第340話 逃げ惑う少女達
霧に包まれた山の斜面に、白い金属製の箱が転がっている。バケモノと衝突して、ガードレールを突き破ったマイクロバスだ。
傾斜のある斜面を転がった後、太い木の幹にぶつかり停止した。衝撃が激しかったのか、窓ガラスは割れて左側が大きく凹んでいた。
木々に当たった事を幸運というべきか、微妙なラインである。下の道路まで落ちた方がよかった、という考え方も出来るだろう。
だが同時に、バケモノから見つかり難いというメリットもある。木々が邪魔をして、マイクロバスの姿を隠してくれていた。
車内には転がり落ちた衝撃で、気を失った人間が3人乗っている。先ずは運転席に座っている中年の男性。まだ意識を失ったままだ。
そして乗客用の座席には、2人の女性が座っていた。1人は上京学園の生徒、市原真希という吹奏楽部の女子である。
女性というにはまだ若く、しかし幼いとも言い切れない。女性らしいボディラインは大人と変わらず、十分魅力的な少女だ。
頭を軽くぶつけたのか、額にすこし傷が出来ていた。可愛らしい顔には、苦しそうな表情が浮かんでいる。息はある様子だ。
彼女の近くには、小柄な白衣を着た女性がいる。真希に同行している上京学園の保険医、西条彩という30代に見えない女性である。
小柄な彼女はその体格のお陰で、目立った負傷は見られない。せいぜい打ち身ぐらいで、非常に幸運だったと言えるだろう。
「うっ……」
真希が呻きながら、少しずつ意識を取り戻していく。利き手である左手で額の怪我を抑えており、痛みを感じ始めていた。
事故のわりに3人ともが大怪我をせずに済んだのは、ちゃんとシートベルトを締めていたからだ。外していれば、今頃死んでいた。
転がる過程であちこちをぶつけ、車外に放り出されていた可能性が高い。シートベルトの着用は、それだけで生死を分けるもの。
遵法精神が彼女達の命を救った。とは言え、まだ九死に一生を得ただけに過ぎない。いつまでも寝ていられない状況だ。
「こ……こは……」
意識を完全に取り戻した真希は、キョロキョロと周囲を見渡す。制服の上に散らばったガラスの破片を、丁寧に払い落とす。
ハッキリとしていく意識と、現状を見て彼女は何が起きたか思い出す。事故が起きた直前の光景が、脳裏にこびりついている。
逃げないといけない。見た事のないバケモノが霧の中に居た。すぐに警察を呼ぼうと、スマートフォンをポケットから取り出す真希。
「なっ……なんで? どうして圏外なの!?」
真希は異界という存在を知らない。同じ世界のように見えて、現世とは別の次元に今滞在している。電波なんて届く筈も無い。
とにかく現状を打破する為、真希は彩を起こそうと動く。未成年の自分だけでは、あまりに不安な状況だ。大人を頼るべき時だ。
真希に体を揺すられた彩が、薄っすらと瞼を開く。真希の呼びかけで状況を把握した彩が、起き上がって周囲を確認する。
彩は運転手の男性を助け起こし、3人で車内に座り込む。なるべく目立たないよう、ライトの類は消しておく。窓からも距離を取った。
真希達はさっき見た物を、幻覚でないと確認する。全員がはっきりと覚えており、バケモノの姿を目撃していた。
「えっと、熊みたいな体に狼の頭。そして、翼が生えていましたよね? 私の見間違いじゃないですよね?」
「ああ、君の言う通りだ。私も同じ姿を見た」
「何だったのあれ!?」
比較的冷静な真希と、参ったという表情の男性。そしてややパニック気味の彩。いずれにしても、どうするか決めねばならない。
キャンプ場に戻るとするなら距離が離れている。今から避難をするなら、温井ダムへと向かう方が近いと男性が証言する。
このまま隠れているのは、少々不安が残る。今は咆哮が聞こえないものの、まだ近くにあのバケモノがいるかもしれない。
体の大きさは恐竜を思わせる程で、こんなマイクロバスでは耐えられそうにない。事実として、弾き飛ばされてこの有様。
どう考えても、まだダムの施設に隠れた方が安全だろう。ここから脱出して、早く移動しようと話は決まる。
「緊急用のロープを積んでいます。木の幹に括りつけて、斜面を降りて行きましょう」
中年男性が車内からロープを持ちだし、車体の近くにあった木へ結んだ。念の為にと男性が殿を務め、真希から先に斜面を下る。
傾斜は激しく真っ直ぐ立てないが、ロープを掴んでいれば移動出来る。余計な音を立ててしまわないよう、真希は慎重に行動する。
踏んでしまった木の枝が、折れて音を響かせる。思わず立ち止まる真希だったが、周囲に怪しい影はない。胸を撫でおろし行動を再開。
「もう少し……」
どうにか斜面を下った真希は、山道に降り立ち地面を踏みしめる。安全を確認した後、斜面の上へ向かって大きく手を振る。
中年の男性が反応を示し、続いて彩が斜面を下り始めた。途中でカラスが飛び立って、びっくりした彩が小さな悲鳴を上げた。
気づかれないかと、彩は慌てて口を閉じた。3人がそれぞれ周囲を見るが、バケモノの影はどこにも見当たらなかった。
それからは順調に進み、最後に男性が斜面から降りた。彼は運転手をやっているだけあって、方向感覚に優れているらしい。
温井ダムの方向を正確に記憶しており、進むべき道に迷う事はない。今彼らが立っているのは、登山用の山道だという。
「ここを下っていけば、温井ダムはすぐです。あそこで電話を借りて、警察を呼びましょう」
「……警察より、自衛隊の方がいいんじゃない?」
彩は思わず発言したものの、自衛隊でも勝てるか不安だ。あんな生物は知らないし、銃火器が効くという保証なんてない。
殆ど怪獣のようなもので、呼ぶなら変身ヒーローの方が相応しい。だがそんな存在はおらず、結局彼女達に出来る事なんてなかった。
本当はどうにかする組織はあるのだが、一般人に過ぎない真希達は妖異対策課を知らない。隠された組織ゆえ致し方なし。
不安を感じながらも、3人は山道を降りていく。異界を作った人造妖異は、どうやら完全な異空間を作らなかったようだ。
元々の地形を取り込む形だった為、男性の発言どおり温井ダムが見えて来た。濃い霧に包まれてはいても、案内看板が立っている。
「良かった、もうすぐですよ」
「早く電話を借りないと」
はやる気持ちを抑えつつ、真希が先頭を歩く。霧で視界が悪く、焦って移動するのは危険だ。壁やブロックなど、怪我の元は色々ある。
案内板に従って歩いていると、午前中に見た記憶と景色が重なった。もう温井ダムの入り口はすぐそこだと、真希は確信した。
どうにかなったと安心した矢先、大きな羽ばたく音が空から聞こえて来た。どう考えても、鷲や鷹などの羽ばたきではない。
「走って!」
最後尾を行く男性が、慌てて声を上げた。視界が悪くとも、急ぐべきだと判断したのだろう。嫌な音が段々大きくなっていく。
真希は必死で走り、ダム施設の入り口まで到達した。ドアの近くに立って、後続の彩達を呼ぶ。嫌な予感は強くなる一方だ。
真希に続いて彩が走り込んで来て、どうにかダムの中へと入った。あとは男性だけだと、彼女達は急ぐように叫んだ。しかし——。
「ぐああああああああ!?」
男性の悲痛な叫び声が響き、何かを咀嚼するような水気のある音がした。真希は耳を塞ぎ、彩は顔を真っ青にしている。
それから幾ら待っても、男性は姿を見せない。再び羽ばたく音が響き、ダムの上空へ向かって飛び立った。真希はただ、へたり込んだ。
「市原さん、立つのよ! 避難しなきゃ」
「……は、はい」
恐怖に青ざめる真希は、フラフラと立ち上がって彩についていく。まだ危険である事に変わりなく、助けを呼ばねばならない。
こんな時、誰を頼ればいいか分からない。それでも真希は、1人の少年が脳裏に浮かんだ。同級生の少し気になる男子である。
ただの偶然に過ぎなかったが、ある意味頼る相手として相応しい。何故なら彼の近くには、最強格の妖異が存在するからだ。




