第4話 優秀な侍女と一部始終
「あああアンヌ! どどど、どうしましょう! 私、グレイニーグ様の前で、あんな──」
動揺するエルルーカがいるのは、恐らく謁見の間から一番近くにあった来客用の部屋なのだろう。
部屋の壁を支える複数の太い柱と天井は、廊下や広間と同じ漆黒。
広く上品に整えられているが、エルルーカのために用意したような、女性向けと思われる家具は見当たらなかった。
編み上げられたドレスの背はアンヌが緩めてくれていたようで、倒れる前より息がしやすい。
寝台から上体を起こし真っ青になって縋り付くと、すぐ側で椅子に掛けていたアンヌは、呆れた顔でため息を吐いた。
「落ち着いて下さい。私が間に合いましたから、大丈夫ですよ」
そう言った彼女は、意識がなかった間のことを説明してくれた。
***
「王国軍最高司令を務めております、グレイニーグ・ガーレインです。遥々お越し頂けたこと、感謝申し上げます」
グレイニーグがそう言った瞬間──というか、彼が現れた瞬間から、少し下がった壁際に控えていたアンヌは、猛烈に嫌な予感がしていた。
遠くで凛として立つエルルーカの背中が、僅かに強張ったのが見えたのだ。
(まずい……あれは相当まずいわ。姫様の心が手に取るようにわかる。絶対、一目惚れしてる。興奮が天元突破してる)
アンヌは、エルルーカより五歳年上の従姉妹で、幼い頃からの旧知の仲。
ずば抜けた強さのせいで普段から殆ど物事に動じない主人が、明らかに平静でないことを察し、国の命運を賭けた一瞬の判断を迫られていた。
(どうしよう)
サッと周囲に視線を走らせる。
己のすぐ横にも正面にも人はいないが、同じ壁面のもっと魔王ラングールに近い位置には、先ほどここまでの案内を担当した、冷淡な表情の白髪の男と人懐っこい面立ちの黒髪の男が並んで待機している。
入り口の扉前は、他の二人の男が護り、それ以外には誰もいない。
幸いにも、魔王も含めた全員の視線は、アンヌではなく中央にいるエルルーカとグレイニーグに向いている。
(いいえ、どうするか悩んでいる暇はないわ。すぐに姫様を回収しないと……!)
意を決したアンヌは、己の右手にある指輪の中央、小さな赤い石をギュッと握り締め、心の中で呪文を唱えた。
(灼熱の盾、安寧の護人、時の番人──応えよ、指輪! 汝の主、エルルーカ・リーン・クレアムの元へ!)
その瞬間、アンヌは瞬きよりも速くエルルーカのすぐ隣へ移動した。
「──っ」
突然現れた彼女の姿に、目の前でグレイニーグが目を見開いて息を呑み、他の者達も含め広間に動揺と緊張が走る。
集まる視線を肌にビシビシと感じながらも、それを無視した。
アンヌの今一番最初にやらなければならない仕事──それは、誰かに気付かれるよりも先に、エルルーカの鼻血を拭うことだったからだ。
彼女が隣に辿り着いた時、案の定エルルーカは気を失う直前だった。
主人の体を支えながら、目にも止まらぬ速さでハンカチを取り出し、汗を拭うように見せかけながら、垂れ掛けていた鼻血を拭き取る。
何かツッコミを入れられては堪らないと、グレイニーグが再び口を開くより先に叫ぶように言った。
「突然のご無礼、大変失礼致します。エルルーカ様は、この日を大変楽しみに……それはそれは楽しみにしておられまして! 楽しみすぎて、極度の緊張が出てしまわれました。どうか、一度このまま下がることをお許し下さい……!!」
驚きでアンヌに集中していた全員の視線が、そこでようやく、彼女の腕の中で瞼を閉じ気を失っているエルルーカへ移る。
グレイニーグの瞳が僅かに揺れた。
「いや、無礼とは思っていない。私こそ、彼女の体調に気付けず、すまなかった。すぐに彼女を安静にできる場所へ案内しよう。……触れてもいいだろうか」
丁寧に尋ねてきた彼が、アンヌの代わりにエルルーカを運んでくれようとしていることがわかり、頷き主人を預ける。
意識のないエルルーカを大切そうにふわりと横抱きにし、グレイニーグが視線を寄越してきた。
「──こちらへ」
マントを翻し歩き出した彼の後を、言われるまま着いて行く。
部屋まで送り届ける途中、呟きとも言えない程の微かな声で、グレイニーグが腕の中で眠るエルルーカを見つめながら囁いた。
「……負担を掛けてしまい、すまなかった」
少し後ろを歩くアンヌに彼の表情は見えなかったが、低いその声には、角が光る異形の見目とは反し、優しさと誠実さが伺い見えた。
***
「──で、ここに案内されて、姫様のお目覚めを待っていました。なので、まさか姫様が鼻血を垂らして興奮で倒れたとは、誰も思っていないはずです」
アンヌが説明を終えると、顔を真っ赤にしたエルルーカは彼女の両肩を勢いよく掴んだ。
「ちょちょちょ、ちょっと待ってよ! わ、私、グレイニーグ様に……お、お姫様抱っこして頂いたってこと……!?」
「いや、引っかかるところ、そこですか?」
アンヌがジトリと睨んで来たので、エルルーカも負けじと返す。
「え!? 寧ろそこしかないでしょう!? どうして意識がなかったの!? 勿体なさすぎる……!! お姫様抱っこなんて、私の憧れそのものじゃない!!」
「まずその前に、『アンヌありがとう』とか『アンヌ最高』とか『優秀すぎて神!』とか、もっと私に言うことがあるでしょう! なんですか、鼻血出して気絶って」
凄みのある笑顔で迫られ、エルルーカはしょんぼりとした。
「た……確かに。ありがとう、アンヌ。最高すぎて神です」
「もっと心を込めて下さい。姫様に渡されていた指輪、早々に使うことになっちゃったんですから。もう、本当勘弁して下さいよ」
そう言って、アンヌは抜き取った指輪をエルルーカに渡す。
アンヌは、魔法が使えるわけでも、護衛や隠密のように身体能力が優れているわけでもない。
エルルーカのことをよく知る人物、かつ、単純に魔王や魔獣を恐れない胆力を持っているという理由で、この政略結婚への同行者に抜擢されていた。
グレイニーグの前で瞬間移動をしてみせたのは、エルルーカの魔力が込められた指輪の力を使っただけ。
自衛ができない彼女のもしもの時を想定し、持たせていた緊急用の魔法道具だった。
「渡しておいて本当によかったわ。──灼熱の盾、安寧の護人、時の番人。汝の主、エルルーカ・リーン・クレアムが命じる。役目の時まで、指輪よ、暫し眠れ」
長々と呪文を唱えながらエルルーカが指輪を握ると、一瞬カッと赤い石が眩く輝く。
指輪をアンヌに返すと、彼女はげんなりとした表情を浮かべた。
「姫様、その猛烈にダサい呪文、なんとかならないんですか? 魔法使う時に言われた通り唱えましたけど、死ぬほど恥ずかしかったです」
「仕方ないじゃない。私が十歳くらいで考えた魔法なんだから。ダサくは……ないと思うし」
「いえ、本気でダサいです」
ズバッと言われて胸が痛い。
「ひ、ひどい。……でも、助けてくれて本当にありがとう、アンヌ」
「本当ですよ。エルルーカ様の印象はお守りできましたけど、今たぶん彼らの中で、私は『猛烈に怪しい侍女』って思われてるはずですよ。……姫様、これから本当に『可憐でかわいらしい』結婚相手になれそうですか? 大変だと思いますし、無理に我慢を続けるのは、姫様にとっても──」
心配そうにこれからのことを気遣われたが、エルルーカはそれを遮った。
「ううん、頑張りたい。私、どうしてもグレイニーグ様と結婚したいの。好きになって貰いたい。強くて、かっこよく助けてくれて……あんなに素敵な人、もう出会えないと思うの」
ほんの少しの邂逅だったが、鮮烈な出会いに、今でもまだ胸がドキドキと高鳴っている。
(魔王軍は確かに、想像していた通り強そうな人ばかりだった。でも、あの場で確実に私より強いと感じたのは、グレイニーグ様お一人だけだったわ。強くて……しかも優しいなんて。夢に描いていた通りだもの)
不安そうなアンヌの手を取った。
ルビーのように輝く瞳に強い光を宿し、もう一度言った。
「アンヌ。私、絶対グレイニーグ様と結婚したい。それで……お父様とお母様みたいな、愛し愛される夫婦になりたい。好きになって貰えるように頑張る。だから、協力して欲しいの」
「姫様……」
アンヌがこくりと頷いた瞬間。
ためらいがちに部屋の扉がノックされ、二人の心臓は飛び出そうなほどドキリと鳴った。




