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3.裕美の葛藤

 翌日の昼休み。

 昼食が終わり、五限目までの時間を潰す時間帯になり、裕美は自分の席で頬杖を突きながら思案していた。

 テレクラでコンタクトを取った男は、自分に興味を持っている。

 しかも、援助交際の常連のような男で、普段は別のルートで女の子と知り合ってその女の子を食っているという話だ。

 もしかしたら、それが旧友の有海を苦しめている、名古屋の街なかを徘徊する不良女子グループ経由という可能性もあるかもしれない。

 だが、会う約束は取れずに終わってしまった。もう一度、テレクラに掛けてみるという約束だけで終わってしまったのだ。

 制服を持ってくるように要求してきた、予想していたよりも数段も業の深い男だ。

 このまま会いに行くのは危険かもしれない。

 だが、このチャンスを逃してしまうと、有海の友達が、本当に援助交際をさせられてしまう日が来てしまうだろう。そして、もしその相手が今回の男だったら……。

 あまり想像したくない展開で、余計に気が滅入ってしまう。

「裕美ちゃん、何か考え事?」

 裕美の、中学以来の友人である高橋美穂が声を掛けてきた。

 大きいフレームの野暮ったい黒縁眼鏡、一本の三つ編みで結った髪、という飾り気のない風貌だが、裕美から見ても中々に眼を引く魅力のある少女だ。

 不謹慎だが、セーラー服の上からでもはっきりと分かるぐらいの、思わず盗み見をしてしまうぐらいの豊かなものも持っている。龍子は、職員室前でよく勉強させられているのだが、美穂は世話好きなのか龍子の面倒を時々見ている。裕美がその様子を見に行った時、当の龍子がノートじゃなくて美穂の“豊かなもの”を凝視していたのに呆れたぐらいだ。

 彼女の父親も東京出身で、今は名古屋市に事務所を構える国際弁護士という典型的なインテリ家庭なのだが、何の物好きなのか担任からも進められていた名古屋のトップ校を受験せずに、裕美と同じ高校へ、つまり今暮らしている地方都市の、市内の北の果ての高校に進学してきたのだ。

 特に名門とか、進学校というわけでもなく、それなりの学力を持った生徒たちが通う、平和なだけのこの高校に、だ。どうも本人の話によると、父親は尊重してくれたらしいが母親からはものすごく反発され、その妥協案みたいに名古屋の予備校で定期講座を受けることを条件に、母親から許可をもらってここへ進学できたと聞かされている。

 裕美自身は、当時の自分の学力や、部活や趣味に時間を割ける環境を基準にしてこの高校を目指したわけだが、美穂の考えはいまだに気になるところだ。

 ――美穂がもし名古屋の高校に行っていたら、無事に三年間を過ごせただろうか?

 有海が置かれた理不尽な状況を知ってしまうと、美穂がこの高校を選んでくれてよかったようにも思えてしまう。

「ま、そんなところかな?」

 裕美はごまかしの意味をふくめて返事をする。

 美穂は勘が鋭い。変なことに首を突っ込んでいることを悟られたくはない。

「何を考えてるの?」

「いやあ、もう七月だよねえ」

「ああ、期末テストの心配でもしてるの?」

「いや、そっちじゃなくて、もっと重要なこと」

「テストよりも大事なことって、一体何?」

 やはり、秀才は聞いてほしくない方向へ話題を持って行ってしまう。

 裕美はニヤリと笑みを浮かべて、美穂を見る。

「決まってるでしょ? 八月の終わり頃に妙興寺駅の近くにあるアピタスーパーの駐車場でやるFMWの試合よ。前に『スーパーダイナミズム’97』っていうポスターを見せたじゃない。美穂も一緒に行く気になってくれた? 一緒にスーパーレザーのチェーンソー入場を生で体験しようよ!」

「またその話? 私、プロレスには興味ないってずっと言ってるよね? 何でお金を払って血まみれの男の人が闘ってるのを見なきゃいけないのよ?」

「いやいや、ちゃんと女の人同士が闘う試合もあるってば。もう引退したとはいえ、工藤めぐみはタフな女の象徴だったでしょ? きっと美穂もグッとくる試合を見られるはずだよ?」

「騙されないわよ。それって血みどろのデスマッチになるやつでしょ? 前に裕美ちゃんが録画してた女子プロレスのビデオを見せてくれたことがあったわよね? 確か、北斗晶っていう選手と神取しのぶっていう選手の一騎打ちの試合だったけど、あれ血だるま状態の試合を三十分以上も見せられたじゃないの。それと結局同じ展開になるのよね?」

 裕美は、美穂に図星を突かれて「うっ……」と言葉を詰まらせてしまう。

「やっぱりね」

「いや、あれは確かにハードだったかもしれないよ。でも、その前の記者会見の映像も見たでしょ? あの二人には遺恨があって、それがあの意地のぶつかり合いの激しい試合になったんだってば」

「カメラが回ってるところで『神取は可哀そうな奴だと思う』とか喧嘩腰に挑発したり、言われた相手も『横浜ではお前の腕を一本ぐらい折ってやるよ』とか『口だけは達者な奴だな』とか物騒なことを言ってたじゃない。しかも、北斗選手が相手にコップの水をかけたり、神取選手がお返しで革靴を投げつけた上に掴み合いになってたじゃないの。ただのチンピラ同士の喧嘩みたいだったわよ」

「ま、まあそこらへんで。それに、その後に見せた平成四年冬の大阪での天龍選手対越中選手のシングルマッチのビデオは熱かったでしょ? しかも、あれが新日本プロレスの正真正銘のその年で最後の試合だったんだよ。感動しちゃうよね?」

「あれも怖い顔をしたおじさん二人が血だらけになって取っ組み合ってたじゃないの。一緒よ」

 裕美の返しに、美穂は容赦のない指摘をして、話を止めてしまう。

「その試合の数日後には、豊橋でもそのシリーズの試合があるんだよね。かなり遠出になるけど、そっちは体育館の中だから心配ないんじゃない?」

 裕美の食い下がりに、美穂は「場所が変わっても中身は一緒でしょ?」とまったく取り合わない。

「それよりも私、ちょっと席を外すから。昼放課は図書当番なの」

「あ、それって当番の相方は葵と同じクラスの櫻井君だっけ?」

 カマをかけた裕美に、美穂は「そういうの、デリカシーが無いっていうのよ!」と顔を赤らめて抗議の視線を送る。

 裕美は思わず息を吐く。

 ――あの態度、私が以前に「櫻井君が気になる男子なのは分かるけど、勢いにまかせてエッチまでいっちゃダメだよ?」と言ったことを根に持っているな。

 入学してからそんなに経っていない段階で、美穂から気になる男子がいる、という遠回しの相談を受けたことがあった。どんな二枚目男なのかと思ったら、意外なほどの平凡なルックスの男子――櫻井君だったのだ。拍子抜けでもあったが、一方で美穂のセンスにちょっと安心感も持てた。五月の連休明けのタイミングで、放課後にひょんなことから彼の家(歩いて15分くらいで高校まで行ける距離にある)に行く機会があったり、その後の休日、街に用事があった彼を美穂が自室に招いたこともあった。そういうことも、美穂が彼を気になってしょうがなくさせているのだろう。

 ――そういうのも、この学校の平和さがあるからなのだろうけど。

 美穂が教室を出ていったのを見て、裕美も席を立った。


 美穂が教室を去った後、ブラブラと廊下を歩いている裕美は、長身の女子生徒と目が合った。

 切れ長の目と鼻筋が通った顔立ちは、美少女というよりもハンサムという男性に対する形容が似合うタイプだ。剣道部に所属している。

 以前は長い髪を首のあたりで一つに束ねた、いわゆるおちょんぼ髪だったが、五月の連休明け以降は髪をバッサリと短くしてしまったため、余計にその印象が強くなっている。

「あ? 葵じゃないの」

「ん? どうしたのよ? 上田さん」

 友人の朝比奈葵は落ち着いた口調で裕美に返事をする。

 もっとも、そのような勇ましい風貌とは似ても似つかない女言葉を使うというギャップがあったりする。また、体つきもしっかりと女子でもある。

 親しく付き合うようになったのは高校に進学してからだが、美穂と同様に、彼女も裕美と同じ中学出身で、三人とも市の中心部からのバス通学仲間だったりする。

 そして裕美に言わせれば、勉強ができる (美穂には及ばないが)のに名古屋という都会の高校へと進学しなかった変わり者の一人でもある。高校に入学してから彼女から聞いた話だが、当時の担任からは、有海が通っている一社駅が最寄りのかなりレベルの高い社台高校という進学校を提案されていたらしい。ここに来た理由は、葵本人が言うには「この高校でいいかな?」というフィーリングみたいな選択の結果だったそうだ。

 県立でありながら都会的なブレザー制服でも知られているお洒落な公立高校だから、葵もそこに進学していれば王子様キャラとしてもてはやされていたかもしれない。が、今の葵の野暮ったいセーラー服姿を見慣れてしまうと、なぜかブレザー制服があまり似合わなそうにも思えてしまうから不思議だ。

「ちょっと、相談したいんだけど、いいかな?」

「突然どうしたの? 昼放課、もうそんなに残ってないんだけど?」

 裕美はスッとココアシガレットの箱を戸惑う葵に見せた。

 葵は軽く息を吐いてから「まあ、別にいいわよ」と返事をするのだった。

 二人は体育館の裏にやってきた。

「結局、ここなの?」

 葵は既視感を感じたのか、どこか冷めた口調で言葉を漏らす。

「え? ここはダメだった?」

「別にいいわよ。ここ、朝霧さんが勉強ついていけない自分のことを嘆いたり、ぼやきを私に聞かせるときにたびたび使ってる場所だからね。何か因縁を感じるだけ」

「ああ、たっちゃんはやっぱり勉強に苦労してるんだね?」

「いや、彼女の下の名前って『りゅうこ』って読むんだけど。いい加減に覚えてあげなさいよ。朝霧さんが言うには、中学の担任の先生からは近いけど勉強にはまったく手を抜かない校風だから、今の学力だと入っても勉強面で苦労するかもしれないよって心配されてたらしいわね。それを振り切って猛勉強して合格したそうよ」

「あちゃー、たっちゃんは高校受験で燃え尽きちゃったのかな?」

「ま、成績は嘘を吐けないから、結局は朝霧さんが頑張って及第点をとらなきゃ解決にはならないわね。それよりも、今は上田さんの相談でしょ? さっさと始めましょ」

 裕美と葵は、体育館の扉に設けられているコンクリートの階段に座り込み、ココアシガレットを口にくわえている。

 裕美は、横目で葵を盗み見る。

 女子二人きりという気楽さからなのか、葵は片膝を立てて肘置き代わりにしてそこに右腕を乗せて、少しアンニュイな雰囲気でココアシガレットを唇で挟んでいる。

 だが、その姿勢のせいでせっかくの膝丈スカートも立てた膝のせいでまくれ上がってしまい、普段は隠れている太もものラインが裕美からは丸見えになってしまっている。かろうじて裕美のアングルからはショーツが見えない。それがせめてもの救いだった。

 葵の堂に入った、少しかっこよさを感じさせるくわえタバコ(ココアシガレットだが)の姿勢に、裕美はおもわず感心してしまう。以前に世間話で、家庭では彼女を除いて、小説家の父親、刑事の母親、都内で大学生活をおくる兄、いずれも喫煙の習慣があるらしい。

 かくいう裕美本人は、インディー団体の野外プロレス会場でしばしば出くわすガラの悪いオヤジさながらのくわえ方をしている。

 やはり環境が影響をしているようにも思える。

 裕美は学校のフェンスの向こう側に見える、県境の川岸にそびえ立つ独特の形をしたランドマークタワーを眺めながら、そんな感慨を抱くのだった。

 入学してから

「で、相談って何なのかしら?」

「いやあ、葵って、もしも友達が変な奴らに目をつけられて、それで脅迫されてる、なんて状況に置かれてたら、どうやって助けようとするかな?」

「何? 上田さんは、そういう類のトラブルに首突っ込んでるわけ?」

「ちょっとストレート過ぎな返し方じゃない?」

「昼放課、あまり残ってないからね」

 葵は、ココアシガレットの端を噛み、少し短くする。

「この前、この学校に怪しい男が忍び込んできた時にその変な人の影を見つけて、しかも捕まえたのって上田さんだったらしいじゃないの? あんたと同じクラスの高橋さんが教えてくれたわよ。おもむろに『大きい方に行って来て良いですか?』なんてわざとらしい誤魔化しかたをして、確保するために授業を抜け出したそうね?」

「ああ、あったね、そういうこと。外の道路の、しかも変な場所に車が停めてあったからねえ、あの時は。何か、あの男は水泳の授業中を利用して女子のパンツを一網打尽にしてから、車で逃走するつもりだったらしいよ? あいつ、その騒ぎのちょっと前に岐阜と各務原、大垣の市内の高校で連続して発生した、水泳の授業を受けてた女子のパンツが全部盗まれたっていう事件の犯人だったんだってさ。岐阜市内の自宅からたくさんパンツが出てきたそうだよ。一応、お手柄だってことで警察からは感謝状ももらったし、先生からもお手柄だって言われたけど、すぐに『あれ、そういえばお前、たしかトイレに行きたいって言って授業を抜けたはずだよな?』って発覚して反省文行きだったんだよね……」

 裕美は落ち着きなくココアシガレットを口から離して、指でつまんだまま遠い目をしてしまう。

「それで、何だっけ? プロレス技のSTなんとか、って技でその人を押さえつけてたらしいじゃないの?」

「STF、ちゃんと覚えておいてよ。ステップオーバートーホールド・ウィズ・フェイスロックが正式名だよ。今だと蝶野正洋選手がよく使う技かな? 起源はルー・テーズだけど、相手を拘束するのにはうってつけの技だよ。新日本プロレスでの私の贔屓は越中詩郎選手だから、蝶野選手はちょっと憎たらしいレスラーだけどね。でも、蝶野選手のあの技は見事だよね。あと、相手を腹ばいになるように転ばさないと掛けられないから、あの時はレッグシザーズっていう、相手の両方の足首を自分の脚で挟む技を使ってこけさせたんだけどね」

 裕美の脱線トークに、葵は「いや、そういうことを聞きたわけじゃないんだけど……」と上瞼を下げ、脱力した完全な呆れ顔になってしまう。

「上田さんはどうせ、やめとけって言っても突っ込んでいくんでしょ?」

「いやいや、私のキャラってそういう扱いなの?」

「それ以外にあるの?」

「いやあ、詳しくは言えないけど、別の学校の友達が危険な奴らに絡まれちゃってて、そいつらに直接ぶつかるのはまずいんだよね? だから、事情を知っていそうな人を探し出したんだけど、それが何とも業の深そうな人でさあ、やるべきか迷っちゃったんだよね」「もし、上田さんが引き返したらどうなるのよ?」

「あんまり考えたくないけど、手遅れになりそうかな?」

「もし、確実な情報を掴めたら、その後はどうするつもり?」

「そこまではあまり考えてなかったなあ。いや、どうすればいいのかな? やっぱり本丸に突入してぶっ叩く?」

「何でそうなるのよ。さっさと証拠揃えて出すところに出すんでしょ? 突入して叩くのは無しだからね。そういうのは私刑リンチだから、そいつらと一緒じゃないの」 

 裕美は、葵の言葉に声が詰まってしまう。

「まあ、本隊に近づかないってのは正解かもね。その口振りだと、もう片方は危険性はそこまで高くないんでしょ?」

「まあね。でも、変な奴だったよ?」

「戦闘力がそんなに高くないんだったら、上田さん得意のプロレス技でも使って身を守れるんじゃないの? 関節技とかなら殴る蹴るじゃないから、そこまで痕が残るものじゃないしさ」

「うん、そうだね」

「ま、無茶はしないでよね。そろそろ五分前のチャイムがなりそうだから、生徒棟に帰ろうか?」

「あ、待ってよ葵」

 裕美の呼び留めに、葵は「何?」と聞き返す。

「夏休み終盤の八月二十六日には、妙興寺駅近くのアピタスーパー駐車場でFMWの試合があるんだよね! 『スーパーダイナミズム’97』ってシリーズなんだよ。男同士の熱い鬼気迫るファイトとかを見れるよ! それに、貴重なスーパーレザーのチェーンソー入場も見られるみたいだよ! 葵も一緒に行かない?」

「ごめん、パス」

 素っ気ない返しに、裕美は苦笑いをするだけだった。


 放課後、裕美は再び高校近くの神社の入り口付近の電話ボックスで、テレクラに電話を掛けていた。

「もしもし、私、ユミっていうんですけど、ヒロシさんって男性は入店してますか? 入店していたら繋いでくれます?」

 店員にリクエストを出した後、しばらく待っていると、電話がつながる。

「もしもし、ヒロシさん? 昨日お話ししたユミです。私の事、覚えててくれましたか?」

 昨日と同じく、バカな女子高生になりきってヒロシという男に話しかける。

「もちろん覚えてるよ。それよりも、答えは決まったかな?」

「はい~、昨日はちょっとびっくりしちゃったけど、私、ヒロシさんに会ってお話ししたいかなー、なんて思ったんですよお」

「そうなんだね? ということは、昨日のリクエストも応えてくれるのかな?」

「はい、会う時に使えるようにバックに入れて持っていきますよ。でもお、本当に笑わないでくださいよ。都会で着たら恥ずかしいくらい地味なセーラー服なんですから」

「ユミちゃんは、ちょっと恥かしがり屋なんだね?」

「それは乙女ですから。待ち合わせ場所は名古屋駅の新幹線改札口でよかったんですよね?」

「そうだよ。今週の土曜日は、学校休業日に当たる日だよね? そこで落ち合おうか?」

「はい。それで、何時くらいで待ち合わせしますか?」

「午前十一時でどうかな? 少し歩きながらお喋りをして、お互いに緊張感をほぐしてから一緒に食事をしようよ」

「そうですねえ、それでお願いします」

「ユミちゃんは、当日どんな私服を着てくるのかな?」

「ズボンはカーキ色のハーフパンツで、上は夏場なんで、Tシャツを着てますよ」

「Tシャツのデザインで、分かりやすい目印はあるかな?」

「そーですね、ちょっとジョーク系の柄ですよ。“男の汗100%”とか、“まな板なくても小指30%カット”とか、そのどっちかの柄モノTシャツを着ていきますから、すぐに分かるはずです」

「そうなんだ? でも、もうちょっと可愛いシャツとか、ワンピースの服とかは用意できないのかな?」

 ヒロシから切り返されて、裕美は内心焦ってしまう。

 スカートやワンピースなど、彼女は一着も持っていない。スカートは制服でしか身に着けたことはないのだ。基本的にボトムスは、ハーフパンツやズボン、ちょっと攻めているものでも丈が短めのキュロットパンツぐらいだ。

 それ以上に、可愛いシャツを、と言われると非常に困る。

 昨日のテレクラ初体験の相手とのやり取りで、プロレスの分野はほぼ受けないと判明した。となると、所有している紫や赤の平成維震軍Tシャツは論外だ。だが、裕美が所有している他のデザインのバリエーションではもっと限られてくるからだ。

 もしかすると、何度か着用したことがある、次のようなホラー映画Tシャツも避けるべきかもしれない。

 『悪魔のいけにえ』のレザーフェイス。

 『シャイニング』のジャック・ニコルソンの「例の顔」がプリントされたもの。

 そう考えると、自分の主義主張(贔屓の越中選手のライバルでもある蝶野選手は応援したくない)に固執せずに、黒無地に白でシンプルなグループ名をあしらった「nWо」のTシャツを購入しておけばよかったと、今更ながらに悔やんでしまう。あれなら、絶妙に主義主張やプロレス風味が無い、良いセンスだったのに。

「ああ、ワンピースとかスカートは持ってないんですよねえ。Tシャツは結構持ってるんですけど、さっき挙げたジョークTシャツは柄としてわりと大人しいし、おろしてないやつなんですよね。使用済みですけど、そこそこ状態の良いデザインTシャツは骸骨がプリントされたシャツと、“HELL”って血文字風に書かれたシャツとかですね。映画系だと、状態が良いのは『コマンド―』の手りゅう弾を持ったメイトリックス大佐のものと『ターミネーター』シリーズの1作目と2作目のシャツ一着ずつかな? ちょっと着ることが多くてクタクタなのは『燃えよドラゴン』のTシャツと『プラトーン』のエリアス軍曹の絶命シーンの二着なんですけど、どうします?」

「うーん、困っちゃったねえ」

 ヒロシの声のトーンは、かなり困惑の色が見えている。

 裕美は必死に、自分の記憶を総動員して何か無難なTシャツは無いのかと思案する。

 そして「あっ、そういえば」と、不意に何かを思い出す。

 以前に、美穂が「裕美ちゃんのシャツは攻めすぎてるから、あなたが男の子とか他の友達と出かけるときに困らないものを持ってなきゃね」と言ってお節介で選んでくれて、無理矢理に購入させたTシャツのことだ。

「あのー、少し子どもっぽくなっちゃうんですけど、実はバッドばつ丸Tシャツがありましたねえ。こっちとしては何か大人っぽくないかな? って敬遠しててまだビニール包装されたままだったはずですね。それ、ヒロシさんはOKでしょうか?」

「いや、可愛いと思うよ。ちゃんとあったんだ。よかったよ。子どもっぽくなんかないから、今度の土曜日、それを着たユミちゃんの姿が楽しみだよ」

「え、そうなんですか? ならそれを着て、名古屋駅の新幹線口で待ってますね! ヒロシさんと会えるの、楽しみにしてます!」

「うん、僕もだよ。今度の土曜日、ユミちゃんに会えるのを楽しみにしてるからね」

 そして、通話が途絶えた。

 公衆電話から、テレホンカードが吐き出される。

 裕美は、電話ボックスから出ると、決意を固めるかのように拳を握りしめる。

 そして、バス停に向かう道すがら、心の中で平成維震軍に詫びを入れてから、自分の主義主張をあえて無視して、何かのときに備えてnWoのTシャツを今度購入しておこうと心に決めるのだった。


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