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第六章 交州


交州は、海の果てにあるくせに、世界の真ん中のような顔をしていた。


少年は船首に立ってその港を見た。


入り江は広く、いくつもの岸壁と船着き場に枝分かれしている。


大小の桟橋が幾重にも突き出し、その先に夥しい数の船がひしめいていた。


背の高い楼船。


腹の深い商船。


沿岸を走る細身の早舟。


異国風の反り返った舳先。


帆の形も、船腹の色も、積み荷の結わえ方も揃っていない。


まるで海そのものが、ここへ来て姿を変え、木と帆と人の形になって押し寄せているようだった。


潮の匂いだけではない。


魚醤、香辛料、乾いた果実、獣脂、汗、香木、煮染めた布、腐った藻、焼いた肉。


風が変わるたび、匂いが層になって鼻を打つ。


耳へ入ってくる声もひとつではない。


南方の訛り。


中原の硬い言葉。


どこのものとも知れぬ舌の巻き方。


笑い声、怒鳴り声、値切り声、荷を担ぐ人夫の掛け声。


港そのものがひとつの巨大な喉となって、絶え間なく何かを飲み込み、吐き出していた。


大陸の中央からは遠い。


王朝の中枢から見れば、ここは辺境だ。


だが少年には、むしろ逆に思えた。


遠いからこそ、ここにはいろいろなものが流れ着く。


中央で弾かれたものも、中央へ届く前のものも、海を渡ったものも、国を失った者も。


交州は端ではなかった。


幾つもの世界がぶつかって濁る、海の関節だった。


「目が忙しそうだな」


背後から声が落ちた。


振り向くと、赤毛の男が立っている。


焼けた顔に赤い髪。


笑っているのに、目の奥だけは油断なく光っていた。


少年はまた港へ目を戻した。


「うるさいだけかと思った」


赤毛が鼻で笑う。


「違うのか?」


「うるさいのに、流れてる」


「ほう」


赤毛は並んで港を見た。


「少しは船の外も見えるようになったらしいな」


江龍は港の外れ、目立ちすぎず、しかし出入りには不便でない一角へ入った。


表の岸壁に堂々と着ける船ではない。


かといって、盗人のように葦の陰へ隠れるほど格を落とすつもりもない。


港の隅に根を張る黒い獣。そんな位置取りだった。


碇が落ちる。


縄が走る。


船体が静かに岸へ寄せられる。


周遜は最初に上陸しなかった。


船首から港を眺め、しばらく何も言わずにいた。


やがて低く命じる。


「荷を割れ」


海賊たちが一斉に動き出した。


奪った絹も香料も乾物も、そのまま一人の仲買へ流すわけではない。


包みを開き、数を分け、札を替え、布を巻き直す。


見れば分かる印は外し、分からぬものにする。


同じ絹でも、上物は上物として、半端物は半端物として別に分ける。


香料はそのままでも売れるが、乾物は塩や薬種と抱き合わせた方が高い。


帆布、鉄釘、縄に換えた方が江龍にとって得なものもある。


少年はその動きを見ていた。


父の船団でも荷は扱った。


だがあれは流れを繋ぐ商いだった。


この船の売買は、流れを断ち切って別の川へ流し込むやり方だ。


「全部銀にしないんだな」


気づけば口に出していた。


周遜が横目で見る。


「銀は重い」


それだけ言ってから、少し間を置いて続けた。


「それに、海では銀より先に要るものがある」


「帆布」


少年は答えた。


「縄も、塩も、水も、鉄も」


周遜の目がわずかに細くなる。


「見ているな」


それは褒めるというより、確かめる声だった。


荷の一部はすぐに岸へ降ろされた。


待っていたのは港の公の商人ではない。


倉を持つ男。


塩を扱う婆。


南から来た異国風の仲買。


帳面だけ抱えた痩せた若者。


一目で怪しい者もいれば、一目ではただの荷役人夫にしか見えない者もいる。


交州の売買は声が大きいくせに、肝心のところは小さい。


派手に怒鳴り、笑い、値切りながら、指先では別の数を作っている。


表の声と、裏の勘定が違う。


ひとつの包みが、桟橋で値を持ち、倉で別の値を持ち、次の船へ積まれる頃にはまるで別の出自を得る。


少年はそれを、港の潮と同じだと思った。


表から見える流れと、底で動く流れが違う。


周遜は銀だけを求めない。


絹の一部を塩と替え、香料を薬種へ換え、乾物を鉄釘と帆布へ換えた。


痛んだ帆の補修も、船大工との話も、その場で進んでいく。


商いというより、船を動かし続けるための血の入れ替えだった。


「海賊でも、ずいぶん細けえことをすると思ったか」


赤毛の男が荷を担ぎながら言った。


少年は素直に答える。


「少し」


赤毛は笑う。


「何でも奪って酒に換えるだけなら、三月も持たねえよ」


その横で、片目の操舵手が無愛想に口を開いた。


「海は腹が減る」。


短い声だった。


だがそれで十分だった。


船も、人も、刃も、帆も、全部食うのだ。この世界は。


さらに岸では、荷の整理を仕切る大柄な男が、いくつもの包みを目だけで振り分けていた。


肩は岩みたいに張り、前へ出ればそのまま敵船へ飛び込みそうな体つきだ。


荷役頭に見えるが、ただの荷運びではない。


手の甲の古傷が、こいつは板の上より血の中に長くいたと語っていた。


「そっちの絹は後だ。先に塩を上げろ」


低く太い声が飛ぶ。


「縄は濡らすな。帆布と混ぜるな」


荷の流れを見ながら、同時に周囲の人間まで見ている目だった。


港仕事をしていても、半分は戦の目をしている。


少年は、こういう男が船で古くなっていくのだろうと思った。


昼が傾く頃、ひと仕事を終えた船員たちは船腹の影と岸壁のあいだに腰を下ろした。


粗末な酒と焼いた魚、固い餅。


豪勢ではない。


だが、働いた後の飯としては十分だった。


少年も黙って座る。


まだ自分から輪の中心へ入る気にはなれない。


だが今日は、誰も離れたところへ追いやらなかった。


赤毛が酒をひと口あおって言う。


「そういや、ちゃんと名を言ってなかったな」


その場の何人かが顔を上げた。


少年は返事をしない。


赤毛は構わず、自分の胸を親指で叩く。


「俺は呂水だ」


その一言を皮切りに、場の空気が少し変わった。


片目の舵取りが前を見たまま続く。


「羅玄」


石を置くみたいな声だった。


荷役頭は焼き魚を半分に折りながら、短く名乗った。


「雷彰」


さらに、同じ船で長く生き残ってきた者たちが、一人、また一人と名を落としていく。それは大げさな儀式ではなかった。


だが少年には分かった。


これは余興ではない。


お前を、ただの拾いものではなく、同じ船に乗る者として扱う。


死ねば名を覚える程度には、同じ船の者として見る。


そういう意味の名乗りだった。


最後に呂水が少年を見た。


「で、お前は」


海風が一度、間を抜けた。


少年はしばらく黙っていた。


目の前には港がある。


人が行き交い、荷が流れ、異国の言葉が飛び交う。


けれど、自分の名だけは喉のところで止まった。


その名は父とともに嵐の夜へ沈んだ気がしていた。


泉州の浜で生まれ、父に呼ばれたその名を、今ここでこのまま出す気にはなれない。


まだ自分は、その名の続きを生きていない。


結局、少年は何も言わなかった。


沈黙が落ちる。


呂水が片眉を上げたが、笑いはしなかった。


代わりに羅玄が酒も飲まずに前を見たまま言う。


「まあいい」


少し間を置く。


「名は、そのうち海がつける」


誰も茶化さなかった。


雷彰が黙って餅を噛み、ひとつ頷いただけだった。


少年は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


その時、周遜が岸壁の向こうを見ていた。


食わず、笑わず、港を読む目だった。


少年もつられて視線を向ける。


交州の港は、ただ賑やかなだけではない。


同じように荷を運んでいる者でも、足の速い者と遅い者がいる。


値切っているようで、実は値を崩す気のない商人がいる。


兵の恰好をしていなくても、人を見張ることに慣れた目がある。


逆に、貧しいなりをしていても、指先だけ妙に綺麗な者もいる。


海の中継点である以上、荷だけでなく、情報と人の身分まで積み替える場所なのだ。


「分かるか」


周遜が不意に言った。


少年は港を見たまま答える。


「船が多いだけじゃない」


「何が多い」


「行き先だ」


周遜は黙る。


少年は言葉を探した。


「広州へ行く荷もある。福州へ上がる荷もある。その前にここで止まる荷もある。海から来たものが陸へ上がって、陸のものが海へ降りる」


「……」


「港っていうより、結び目みたいだ」


その時、初めて周遜の口元がわずかに動いた。


「悪くない」


港の奥で、太鼓が短く鳴った。


ざわめきがほんの少し変わる。


道を開けるように人の流れが割れ、岸壁沿いの一段高い石畳へ視線が集まった。


数人の兵が歩いてくる。


鎧は派手ではない。


だが揃っている。


その中央を、一人の男が進んでいた。


年は五十に届くかどうか。


髭は整えられ、衣は上等だが、学者然とした柔らかさはない。


歩き方が、役人というより、港そのものを毎日踏んで確かめてきた者のそれだった。


汚れた岸壁にも、怒鳴り合う商人にも、異国の船にも眉ひとつ動かさない。


「あれが」


少年が小さく言う。


周遜が答える。


「司紘だ」


交州太守、司紘。


その名は、少年も港へ入る前に二、三度聞いていた。


交州をまとめる男。


税を取り、港を守り、海賊を嫌い、だが海を知らぬ役人どものように流れを止める真似はしない男。


陸の人間でありながら、海の理を無視しないと噂される男だった。


司紘は立ち止まり、岸壁の向こうに並ぶ船を眺めた。


その目は、ただ眺めているのではないとすぐ分かった。


数を見ている。


荷を見ている。


この港に何が入り、何が抜けていくか、その脈を読んでいる目だった。


少年は思わず息を止めた。


周遜が海の男なら、あの男は港の男だ。


海の上ではなく、岸壁と倉と税と兵で流れを掴む者。


読んでいるものは違う。


だが、見ている場所の深さはどこか似ていた。


「嫌いなのか」


少年が聞く。


周遜は短く答える。


「面倒な男だ」


それから一拍置いて、


「だが、愚かじゃない」


司紘の視線が、ふとこちらの一角を掠めた気がした。


ほんの一瞬。


だが周遜も呂水も、誰も動かない。


動けば負けだと言わんばかりに、平然としている。


やがて司紘は別の岸壁へ歩み去った。


兵たちがそのあとに続く。


ざわめきは元に戻った。


だが少年の胸の中には、さっきまでとは別の波が立っていた。


海の上だけでは足りない。


港を押さえる者がいる。


税を握る者がいる。


流れを読み、流れを選び、時に止める者がいる。


世界は海より広い。


だが海は、その広さの中へちゃんと繋がっている。


夕暮れが交州の屋根と帆柱を赤く染めた。


湾には無数の灯がともり始める。


船上の火。


倉の灯。


飯屋の火。


娼家の赤い灯。


水売りの提灯。


それらが海面に落ち、交州の夜はまるで星を港へ引きずり下ろしたように光っていた。


少年は江龍へ戻る前に、一度だけ振り返った。


ここは大陸の中央から遠い。


だが、遠いからこそ、いろいろなものが混ざる。


言葉も、金も、荷も、人も、国の匂いも。


海の道の中継点。


世界の流れが、一度ここで息を継ぐ場所。


父は福州や広州へ荷を繋いだ。


周遜はその流れを奪い、組み替えて生きている。


司紘は港ごとその流れを見ている。


ならば自分は。


まだ答えはない。


だが一つだけはっきりしていた。


海を見るだけでは足りない。


海がどこで人と金に変わるのか、それも知らなければならない。


江龍へ戻る足取りは、港へ降りた時より少しだけ重かった。


その重さは疲れではない。


世界がひとつ広がった時の重さだった。


船へ上がると、呂水が後ろから声を投げた。


「おい、名なし」


少年が振り向く。


呂水は酒壺を軽く持ち上げた。


「今日は飲め」


羅玄も雷彰も、何も言わない。


だがそこに拒む空気はなかった。




少年は壺を受け取った。


一口だけ飲む。


喉が焼ける。


港の灯が、船縁の向こうで揺れている。


名前はまだない。


交州の夜は騒がしく、深く、湿っていた。


その喧噪の向こうで、海はまた次の流れを育てている。


そして江龍の上で、名を持たぬ少年もまた、


海だけでなく港を読む者へと、静かに一歩を踏み出していた。




講読ありがとうございました。

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