影も、その中の一つとして静かに浮かんでいる。


海と港。


流れと国。


奪う者と守る者。


それらが、頭の中でまだうまく言葉にならぬまま重なり始めていた。


坂を下りながら、周遜がふいに言う。


「考えているな」


少年は否定しなかった。


「海に道はあるか、って」


周遜はしばらく黙ってから答えた。


「ある」


それだけだった。


だが今夜は、それだけで十分だった。


「ただし」


周遜が続ける。


「誰かが通り続けなければ、すぐ消える」


少年は歩きながら、その言葉を胸の中で繰り返した。


通り続けなければ、消える。


海の道。


荷の道。


金の道。


人の道。


国の流れすら、同じなのかもしれない。


江龍へ戻る頃には、港の灯が少しだけ違って見えた。


ばらばらの灯ではない。


見えない筋で結ばれた火だ。


そして少年の中にも、まだ名もない一本の筋が生まれかけていた。


海に道はあるか。


ある。


ならば、作ることもできるのではないか。


その夜、名を持たぬ少年の胸に、


初めてその思想が、波ではなく根のように芽吹いた。




講読ありがとうございました。

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