第343話 霧の中で戦い
温井ダムの上空を異形の怪物が飛行している。体は熊だが背中から猛禽類の翼が生えている。羽ばたく姿は異様そのもの。
おまけに頭部は狼という、自然には生まれ得ない姿。マッドサイエンティストによって作られた人造妖異である。
2トントラックよりも大きな体は、全高が4メートルはありそうだ。全幅についても、同じぐらいはありそうだ。
頭のおかしな人間が、無邪気に作ったような生物だ。ただし、木谷廉也の製作にしては小さい方だと言えるだろう。
人間から見れば巨体だが、自然界で言えば中型の体躯。せいぜいライオンの倍程度で、かなり小回りが利くようだ。
「グルルルル」
彼は今、見知らぬ侵入者から逃げている。自分が作った狩場の中に、突然やって来た大きな気配を持つ存在。
もしかすると、自分より強いかもしれない。本能のままに隠れていたが、あまりに魅力的な餌を見つけてしまった。
一瞬だけなら大丈夫だろうと思い、美味しそうな餌を襲った。だが意外にも、餌の方が手痛い反撃を行って来た。
左腕を深く斬られて、結構なダメージを受けてしまった。しかも、警戒していた存在まで姿を現して追撃を開始。
思わず逃げ出したものの、相手は逃がしてくれない。猛スピードで空を飛んでいるのに、全く距離を離せない。
「グルルッ!?」
青い炎が地上から飛来し、異形の熊へと向けて飛んで行く。彼が飛翔する速度よりも、勢いがあり威圧感も強い。
慌てて回避したが、立て続けに青い炎は連続で飛んで来た。次第に回避が間に合わなくなり、掠める回数が増えていく。
徐々に体が炙られて、重度の火傷が襲い掛かる。ダメージを負った分だけ、飛翔する速度がどうしても落ちてしまう。
「ギャンッ!?」
遂に炎が直撃し、全身に青い炎がまとわりつく。大きなダメージを受けた異形の熊は、大空から墜落してしまう。
龍姫湖に向かって落下していき、水しぶきを上げて着水した。彼の落下地点から近い岸辺に、美しい女性が立っている。
「私から逃げようなんて、甘い考えだよ」
美しきポニーテールの鬼、大江イブキが周囲に青い炎を浮かべている。連続で放たれていたのは、彼女が放った鬼火だった。
遅れて宙に舞い上がった水滴が、音を立てて湖面に落下した。一度静けさを取り戻した湖が、再び荒れ始める。
水中から巨大な影が上昇してくる。再び上がった水柱と、空中に戻って来た異形の熊。狼の目がイブキを睨んでいる。
鬼火を喰らって全身に深い火傷を負っていた。それでも妖異である以上、火傷ぐらいで命を失いはしない。
「グルルルル!」
「ふぅん、まだやる気はあるんだ」
イブキを警戒していた異形の熊だが、攻撃を受けて怒っている様子だ。警戒心よりも、怒りが勝ってしまったのだろう。
その辺りは野性の動物らしい反応と言える。攻撃をされた野生の熊などは、相手が何者であろうと果敢に向かっていく。
狩る側の生き物が持つ本能という事だろうか。ベースが熊らしい点からも、その反応はある程度納得が出来る。
ただ直情的過ぎて、迂闊なのは歪な生物だからなのか。イブキを相手に勝つつもりで闘志を燃やしているようだ。
これまで戦って来たナンバーズは、どれも平気でイブキを攻撃して見せた。浅慮なのは全てに共通する部分かもしれない。
もしこれが真っ当な妖異なら、相手がイブキと分かった時点で躊躇う。よほどの馬鹿でない限り、先ずは交渉から入る。
自分に落ち度があると分かっているなら、謝罪を入れて命乞いをする。だが異形の熊には、そんな思考力がない。
恐らくコミュニケーション能力を元々持っていない。これまで戦って来たどの個体も、言語を話す能力がなかった。
薄っすらと意思はあるようだが、知性に問題を抱えているようだ。廉也が大切に扱っていないのは、それが理由かもしれない。
ただ仮に言語能力を持っていたとしても、結果は何も変わらない。こんな歪な生物を、イブキは認めていないからだ。
「君に責任はないが、生かしておけないのでね。ここで消えて貰う」
人間が科学で作りだした妖異。そんな越権行為を認めるわけにはいかない。妖異が人間を生んだ事とは話が違っている。
あくまで妖異は生みの親であり、人間に生み出される側ではない。黒澤会と関係もある以上、見逃す理由はどこにもない。
「グルルルル!」
異形の熊は妖力で風を操り、湖面に竜巻を発生させる。湖水を巻き上げて周囲を濡らす。竜巻は大きくなっていく。
「へぇ、意外と器用だね。でもその程度、妖術と呼ぶには遠いな」
竜巻に向かって鬼火が放たれ、青い炎が竜巻を焼く。術としての密度が違うのか、あっという間に竜巻は消えてしまった。
本来なら風と水の組み合わせなんて、炎に強い組み合わせだ。その有利を簡単に崩されてしまい、異形の熊は慌て次を作る。
だが作る度に鬼火で焼かれ、竜巻は姿を消してしまう。何度やっても結果は変わらず、一方的な戦いとなっていく。
「まだやるのかい? とは言っても、言葉が分からないか」
「グルル!」
まともな知能を持たない相手に、妖異の言語は意味をなさない。言葉を理解できない者に、語りかけても万能性は発揮されない。
相手の言葉へ自動的に翻訳される機能は、イルカやカラスなどには有効だ。だが彼らも一定以上の知能と言語を持っている。
犬だって同じで、本物の狼であればイブキの言葉を理解出来た。普通の熊であったなら、意味ぐらいは分かっただろう。
何も分かっていない彼は、イブキに向かって突撃していく。体格差があるという点ぐらいは、理解しているのだろうか。
自然界において、体格の良さは有利に働く。だがそれは、あくまで妖異以外の生物に限る。妖異だけは、大きさが全てではない。
「やはり甘い。力まかせの雑な攻撃だ。知性がまるで足りていない」
「グッ……グルル」
碓氷雅樹へやったように、空中から素早く右腕を振った。いつもそれで、小さな生物を彼は殺して来たのだろう。
自信を持って放たれた一撃だったが、イブキには通用しなかった。簡単に受け止められて、腕を掴まれてしまった。
振り解こうと必死で暴れる異形の熊だが、まるで効果はなかった。イブキの細い腕は、万力のようにびくともしない。
両足は地面に生えた大木のように、しっかりと根を張っている。どれだけ彼が羽ばたいても、1ミリも浮かび上がらない。
圧倒的な生物としての差が、如実に現れていた。彼は所詮作られて間もない妖異。永き時を生きているイブキに遠く及ばない。
多少の強化は施されているものの、それでも千年生きた妖異相当でしかない。大人と赤子ぐらい力の差があるのだ。
相手が永野梓美であっても、一方的に倒されるだろう。保有妖力の差というのは、妖異の世界において最も重要な指標である。
高い程に強く、低い程弱い。特殊な場合を除いて、生まれて間もない妖異は弱い。簡単に覆せない妖異の常識だ。
その点彼は最近作られたというのに、十二分に高い妖力を持っている。それだけ外部から、多くの妖力を注がれたのだろう。
だがそれも千年分ぐらいで、やはりまだまだ未熟な部類。イブキを相手に戦うだけの力は、全く備わっていないのだ。
「弱いものイジメをするつもりはない。これで終わりにしよう」
イブキが鬼火で攻撃したのは、空を飛べないからだ。同じ高度まで跳躍は可能だが、高度を維持し続けるのは難しい。
もし維持出来たとしても、追いかけるだけの速度で進めない。鬼は非常に強力な種であっても、何でもありではないのだ。
飛べない以上は、遠隔攻撃しかない。イブキは鬼火で焼き切るつもりだったが、近づいて来るならもっと早い方法がある。
「来世はまともな生物に生まれる事を祈るよ」
「グギッ……」
異形の腕を掴んだイブキの右手が、素早く離され振るわれる。頭部を縦にバッサリと斬られ、左右に分かれてダラリと下がる。
浮力を失った肉体が、音を立てて湖岸に落ちた。イブキが背を向けると、一陣の風が吹いた。灰となった異形が、サラサラと湖上を舞った。




