第五章 初役
江龍は、三日ぶりに小さな入り江へ入った。
外海からはほとんど見えない。
両脇を低い岩山に挟まれ、奥には細い浜がある。
漁師か海賊でなければ、好んで使う場所ではない。
こういう入り江を、江龍は巣にしていた。
帆をゆるめ、碇を落とす。
甲板では、すぐに仕事が始まった。
奪った荷の積み替え。
帆布の補修。
水甕の確認。
矢と刃の点検。
上陸して薪を拾う者もいれば、浜で魚を焼き始める者もいる。
だが、休みではない。
停まっている時ほど、船の中身が問われる。
少年も朝から働かされていた。
水甕を運び、帆布を縫い直す針に糸を通し、浜から薪を背負って戻る。
掌の傷はまだ塞がりきっていない。
布を巻いても、汗と塩ですぐ湿る。
それでも、もう顔には出さなかった。
昼を少し回った頃、少年は船腹の影で縄を綯い直していた。
影が落ちる。
見上げると周遜だった。
「来い」
それだけ言う。
少年は縄を置いて立ち上がった。
何を言われるのか、聞かない。
周遜に連れられて船尾へ行くと、そこには赤毛と眼帯の操舵手、それに他に二人、古株の海賊がいた。
皆、無駄口を叩かずに待っている。
船尾の板の上には、近海の粗い図が炭で描かれていた。
島影。
浅瀬。
潮の向き。
そして一本、細い線が北へ伸びている。
周遜が足先でその線を示す。
「今夜、荷を一つ動かす」
少年は黙って図を見る。
周遜は続けた。
「奪った絹の一部を、北の入江まで運ぶ」
「買い手がいるんですか」
気づけば、口に出していた。
周囲の視線が少し動いた。
少年自身も、しまったと思う。
だが周遜は怒らなかった。
「いる」
短く答える。
「海賊でも、荷は腹の中に入れて終わりじゃない」
赤毛が鼻を鳴らす。
「銀になる道を知らなきゃ、賊も商いも同じ餓鬼だ」
少年は図を見た。
つまり江龍は、奪うだけではない。
運び、流し、売る。
父がつないでいた交易の流れとは違うが、これもまた海の道の一部だった。
周遜が言う。
「大船では入れん。艀を出す」
船尾の下には、小型の艀が二艘、縄で繋がれていた。波の上で軽く上下している。
江龍の腹から切り離せば、沿岸や浅瀬を抜けるための手足になる舟だ。
「赤毛が乗る。あと二人」
周遜はそこで、少年を見た。
「お前も乗れ」
赤毛が片眉を上げた。
「本気か」
「荷は軽い。人数も足りる」
「足りる足りねえじゃなくてよ」
赤毛は少年を顎で示す。
「こいつはまだ、舟の上で人を使ったことがねえ」
周遜は平然と言う。
「だから乗せる」
少年の胸が、どくりと鳴る。
黒牙礁を抜けた時とは違う。
今回は、ただ舵を取るだけではない。
江龍から切り離された小さな舟の上で、自分も役目を持つ。
周遜が図の一点を指した。
「ここで積み替えだ」
入り江のさらに奥、砂州のような細い場所だった。
「潮が満ちる前に入れ。遅れれば舟が噛まれる」
眼帯の操舵手が低く付け足す。
「帰りは逆だ。引き潮に乗れなきゃ、朝まで干潟だぞ」
赤毛がにやりと笑う。
「朝まで干潟ならまだマシだ。見つかれば役人の船が来る」
周遜が少年を見る。
「お前の役目は二つだ」
その声で、甲板の空気が締まる。
「一つ、荷を濡らすな」
「二つ、道を外すな」
少年は頷いた。
周遜はさらに言う。
「舵はお前が取る」
赤毛が肩をすくめる。
「そりゃそうだ」
「だが、潮を見るのはお前だ」
少年は息を止めた。
周遜は続ける。
「黒牙礁で見せた目が本物なら、狭い水の方がよく見えるはずだ」
赤毛が笑う。
「外したら?」
周遜の返事は簡単だった。
「荷が濡れる。舟が噛まれる。人が死ぬ。好きなのを選べ」
少年は黙った。
脅しではない。江龍では、失敗はいつもそのままの形で降ってくる。
「今夜、月は細い」
周遜は海を見た。
「暗い。潮の返りだけが頼りだ」
そして最後に、少年へ言った。
「見ろ。だが迷うな」
それだけで話は終わった。
夜になった。
江龍の灯は最低限に落とされ、黒い船体は入り江の影に沈んでいる。
艀へ絹の包みが運び込まれる。
水を避けるため、油紙で二重に巻かれていた。
濡れれば価値が落ちる。
赤毛が艀へ飛び乗る。
「来い、海読み」
その呼び方に、少しだけ胸がざわついた。
名ではない。
だが、ただの死に損ないでもない呼び方だった。
少年も艀へ降りる。
あと二人の海賊が櫂を持って続いた。
縄が外される。
江龍が、ゆっくり遠ざかる。
たったそれだけのことで、海が急に広くなった気がした。
小舟は心許ない。
江龍が獣なら、こちらは野犬の肋骨みたいな舟だった。
赤毛が舵柄に手をかけながら言う。
「で、若先生」
からかう声だが、目は笑っていない。
「どっちだ」
少年は前を見る。
入り江を抜けた先、島影のあいだは夜の墨で塗りつぶしたようだった。
波の筋だけが、わずかに月を拾っている。
潮の音を聞く。
目だけではない。水が舟腹を擦る音。岩に触れて返る細い波。風の匂い。
「左寄りです」
赤毛が即座に切る。
艀がすべる。
狭い。
右は暗く広いが、潮が死んでいる。
入れば遅れる。
左は岩が近いが、水がまだ前へ逃げている。
二人の海賊が無言で櫂を合わせる。
水音が低い。
進むにつれて、闇が深くなる。岸の輪郭はほとんど見えない。
ただ、時々どこかで小さく波が砕け、その位置だけが歯みたいに浮かぶ。
少年は喉の奥が乾くのを感じた。
見える。
だが昼のようには見えない。
ここでは海そのものより、海が何を隠しているかを読むしかない。
その時、右前方で小さく水が鳴った。
ちゃぷり、と。
魚ではない。もっと重い。
少年は顔を上げた。
「止めて」
赤毛が舌打ちする。
「何だ」
「前に何かいる」
「岩か」
「違う」
少年は目を凝らす。
闇の中に、影より濃い影があった。波に対して、揺れ方が不自然だ。固定されていない。浮いている。
赤毛が低く命じる。
「櫂、止めろ」
舟が、すうっと速度を落とす。
全員が息を潜めた。
闇の向こうから、かすかに木が当たる音がする。
舟だ。
一艘だけではない。もう一つ、さらに奥にもある。
赤毛の顔つきが変わる。
「見張りか」
少年は小さく首を振る。
「漁じゃない。灯がない」
「役人か」
「……待ち伏せかもしれない」
二人の海賊が、腰の刀へ手をかける。
赤毛が少年へ囁く。
「見えるか、抜け道」
少年は海を見る。
正面には二艘。
右は浅い。
左は岩が迫る。
そこへ入れば舟腹を擦るかもしれない。
けれど止まれば見つかる。
「左の岩沿い」
赤毛が顔をしかめる。
「狭すぎる」
「今なら通れる。次の返しが来たら閉じる」
赤毛は一瞬だけ迷った。
その一瞬で、少年は江龍の上で聞いた言葉を思い出す。
ためらうな。
「行って」
赤毛の目が少年を射る。
次いで、にやりと歯を見せた。
「言うようになったじゃねえか」
舵柄が切られる。
艀が左へ寄る。
岩が近い。
本当に近い。手を伸ばせば触れそうだった。
櫂が一つでも深く入れば、石に当たる。
だが浅すぎれば、潮に弾かれる。
少年は囁くように言う。
「もう少し前」
「……今」
赤毛が舵を押さえる。
艀が、岩肌と闇のあいだへ滑り込む。
その時、前方の闇で声がした。
「誰だ!」
低い、押し殺した声。
やはり待ち伏せだった。
同時に、灯が一つ上がる。
赤い光が、前方に小舟の影を二つ浮かび上がらせた。
役人のものではない。
おそらくこのあたりを縄張りにする、別口の海賊だ。
「見つかった!」
後ろの海賊が叫ぶ。
「黙れ」
赤毛が唸る。
その瞬間、前方の舟から矢が飛んだ。
艀の舷を叩く。木片が跳ねる。
赤毛が怒鳴る。
「漕げ!」
櫂が水を噛む。
艀が前へ出る。
左の岩はまだ近い。少しでも外へ膨らめば、敵の正面へ出る。
少年は叫んだ。
「まだ離れない!」
「分かってる!」
赤毛の声も、もう笑っていなかった。
後ろで二本目の矢が飛ぶ。
今度は荷のすぐ脇へ刺さる。
少年の背中が冷えた。
絹が濡れるより先に、火矢でも打ち込まれれば終わる。
「前、狭まる!」
少年の声に、赤毛が舵を押し返す。
「どっちだ!」
見れば、岩沿いの細道が途中で曲がっている。
その先で潮がぶつかって白くほどけていた。
正面突破は無理だ。右へ出れば敵。残るのはひとつ。
「ぶつける」
赤毛が一瞬、意味を測りかねた顔をした。
「何に」
「岩じゃない」
少年は前を見る。
細道の出口で、潮に押されて半ば横を向いている流木があった。
大きい。
舟が当たれば止まる。だが、押せば敵の舟の前へ流せる。
「流木を押して道を塞ぐ!」
赤毛の目がぎらりと光る。
「面白え」
その一言で、もう決まった。
「櫂、合わせろ!」
艀が前へ突っ込む。
流木が近づく。
暗い塊。
波を吸って、ぬらりと光る。
「今!」
三本の櫂が同時に入る。
艀の船首が流木へ当たる。
鈍い衝撃。
「押せ!」
軋む音とともに、流木が外へ滑った。
ちょうどその時、敵の小舟が細道へ入ろうとしていた。
流木が横から食い込む。
「うおっ」
叫び声。
舟がよろける。
二艘の動きがもつれた。
その隙に、赤毛が舵柄を切る。
「抜けるぞ!」
艀が細道の口を飛び出す。
一気に開けた水面。
風が戻る。
後ろで罵声が飛ぶ。
だが敵の舟は流木とぶつかり、すぐには追えない。
赤毛が吠えた。
「そのまま漕げ!」
二人の海賊が笑いながら櫂を入れる。
笑い声は荒いが、怯えを噛み砕いた後の笑いだった。
少年は後ろを振り返らない。前だけを見る。
まだ終わっていない。荷を届け、戻るまでが役目だ。
北の入江は、思っていたよりさらに細かった。
そこに小さな浜があり、黒い頭巾をかぶった男たちが二人、黙って待っていた。
言葉は少ない。
荷を確認し、銀の入った袋を渡す。商いはあっけないほど短い。
流れを繋ぐ者ほど、余計なことは喋らない。
絹を下ろし終えた頃、赤毛が低く言った。
「戻るぞ。今ならまだ引き潮に乗れる」
復路はさらに速かった。潮が味方している。だが、敵が諦めていない可能性もある。
少年は何度も後ろの闇を見た。幸い、追ってくる影はない。
江龍が見えた時、胸の奥でようやく固まっていたものが少しだけ緩んだ。
艀が江龍の腹へ戻る。
荷はない。代わりに銀の袋がひとつ。
甲板へ上がると、周遜が待っていた。
「遅かったな」
それが第一声だった。
赤毛が笑う。
「道草を食った」
「食わせただろう」
「まあな」
周遜の目が、赤毛から少年へ移る。
「何があった」
赤毛が答える前に、少年が口を開いた。
「待ち伏せがいました」
周遜は無言。
少年は続ける。
「二艘。入り江の外で灯を消してました」
「抜けたか」
「左の岩沿いを通って」
「追われたか」
「少し」
周遜の目が細くなる。
「それで」
少年は一拍だけ息を置いた。
「流木を使って、道を塞ぎました」
赤毛が横でにやりとする。
「俺がやったみたいに言うなよ。考えたのはそいつだ」
周遜は少年を見たまま、しばらく黙った。
その沈黙が長い。
やがて周遜は言った。
「荷は」
「濡れてません」
「銀は」
赤毛が袋を持ち上げる。
「きっちり」
周遜は頷いた。
それから少年に向かって、平坦な声で言う。
「初役としては上出来だ」
少年は、一瞬だけ何を言われたのか分からなかった。
上出来。
褒めたのだ。
この男が。
赤毛が吹き出す。
「今日は風向きが妙だな。船長が人を褒めやがった」
周囲でくぐもった笑いが起きる。
だが周遜は構わない。
「次も生きて戻れば、役目は増える」
それだけ言って背を向ける。
いつものように冷たい。
けれど、今度の冷たさは前とは少し違った。
切り捨てる刃ではなく、研ぎにかける砥石の冷たさだった。
少年は自分の手を見た。
掌の布は濡れ、また血が滲んでいる。
腕も足も重かった。
それでも、胸の奥には確かなものが残っていた。
江龍の上で、初めて役目を果たしたのだ。
見て、選び、戻った。
ただ拾われて生き延びているだけではない。
この船の歯車のひとつとして、初めて噛んだ。
その夜、少年はまた船首に立った。
海は暗い。
だがもう、ただの闇ではない。
そこには待ち伏せる者がいて、抜け道があり、売る先があり、戻る潮がある。
海は戦場であり、商いの道であり、試し場だった。
流れを絶やさぬために運ぶ者。
流れを奪って組み替える者。
やっていることは違っても、どちらも海の理から外れてはいない。
少年は龍の彫刻に手を置いた。
この海の道を、もっと知りたい。
奪うためだけではない。
ただ生きるためだけでもない。
人と物と金が、どこから来て、どこへ流れていくのか。
その全部を見たい。
その願いは、まだ野心とも呼べない。
だが、もう復讐だけではなかった。
海の向こうには、父を殺した越がいる。
さらにその向こうには、まだ見ぬ港と、まだ見ぬ流れがある。
江龍は静かに揺れていた。
その腹の中で、少年は少しずつ、ただの生存者ではなくなっていく。
まだ名はない。
まだ海皇ではない。
だがこの夜、江龍の上で、
ひとりの少年は初めて、海の仕事を一つ、自分の手で成し遂げた。
講読ありがとうございました。
面白いと思った方は、応援お願いいたします。大変励みになります。




