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第二章 江龍

第二章 江龍


目を開けた時、最初に見えたのは空ではなかった。


黒い木だった。


濡れた板。


節の浮いた梁。


揺れるたびに軋む天井。


そこから遅れて、鼻の奥へ塩と血と魚油の匂いが入ってきた。



少年は息を吸い、すぐにむせた。


喉が焼ける。


胸も痛い。


腹の中にはまだ海水が残っているみたいだった。



身体を起こそうとして、右肩に激痛が走る。


思わず歯を食いしばると、近くで低い声がした。


「起きたか」


声のした方を見る。


狭い船室の入口に、男が立っていた。


四十を越えている。


日に焼けた顔。


潮風で荒れた手。


無駄のない体つき。


外套は乾き切っておらず、裾にまだ海水の染みが残っている。


だが何より、目が冷たかった。


怒っているわけではない。


哀れんでもいない。


ただ、値踏みするみたいに静かだった。


少年は喉を鳴らした。


「……ここは」


「江龍だ」


男は短く答えた。


その名は、少年も聞いたことがあった。


南の海を荒らす黒い海賊船。


商船を襲い、消え、また別の海で現れる船。


だが噂はいつも噂でしかなく、父はあまり語りたがらなかった。


「お前を拾った」


男は言った。


「海が返したからだ」


少年はすぐには意味が分からなかった。


頭の中はまだ嵐の夜の続きにあった。


裂ける空。


波。


越の船影。


父の声。


倒れる帆柱。


暗転。


そこまで思い出した瞬間、少年ははね起きかけた。


「父上は」


肩がまた痛む。


だがそんなことはどうでもよかった。


「父上はどうなった」


男は答えなかった。


その沈黙で、分かった。


少年の喉の奥が、ひどく乾いた。


「……他の船は」


「沈んだ」


「父は」


「見ていない」


男はそう言ってから、一拍置いた。


「だが、生きてはいまい」


少年は何も言えなかった。


胸の中に穴が開く、とはこういうことかと思った。


悲しいというより、急に身体のどこかが消えたみたいだった。


男はその顔を見ても、慰めなかった。


「泣くならあとで泣け」


平坦な声だった。


「今は吐くな。せっかく助かったものを、もう一度死なせるな」


少年は男を睨んだ。


その目つきだけで殴りかかれそうなほど腹が立った。


なのに、身体は指一本まともに動かない。


男はその怒りも含めて見ていた。


「その目は悪くない」


少年は息を荒くした。


「誰だ」


男は少しだけ顎を上げた。


「周遜だ」


その名にも聞き覚えがあった。


長江の敗残。


海へ逃げた男。


江龍の船長。


海賊にしては、妙に名の通った男。


周遜は船室の中へ一歩だけ入ってきた。


「聞く」


少年は返事をしない。


「陸へ戻りたいか」


その問いに、少年は一瞬だけ詰まった。


陸。


その言葉を頭に置くと、すぐに泉州の浜が浮かんだ。


父と歩いた岸。


荷を積む朝。


縄の匂い。


船団の影。


だが、その先に続くはずのものがない。


父はいない。


船団もない。


越の船がそれを壊した。


戻ったところで、何になる。


周遜は答えを急がなかった。


ただ立っている。


少年が自分でその先を見つけるまで待つ顔だった。


少年は乾いた唇を舐めた。


「戻っても……何もない」


「そうか」


周遜はそれだけ言った。


慰めでも同情でもない。


事実を一つ受け取っただけの声だった。



「なら選べ」


「何を」


「海へ落ちるか、海へ残るかだ」


少年は眉を寄せた。


「同じだろ」


「違う」


周遜は言う。


「落ちたやつは流される」


「残るやつは、しがみつく」


その言葉は妙に胸へ入った。


周遜は続ける。




「お前はまだ何者でもない」


「父の船も失った。帰る先も薄い」


「なら、ここで死ぬか、生きるかは自分で決めろ」


少年は周遜を見た。


ひどい男だと思った。


拾っておいて、優しい言葉一つない。


だが同時に、嘘もない。


この男は、できもしないことを言わない。


助けると決めたなら助ける。


捨てるなら捨てる。


それだけだ。


少年は問うた。


「残ったら、どうなる」


「働け」


「それだけか」


「食え」


「それだけか」


周遜の口元が、ほんのわずかに動いた。


「生き延びれば、その先もある」


船室の外で、誰かの笑い声がした。


板の上を走る足音。


縄が擦れる音。


江龍は生きていた。


父の船団が沈んだ夜のあとも、この船は海の上を進んでいる。


少年はその音を聞いた。


海は何も終わらせていない。


終わったのはこちらだけだ。


なら、自分で続きへ行くしかない。


「残る」


気づけば、そう言っていた。


周遜は頷きもしなかった。


ただ、最初から聞こえていた答えを確認しただけの顔をした。


「なら立て」


「無理だ」


「立て」


命令だった。


少年は歯を食いしばって身体を起こした。


肩が痛む。


足元が揺れる。


吐き気もする。


それでも板に手をつき、膝を立て、どうにか立ち上がる。


その瞬間、船が大きくうねった。


少年の身体がよろける。


だが周遜は支えなかった。


少年は壁に肩をぶつけながら、どうにか踏ん張った。


周遜が言う。


「遅い」


少年は荒い息のまま睨み返す。


「死にかけだ」


「死んでない」


それだけだった。


周遜は踵を返し、船室の外へ出る。


入口で一度だけ振り向いた。


「出てこい」


「甲板を見ろ」


「海に残ると決めたなら、まず自分がどこにいるか知れ」


少年は壁に手をついたまま、その背を見た。


冷たい。


だが不思議と、嫌いな冷たさではなかった。


火を消す冷たさではなく、刃の冷たさだった。


痛む肩を押さえながら、少年は外へ出た。


眩しかった。


昼の光ではない。


曇った空の下、それでも海の照り返しが目に刺さる。


風は強く、帆は膨らみ、甲板は忙しかった。


男たちが動いている。


縄を巻く者。


帆を見上げる者。


桶を運ぶ者。


刃を研ぐ者。


誰も、少年を拾い物として珍しがってはいない。


ちらりとは見る。


だがそれだけだ。


江龍の上では、役に立つか立たないかの方が大事なのだと、すぐに分かった。


船首には黒い龍の彫刻があった。


長く海水を浴び、木目の奥まで塩を吸った黒い龍。


口を開け、いまにも何かを噛み砕きそうな顔をしている。



少年はその前で足を止めた。



ここが江龍。



父の船ではない。


越の船でもない。


海賊船だ。



だが海の上にあるという一点では、父の船団と同じだった。



周遜が船首の少し後ろに立っていた。


「見たか」


少年は頷く。


「見た」


「どう見えた」


少年は少し迷った。


だが嘘をつく気にはなれなかった。


「獣だ」


周遜の目が少し細くなった。


「そうだ」


「飢えた獣だ」


それから周遜は、甲板の端に立てかけてあった小さな桶を顎で示した。


「持て」


少年が見る。


「何をする」


「掃除だ」


拍子抜けした。


もっと何かあると思った。


周遜は平然としている。


「海に残ると言っただろう」


「ならまず働け」


「江龍は死人を抱えて走らん」


その言葉に、少年の胸のどこかがひどく冷えた。


優しさはない。


本当にない。


だが、だからこそ、この船では生きることそのものが掟なのだと分かる。


少年は桶を取った。


重くはない。


だが肩には響く。


甲板に海水を撒き、血の跡と泥を流し始める。


誰かが横を通りすがりに笑った。


「ひでえ顔だな」


赤毛の男だった。


焼けた顔に赤い髪。


口元は笑っているのに、目は笑っていない。


少年は何も返さない。


赤毛は面白そうに肩をすくめた。


「気の強いガキだ」


それから、周遜の方を見て言う。


「また妙なのを拾ったな」


周遜は答えた。


「海が返した」


赤毛が鼻で笑う。


「なら、使えるといいな」


その言い方に、少年は顔を上げた。


周遜ではなく、その赤毛を見る。


赤毛は少年の目を見返して、少しだけ歯を見せた。


「睨むなよ」


「食う気があるなら、早く食えるようになれ」


言い捨てて去っていく。


少年はまた甲板を洗った。


桶の水が板の上を走る。


血が薄まり、塩が光り、木目の隙間へ赤黒いものが消えていく。


海賊船の甲板は、きれいにはならなかった。


それでも洗う。


また汚れると分かっていても洗う。


その作業の途中で、少年はふと海を見た。


雲はまだ低い。


波は荒くない。


風は東から。


父がいなくても、海は昨日と同じようにそこにある。


その事実だけが、なぜか救いみたいに思えた。


夜、食事は硬い餅と干し魚だけだった。


それでも少年は全部食べた。


吐きそうになっても食べた。


食わなければ、明日の朝にはもう落ちる側へ戻る気がしたからだ。


食べ終えたあと、甲板の隅で小さく身体を丸める。


毛布は薄い。


板は冷たい。


だが眠れないほどではなかった。


見上げると、雲の切れ間に星が一つ見えた。


その時、周遜の声が頭の中でよみがえった。


落ちるか、残るか。


少年は目を閉じた。


もう落ちたくはない。


海は父を奪った。


だが同時に、自分をまだここへ残している。


なら、残る。


残って、見る。


見て、生きる。


その先がどこへ続くのかはまだ分からない。


だが、いまはそれでよかった。


江龍は夜の海を進んでいく。


黒い龍の船首が、月のない空の下で鈍く光る。


風は東から。


潮は緩い。


船は南へ向かっていた。


少年は薄い毛布の下で拳を握った。


帰る場所を失った夜の先で、


彼は初めて、自分の意志で海に残った。




講読ありがとうございました。


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