第四章 試し潮
江龍は東へ針路を変えた。
島影の多い海へ入る。
このあたりは大小の島が散らばり、見通しは利かず、潮も素直ではない。
沖を大きく回れば安全だが、日数がかかる。
近道を抜ければ早い。
ただし、道を知っていればの話だった。
海面は穏やかに見える。
しかし、水の下では、三つの潮が喧嘩していた。
島影を回る流れ。
沖から差し込む返し。
岩礁に砕かれて生まれる細い巻き。
目に映る海は静かでも、その下では見えない手が船の腹を引いている。
少年は船首寄りの甲板で縄を巻いていた。
三日前に渡された小さな櫂で、毎朝、艀を押す稽古をさせられている。
腕は重く、肩は火のように痛い。
掌の皮はまた剥けた。
治る前に剥け、固まり、また裂ける。
それでも、もう櫂を落とすことはなかった。
赤毛の海賊が通りがかりに鼻を鳴らす。
「ようやく道具に嫌われなくなってきたな」
少年は縄を巻く手を止めずに言った。
「嫌われてたのか」
「最初はな」
赤毛は歯を見せて笑う。
「船も櫂も、人を見る。お前みたいに黙って睨むガキは、だいたい最初にしっぺ返しを食らう」
そう言って去っていく。
褒めたのか、からかったのかは分からない。
江龍では、そのあたりの境目も潮筋みたいに曖昧だった。
昼前、周遜が甲板へ出てきた。
今日は、朝から誰とも長く口をきいていない。
少年はそれを見て、少しだけ身構えた。
こういう時の周遜は、何かを決めている。
周遜は船首から船尾まで甲板を一度見渡し、それから片目の操舵手へ言った。
「ここから先、舵を離れろ」
操舵手が片眉を上げる。
「どこまでだ」
「黒牙礁を抜けるまで」
甲板の空気が、ぴたりと止まった。
赤毛が先に声を上げる。
「正気か、船長」
別の古参が吐き捨てる。
「沖を回れば済む話だ」
周遜はそちらを見もしない。
「回れば半日遅れる」
「半日で済めばいいがな」
「済ませる」
短い返答だった。
黒牙礁。
その名は、少年も三日で耳にしていた。
島影の狭間に隠れた岩礁帯。
満ちれば消え、引けば牙を見せる。
潮が重なれば、見えている道すら嘘になる。
慣れた船でも嫌う場所だ。
そこを抜ける。
しかも、周遜は操舵手に舵を離れろと言った。
眼帯の操舵手が低く聞く。
「代わりは」
周遜は、少年を見た。
甲板の視線が一斉に集まる。
赤毛が笑いかけて、途中でやめた。
冗談でないと分かったからだ。
「……こいつにやらせる気か」
周遜は答えない。
答えの代わりに、少年へ顎をしゃくる。
「舵へ来い」
少年の胸が一つだけ大きく打った。
怖くないわけではない。
むしろ喉の奥が冷えた。
だが足は止まらなかった。
舵輪の前へ立つ。
眼帯の操舵手が、手を離す前に一度だけ少年の顔を見た。
その目にあるのは侮りではなかった。
重さだ。
これを握る意味を知っている者の目だった。
「落とすな」
操舵手はそれだけ言って、脇へ退いた。
少年は舵輪に手をかけた。
重い。
前よりも、ずっと。
狭い海へ入ると、船は途端に気難しくなる。
江龍の腹を潮が左右から小突いているのが分かる。
まだ黒牙礁の外だというのに、海はもうこちらを試していた。
周遜が船首寄りに立つ。
「聞け」
少年は頷かない。
ただ前を見る。
「俺は三度までしか言わん」
周遜の声が飛ぶ。
「一度目は教える」
「二度目は見ているか確かめる」
「三度目で外したら、お前を舵から引きずり下ろす」
赤毛が口を挟む。
「四度目は?」
周遜は淡々と答える。
「ない。船が割れる」
誰も笑わなかった。
江龍は島影へ入る。
風が急に痩せた。左右の島が、空を狭める。波は小さいのに、船底へ当たる感触はむしろ忙しい。表面は静かでも、下で潮が噛み合っている。
少年は前を見た。
島と島のあいだに、狭い水路が伸びている。
一見すれば通れそうだった。
だが、その入り口からして妙だった。
波が二つに割れている。
右から来る筋と、左から滑る筋が、中央で触れてほどける。
その接ぎ目が、一本の薄い線になっていた。
周遜が言う。
「どこを取る」
少年はすぐに答えられなかった。
広く見えるのは右。
だが右は潮が速い。流された先に岩がある。
左は狭い。だが奥にわずかな溜まりがある。
迷った、その瞬間。
周遜が言う。
「一度目だ」
声に感情はない。
「左の狭い方を取れ。広い道は罠だ」
少年は舵を切った。
江龍がゆっくりと身をひねる。
船首の龍が、狭い水路へ鼻先を向ける。
「戻しすぎるな」
周遜が続ける。
「潮が腹を押してくる」
少年は息を浅く吐いた。
舵輪が重く、掌の傷がきしむ。
船体の左舷が、見えない手に押される。
言われた通りだ。
ここで慌てて戻せば、逆に右へ流される。
少年はこらえた。
江龍が細い水路へ入る。
岩肌が近い。
船員たちも黙って左右を見ている。
誰も声を出さない。
こういう時、無駄口は刃より邪魔だ。
最初の狭間を抜けると、視界が少し開けた。
だが安心するには早かった。
その先で潮が渦を巻いている。
大きな渦ではない。
だが細く長い。
船首が飲まれれば、船尾が振られる。
少年は目を細めた。
白波の立ち方が不規則だ。
中央は静かに見える。
その両脇で、小さく泡が砕けている。
「……真ん中じゃない」
思わず口に出た。
周遜が聞く。
「何だ」
「真ん中が深く見える。でも、死んでる」
周遜は黙る。
少年は海を睨んだ。
中央は道ではない。
潮が落ちて、次の流れに呑まれる穴だ。
生きている道は、その右脇。
狭くて、見た目は悪い。
だが泡の砕け方が前へ流れている。
「右寄りです」
周遜はすぐには答えない。
少年の首筋を汗が伝う。
間違っているかもしれない。だが見えてしまった以上、黙る方が怖かった。
「二度目だ」
周遜の声が落ちる。
「なぜそう見る」
少年は必死に言葉を探した。
「中央は沈んでるんじゃない。引いてる」
「……」
「向こうへ抜ける道なら、波がほどけるはずだ。でも、そこは戻ってる」
一拍。
「右は狭いけど、泡が前へ逃げてる」
周遜の目がわずかに細くなった。
「切れ」
少年は舵を右へ寄せた。
江龍が嫌がる。
船体が低く軋み、左へ逃げたがる。
それを押さえ込む。
腕が震える。
櫂で作った力など、まだ頼りない。だが今は、腕より先に目が船を引いていた。
船首が、泡の筋へ入る。
次の瞬間、船体の重さがふっと抜けた。
「乗った」
眼帯の操舵手が、思わず小さく呟いた。
江龍は渦の縁を噛み、そのまま前へ滑った。
中央の暗い水面は、船のすぐ左で鈍く回っている。
あと一尺ずれていれば、引かれていた。
赤毛が低く笑う。
「こいつ、本当に見えてやがる」
まだ終わっていない。
その先で、水路はさらに細く折れていた。
左右の岩が迫り、潮は島の裏で向きを変える。
ここから先は、道を知る者でも一瞬ためらう場所だ。
周遜が初めて少年の真後ろへ来た。
近い。
外套の端が、濡れた木の匂いを運ぶ。
「最後だ」
低い声だった。
「ここは教えん」
少年は息を呑んだ。
「見ろ」
それだけだった。
前方の海は、三つに割れていた。
左は広い。
中央は穏やか。
右は岩が近い。
だが、どれも怪しい。
広い道は、いつだって優しく見える。
穏やかな道は、いつだって眠って見える。
岩に近い道は、いつだって人を脅す。
少年は目を凝らした。
風がない。
そのぶん、水の表情が出ている。
左は、外へ開いているようで、実は戻る潮だ。
中央は静かすぎる。沈みがある。
右は狭い。だが岩肌に沿って、細い返しが走っている。
ほんの糸一本みたいな道だった。
見間違えれば終わる。
見えていても、手が遅れれば終わる。
掌が焼けるように痛む。喉がからからだった。
それでも、少年は思った。
海は隠していない。
最初から、見える者にだけ見せている。
「右」
自分の声が思ったより低く出た。
舵を切る。
江龍が岩へ寄る。甲板の誰かが息を呑む。
近い。
岩肌の濡れまで見える。船首が、今にも折られそうだった。
「そのまま」
周遜の声。
少年は歯を食いしばる。
船底の下で、潮が一度暴れた。
船尾が外へ振られそうになる。
「今だ。半度戻せ」
少年は即座に戻した。
江龍が返しに噛みつく。
船が滑る。
押されるのではない。
引かれるのでもない。
細い見えない道を、龍の腹が撫でるように進む。
そして次の瞬間、水路が開けた。
一気に視界が広がる。
島影の向こう、青い海が陽を返していた。
背後で、黒牙礁の白波だけが遠く砕けている。
抜けた。
甲板の空気が、どっと緩む。
誰かが長く息を吐き、赤毛が笑い声を上げた。
「生きてるな、畜生」
眼帯の操舵手も、わずかに口元を動かしていた。
それがこの男なりの驚きなのだと、少年にも分かった。
だが周遜は、すぐには何も言わなかった。
しばらく海を見て、それから舵輪へ置かれた少年の手を見る。
裂けた掌。震える指。血のにじんだ皮。
「離せ」
少年は一瞬、命令の意味が分からなかった。
「舵だ」
言われてようやく、握りしめていたことに気づく。
指がうまく開かない。こわばっている。無理に離した途端、掌に鋭い痛みが走った。
周遜はその手を一瞥し、腰の小袋から粗い布を放ってよこした。
「巻け」
少年は受け取った。
薬でも褒め言葉でもない。
ただの布。
江龍らしい褒美だった。
赤毛が笑う。
「船長なりに優しいじゃねえか」
周遜は赤毛を見ずに言う。
「血で舵を滑らせる方が面倒だ」
甲板にくぐもった笑いが広がる。
だが、その笑いの裏で、視線はもう変わっていた。
死に損ないのガキを見る目ではない。危ない潮を抜いた者を見る目だった。
眼帯の操舵手が近づいてきて、少年の横に立つ。
大きな手で、舵輪を軽く叩いた。
「こいつは嘘をつく」
少年は顔を上げる。
操舵手は前を見たまま続けた。
「広い道を見せて、底で噛む。静かな顔をして、腹を裂く。そういう時がある」
短く息を吐く。
「今日は、噛まれなかったな」
それだけ言って持ち場へ戻っていった。
少年は手の布を巻いた。
掌が熱い。
腕が重い。
膝も少し笑っている。
それでも、胸の奥には妙な静けさがあった。
やれたのだ。
偶然ではなく。一度だけでもなく。見て、選んで、通した。
周遜が船首へ向かいながら、ふいに言った。
「二度だ」
少年は顔を上げた。
周遜は振り向かない。
「考える、と言ったな」
それだけだった。
だがその一言は、褒め言葉より重かった。
赤毛が肩を揺らして笑う。
「こりゃあ珍しい。船長の財布より渋い口が、今日は少し開いたぞ」
今度は、甲板の何人かがはっきり笑った。
少年は笑わなかった。
まだ、そこまで軽くはなれない。
けれど、周遜の背中が少しだけ近くなった気がした。
海が開ける。
江龍は黒牙礁を抜け、再び自由な水面へ躍り出た。
風を受けた帆が深くふくらみ、龍の船首が前を向く。
その日の夕刻、少年はひとり船首に立って海を見ていた。
広い。
だが朝までの広さとは違う。
ただ恐ろしいだけの海ではなかった。噛みつく歯があり、誘う道があり、選ぶ理がある。そして、その理に触れた時だけ、海はほんの少しだけ通してくれる。
父は商いのために海を読んだ。
周遜は生き延び、奪うために読む。
自分はまだ、その先を知らない。
だが一つだけ分かる。
海の道は、誰かが与えるものではない。
命を賭けて見つけるものだ。
船首の龍に手を置く。
この船は、人を甘やかさない。だが価値のない者をわざわざ試しもしない。
今日、周遜は自分を黒牙礁へ投げた。それは歓迎ではない。
使えるかどうか、海で量ったのだ。
ならば、次も通るしかない。
少年は、遠く沈みかけた陽を見た。
まだ名はない。
まだ何者でもない。
だが海はもう、二度この目を試した。
そして二度とも、見ていた。
後にこの男は、無数の船を率い、無数の道を拓く。
国の海図にない道を見つけ、人と物と金を結ぶ。
海の王でも、陸の皇帝でもなく、もっと厄介な何かになる。
だが今はまだ、その手前だ。
江龍の上で、ひとりの少年が、
初めて自分から海へ牙を立て返しただけだった。
講読ありがとうございました。
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