第338話 忍び寄る影
広島県の温井ダムにて、見学を行った碓氷雅樹達。上京学園の制服、紺色のブレザーを着た男女が遊歩道を歩いている。
夜更かしのせいで、未だに男子達は少し眠そうにしていた。雅樹もその1人であり、あくびをしつつ雑談に加わった。
紅葉のお陰で秋の風情が溢れる光景は、プロの写真家が撮れば絵になるだろう。しかし、高校生達は大して気にしていない。
それよりも、楽しい事を考える方へ意識が行っている。例えば、温井ダムの龍姫湖で釣りが出来るかどうかなどだ。
「なあ碓氷、釣りが出来るみたいだぜ」
彼らの中でも特に、楽しい事が最優先の男子生徒。相葉涼太が雅樹の腕をつつきながら、立て看板を指差している。
釣り客に向けた注意喚起が書かれていた。ここ温井ダムでは、アウトドアな趣味を楽しむ利用客を受け入れている。
釣りはもちろんサイクリングやランニングなど、色々な過ごし方が出来るのだ。雅樹達もまた、キャンプという形で利用する。
「釣りって言っても、ブラックバスだろ? 不味いって聞くけど」
「そうじゃなくてさ~面白そうじゃね?」
「いいけど、道具はどうするのさ」
彼らはキャンプをすると言っても、本格的なアウトドアをやるわけではない。あくまで高校生の修学旅行なのだから当然だ。
キャンプ用品は学校がレンタルしており、持ち込む道具類は一切なし。言うまでもなく、釣り竿やルアーなどない。
温井ダムではブラックバスやブルーギルを釣れるが、手ぶらでどうにかなるものではない。手づかみなど不可能である。
思いつきで発言した涼太だったが、それなら川で魚を捕まえようと言い出す。懲りないというべきか、挑戦的というべきか。
しかし、思ったより男子達は浮かれているのか受け入れる。どうしたものかと、田舎育ちの雅樹は1人苦笑していた。
彼は若藻村で暮らしていた頃、川魚を捕まえる経験を何度もした。純粋な釣りだけでなく、罠を仕掛ける事も出来る。
石を積み上げて塀を作り、餌に釣られて来た魚を捕まえるというもの。必ず成功する程ではないが、そこそこの成果がある。
ただし、とても地味で涼太達が望む形とは違っている。教える事は出来るものの、半日でどうにかするのは難しい。
それらを踏まえた上で、雅樹は知っている事を話した。簡易の釣り竿を作る方法については黙っておいた。
人数分を作っていたら、とても時間が足りない。まだ罠を1つ作るほうが労力は減る。そちらは全員が参加可能でもある。
「ちょっと涼太! 遊ぶ事より先ずテントの設営でしょ!」
同行している井本深雪が、幼馴染と盛り上がる男子達へ釘を刺す。川で遊ぶよりも先に、やらねばならない事は多い。
今もまさに、レンタルのキャンプ用品を受け取りに行く最中だ。明るい内にテントを立てねば、後々大変な事になる。
午前中はダムの見学。終わってからは、近くにあったレストランで昼食。そしてマイクロバスでキャンプ場へ移動。
現時点で14時を過ぎており、11月の山中が暗くなるのは思ったより早い。涼太達が思うより自由な時間は短いのだ。
「わーかってるって。テントなんてすぐに終わらせるよ」
「カレーを作ったりもするのよ?」
ヤンキー風味の外見ながら、美術部という意外性を持つ涼太。彼は幼少期にボーイスカウトへ参加していたという経歴もある。
だからテントの設営なんて、すぐ出来るという自信があるのだ。故に彼はこうして、空き時間を前提に話を進めている。
対する深雪の方は、幼馴染なのでそれぐらい把握済み。経験者が居る前提で考えており、その上であまり余裕はないと思っている。
全員が経験者ではないし、何だかんだで手間はかかる。涼太が教えて回るだけでも、それ相応のロスがあると思っていい。
キャンプの定番カレーにしても、下準備も含めれば30分では済まないだろう。料理の素人ばかりが集まっているのだから。
「何とかなるって」
だが涼太は余裕を見せている。良く言えば楽観的、悪く言えば適当。実に彼らしい行動基準だと、雅樹はしみじみと思う。
そんな会話をしていると、女子の1人が「あっ!」と声を上げた。声の主は吹奏楽部所属の女子、市原真希であった。
何があったのだろうと、周囲のクラスメイト達が真希を見る。彼女の可愛らしい顔には、失敗したという表情が浮かんでいた。
「真希? どうかしたの?」
中学からの友人で、女子達のリーダーでもある深雪が訊ねた。何かキャンプ関連で問題でもあったのだろうかと。
「私のポーチ、ダムに忘れて来たかも……」
「え、嘘! あのポーチ結構高いヤツじゃない?」
「取りに行った方がいいって」
どうやら真希は化粧ポーチを忘れて来てしまったらしい。真希はダムの見学途中で、施設内のトイレに行っている。
最後にポーチを使用したのはその時で、忘れた可能性が最も高い場所だ。しかも、彼女のポーチはブランド物であった。
ティーン向けの中堅ブランドとは言え、化粧ポーチだけで1万円を超えている。中身も含めれば更に値段は上がってしまう。
高校生が失うにしては、少々お高い物品だろう。仕方がないと諦めるのは難しい。どうしようと真希は困っているようだ。
雅樹達男子はというと、何となくしか理解が及ばない。女子のメイク道具が高いのは知っている。だが具体的な金額までは知らなかった。
「あなた達、そんなところで何を騒いでいるのかしら?」
固まって動いていた雅樹達の下へ、黒髪の美女が近づいて来る。グレーのパリっとしたスーツに、真っ赤なヒールの高いパンプス。
スラリと長い足がタイトスカートから見えており、女性らしいボディラインが上半身まで続く。豊かな胸がスーツの胸元を押し上げている。
歩む速度に合わせて、肩口まである黒いセミロングの髪が揺れている。クールな印象を与える顔立ちは、誰が見ても美人と答えるだろう。
ハッキリとした目鼻立ちに、程よく丸みのある輪郭。意思の強そうな双眸は、普段気怠そうな母親とは違っている。
人間離れした美しきこの女性は、実際に人間ではない。大江イブキ、京都の支配者で酒吞童子の娘である乾英子だ。
「学園長! 実は真希が——」
生徒達の監督という名目で、雅樹の護衛を担当している英子。だが同時に、上京学園の最高責任者という肩書もある。
こうして生徒達に何かがあった際は、肩書に相応しいだけの対応を求められる。深雪達に事情を聞いた英子は、すぐに対応を決めた。
「仕方ないわね。市原さん、貴女は保険医の西条先生と一緒に、マイクロバスを出して貰いなさい。1人では決して戻らないように」
「は、はい。すいません学園長」
頼れる大人の女性として、理想のカッコイイ大人として英子は慕われている。特に女子からの人気は高く、困った時は良く頼られる。
今回についても、事情を知って取りに戻る許可をくれた。同じ班の女子達の間では、更に英子の評価が上昇している。
普通なら学業と関係のない物品の持ち込みを、怒られても仕方がない場面だ。しかし上京学園では、メイクを全面禁止はしていない。
身だしなみの範疇としてなら、構わないという校則となっている。その点において真希は、ナチュラルメイクに収まっている。
「あ、あの~男も居た方が良いと思うんで、俺も着いて行こうかなって……」
この中で唯一、英子から歓迎されていない少年。イブキに近づく不貞の男扱いを受けている雅樹は、気まずさに耐えかねてこの場を離れようとする。
「大人が着いていくので問題ありません。貴方はここに残りなさい」
「う、は、はい……」
彼の小さな抵抗は却下され、この場からの脱出に失敗。刺すような一瞥をぶつけられ、雅樹は引き下がるしかなかった。
どうせ監視されているのだが、こうして近くに居られると威圧感が強い。この修学旅行中、英子は時折彼らの近くへやって来る。
その度にこうして、雅樹は居心地の悪い気分を味わっている。今回もしっかり睨まれて、雅樹はどうにも上手く行かない関係に悩む。
これからどう英子と関係を改善するか。どんな方法で雅樹をイブキの傍から排除するか。思考をそちらに向けていた雅樹と英子。
温井ダムを中心として、周囲を霧が覆い始めている事に彼らはまだ気づかない。そんな中で、真希だけは彼らの下を離れて行った。




