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第三章 海を読む者

江龍の朝は早かった。


まだ空が白みきる前から、甲板ではもう人が動いている。


誰も怒鳴らない。


怒鳴らなくても、何をする時間かが身体に入っている動きだった。


少年も起こされた。


正確には、足で軽く蹴られた。


「そこ、寝床じゃねえぞ」


見上げると、赤毛の男が立っていた。


焼けた顔。


赤い髪。


口元だけ笑っている。


昨日、名乗った男だ。


「動けるか」


少年は身体を起こした。


肩はまだ痛む。


だが昨日よりはましだった。


「動く」


「よし」


赤毛は桶を一つ投げて寄越した


「持て」


「また掃除か」


「海賊船を何だと思ってる」


赤毛は笑う。


「汚れたら洗う。血が出ても洗う。吐いたら洗う。死んでも洗う」


その言い方は軽い。


だが、この船の上ではたぶん本当にそうなのだろう。


少年は桶を持った。


甲板に海水を撒き、板を洗う。


木目の間に入った塩と泥が白く浮く。


江龍の板は古く、何度も血を吸い、何度も洗われてきた顔をしていた。


「今日は目を開けとけよ」


赤毛が帆の向こうを見ながら言う。


「なんでだ」


「何かあるかもしれねえ」


それだけ言って去っていく。


江龍の上では、どうやらそれで十分らしかった。


日が昇ってしばらくして、見張りが声を上げた。


「帆影!」


少年は顔を上げた。


東の海に、白い帆が見える。


一つではない。


大小あわせて三つ。


大きい船が一つ、脇を小さい船が二つ固めている。


商船だった。


甲板の空気が変わった。


騒がしくはならない。


むしろ逆に、余計な音が減った。


船首の後ろに立つ周遜は、すでに海を見ていた。


相手の船だけを見ているのではない。


風。


波。


船の向き。


逃げるならどちらへ逃げるか。


戦うならどこで歯を見せるか。


それを全部まとめて見ているような目だった。


少年は思わず、その横顔を見た。


周遜は振り向かないまま言った。


「起きていたか」


「…ああ」


「なら見ろ」


それだけだった。


少年は前を見る。


赤毛が舷側に寄り、目を細めた。


「護衛つきか」


片目の操舵手が舵輪のそばから低く言う。




「足は遅い」


荷役頭は船腹の影で腕を組んだまま、短く継いだ。


「やる気はある」


少年は小さく息を呑んだ。


まだ遠い。


まだほとんど帆影でしかない。


なのに、この船の男たちはもう相手の腹の中まで見ているみたいだった。


周遜が静かに言う。


「左の小さい方が先に出る」


「大きい方はすぐには逃げん」


赤毛が笑う。


「値を見てるな」


周遜は答えない。


だが否定もしない。


少年にはまだ分からなかった。


なぜそんなことが分かるのか。


だが江龍の男たちは、それを不思議とも思っていない顔をしていた。


「襲うのか」


気づけば、口に出していた。


周遜は視線を外さず答えた。


「海賊船だ」


「……殺すのか」


そこで周遜は初めて少しだけこちらを見た。


「向こう次第だ」


少年は黙る。


周遜は続けた。


「降れば殺さん」


「反撃すれば殺す」


「荷は取る」


「船は、いるものだけ使う」


赤毛が横から言った。


「他の海賊みてえに、面白半分で皆殺しにはしねえよ」


「まあ、放した後に陸へ戻れるかは運だがな」


その軽い言い方に、少年は胸の奥が少しだけ冷えた。


助けるわけじゃない。


慈悲でもない。


ただ、無駄に殺さないというだけだ。


周遜が言う。


「覚えとけ」


「情は勝手だ。だが順番は違えるな」


「こっちが沈めば終わる」


冷たい声だった。


だがその冷たさは、人を傷つけるためのものではない。


先に死なないための冷たさだった。


江龍が動いた。


船首がわずかに東へ向き、帆が風を食う。


速い。


けれど慌ててはいない。


少年はそれを見ていた。


父の船団も船を動かした。


荷をつなぎ、風をつかみ、港から港へ流れを渡した。


だが江龍の動きは違う。


獲物へ向かう動きだ。


しかし、ただ真っすぐ噛みつくのではない。


逃げたい向きを先に塞ぎ、相手の心が折れるところへ自分の船首を置きにいく。


それは船を操るというより、海の上の気配そのものを読んでいる動きだった。


商船の方も江龍に気づいたらしい。


帆が慌ただしく動く。


脇の護衛船が二つ、前へ出る。


周遜が低く言う。


「まだ逃げる気がある」


「なら、その気が折れるまで寄せる」


少年は周遜を見た。


この男は、刃を振るう前にもう半分勝っているのではないか。


そんな気がした。


荷役頭が短く言う。


「左が来る」


その言葉どおり、左の護衛船が少しだけ前へ出た。


牽制か、時間稼ぎか。


とにかく、大きい船を逃がしたい動きだった。


周遜が命じる。


「左を割れ」


片目の操舵手が舵を切る。


江龍が斜めに沈み込むように動く。


真正面ではない。


相手の船首がいちばん嫌がる角度へ、自分の船首を差し込む。


少年は息を呑んだ。


速い。


だが、速いだけではない。


まるで相手の“次”を知っているような当て方だった。


「行け」


荷役頭の声で海兵たちが動く。


鉤縄が飛ぶ。


赤毛が最初に渡る。


次いで何人も続く。




戦いは短かった。




刃の音。


叫び。


板のきしみ。


海の上の戦はもっと大げさなものかと思っていた。


だが実際には、短く、近く、そしてあっけなかった。


赤毛の刃が一人の腕を裂く。


荷役頭が盾で押し、短刀で喉を落とす。


海兵たちは散らない。


敵の一人ひとりではなく、船の上の“動き”を潰していた。


少年はそのすべてを見ていた。


怖い。


だが目を逸らせなかった。


大きい商船が反転を始める。


だが遅い。


周遜が言う。


「二隻目」


江龍がまた動く。


少年はそこでようやく分かった。


この船は一隻ずつ相手を倒しているのではない。


最初から、相手の船団がどう崩れるかまで読んで動いている。


二隻目の護衛船も、逃げる向きを殺され、鉤縄を受け、崩れた。


その時点で、商船から白い布が振られた。


降伏だった。


「止めろ」


周遜の声で、戦が止まる。


赤毛が相手船の上から叫ぶ。


「船長、残りは下ろした!」


周遜が返す。


「反撃したやつだけ海へ返せ」


少年はその言葉を聞いて、喉の奥が少し詰まった。


やはり最初に言った通りだ。


降れば殺さない。


反撃すれば殺す。


掟は、状況で変わらない。


周遜はそこだけは揺らさない。


そのことが、怖いのに妙に信じられた。


荷の移し替えが始まった。


絹。


乾物。


薬種。


鉄。


縄。


帆布。


金になるものだけではない。


江龍がこの先も走るために要るものが、先に選ばれていた。


少年も荷運びを命じられた。


肩は痛む。


腕も重い。


だが止まる気にはなれない。


働いている間は、余計なことを考えずに済む。


商船の甲板では、生き残った船員たちが膝をついていた。


その中の一人が少年を見た。


年かさの男だった。


父に少し似た手をしていた。


「お前……」


その声に、少年の足が止まりかける。


だがすぐに周遜の声が飛んだ。


「止まるな」


その一声で、身体が先に動いた。


少年は荷を抱え、江龍へ戻る。


戻ってから、自分でも少し驚いた。


情がないわけではない。


むしろ胸は嫌なほど重かった。


それでも、いま立つべき板の上を、自分で選んだ。


江龍の板の上。


こちら側だ。


その重さが、ようやく少しだけ分かり始めていた。


作業が終わる頃、生き残った船員たちは小さな舟へ移されていた。


水と少しの食を渡され、縄も切られる。


あとは運だ。


少年はその舟を見た。


自分も本来なら、ああなる側だった。


海が返したから、いま江龍の上にいる。


返さなければ、そのまま流れて終わっていた。


周遜が近くに立った。


「嫌か」


少年は答えに詰まる。


「……分からない」


「それでいい」


周遜は海を見たまま言う。


「すぐに慣れるやつは、たいてい先に腐る」


少年は横顔を見た。


この男は冷たい。


だが冷たいだけなら、そんなことは言わない。


忘れるな。


だが止まるな。


その二つを、たぶんこの男は自分にも課している。


「船長」


気づけば呼んでいた。


周遜が少しだけ目を向ける。


「お前、どうして分かった」


「何がだ」


「逃げる船の向きとか」


「戦う気とか」


周遜は少し黙った。


「見るからだ」


「何を」


「帆」


「波」


「舵」


「人の迷い」


それだけ言って、また前を見た。


「海は喋る」


「喋らんと思ってるやつには、何も言わんだけだ」


少年はその言葉を黙って飲み込んだ。


海は喋る。


父も似たようなことを言っていた気がする。


風を見ろ。


潮を聞け。


船の重さを感じろ。


そういう言葉で。


だが周遜の言い方は、もっと刃に近かった。


海を読む者。


その読みを、獲物の息へまで伸ばす者。


それがこの男なのだと、少年はようやく分かり始めた。


夜、江龍はまた南へ走っていた。


甲板の血は流され、荷は積み直され、帆は風を食んでいる。


昼の戦が嘘みたいに、船はもういつもの顔へ戻っていた。


少年は甲板の隅で桶を洗っていた。


そこへ片目の操舵手が通りかかった。


前を向いたまま言う。


「吐かなかったな」


少年は顔を上げる。


「何がだ」


「戦いを見て」


「吐かない」


片目の操舵手はそこで一度だけ片目を向けた。


「ならまだ乗れる」


それだけ言って去っていく。


赤毛があとから来て、酒壺を揺らしながら笑った。


「機嫌いいぞ、あれ」


「そう見えない」


「見えたら逆に怖えよ」


赤毛は少年の横にしゃがみ込む。


「でもまあ、お前も少しは分かってきたろ」


「何が」


「この船が、ただ噛みついてるだけじゃねえってことだ」


少年は桶の水を見たまま答えなかった。


赤毛は星の少ない空を見上げる。


「船長は、奪って食うだけで終わる男じゃねえ」


「厄介なんだよ」


「こっちまで、少し先を見ちまう」


その言葉を、少年はしばらく飲み込めなかった。


少し先。


父を失った夜から、そんなものは全部消えたと思っていた。


だが江龍の上では、それでもまだ“先”という言葉が死んでいないらしい。


少年は船首の黒い龍を見た。


海は暗い。


けれど真っ暗ではない。


雲の切れ間に星があり、波は鈍く光っている。


帰る場所はもう薄い。


けれど、進む先はあるのかもしれない。


その夜、少年は初めて周遜の背中を見て、少しだけ思った。


この男についていけば、


海が何を喋るのか、いつか自分にも聞こえるのかもしれない。


江龍は南へ進む。


黒い龍の船首が、月のない海を裂いていく。


その上で少年もまた、


ただ拾われた者ではなく、


海を読む者の背を見ながら、


少しずつ海の言葉を覚え始めていた。



講読ありがとうございました。


面白いと思った方は、応援お願いいたします。大変励みになります。

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