第337話 異変の兆候
碓氷雅樹達、上京学園の生徒を乗せた白いマイクロバスが広島県内を進んでいる。彼らの行先は温井ダム、またの名を龍姫湖と呼ばれる場所だ。
学園の修学旅行には幾つかのコースで別れており、雅樹達の班が選んだのはキャンプで一晩過ごすコースだった。
紅く染まった木々に包まれ、大自然を肌で感じる。同時に、ダムという必要不可欠な施設を見学するという、教育的意味を持つ。
人工的に作られた湖と、自然の共存について生徒達と考える。実に学校教育の一環らしい内容だと言えるだろう。
学園長である乾英子は、妖異であるが教育者でもある。こうした面について、しっかりと真面目に取り組んでいるのだ。
自由主義を通りこして、放置も同然の雷獣イツカとは随分と違っている。母親である大江イブキを慕っているからこそだ。
英子はイブキと同様に、人間の育成について取り組んでいる。どうせ喰らうならば、自分達の好みを反映させた方がいい。
主導権を握っておきながら、有効活用しない手はない。そうした計算は当然あるが、碓井貞光の魂を見つけやすくする意味もあった。
事実として雅樹は、こうしてイブキの前に現れた。偶然が重なった結果であるものの、彼女の策とて上手く機能していた。
そんな裏の事情は雅樹すら知らず、修学旅行を楽しんでいる。昨夜なんて、男子達は夜更かしをして寝不足気味であった。
「ねぇ、なんで男子達寝てんの? これからキャンプだよね?」
雅樹達の班に属する女子生徒が、女子のリーダーである井本深雪へ訊ねた。まだ午前中だと言うのに、男子は全員爆睡中だ。
こんな調子でキャンプなんて出来るのか。不安に思うのも仕方ないだろう。キャンプの性質上、男手は確実にあった方がいい。
しかもこの班の男子は大半が体育会系だ。雅樹を含めて数人帰宅部が含まれているものの、その内の半数は格闘技を習いに行っている。
同じと判断するには少々特殊な事例だが、雅樹もある意味では格闘技を教わっている。大人もビックリな超実戦向けの自衛手段と言えども。
「知らない。なんか先生が怒ってたから、夜遅くまで騒いでたんじゃない?」
「あぁ~。元気ねぇ男子たち」
高校生にもなって、中学生のような振る舞いの男子達を女子達は見ている。呆れと納得の混ざった、複雑な表情を浮かべながら。
そうは言っても彼らは、昨年まで中学生だった。浮かれてこのような真似をしても、仕方ない面は多分にあるだろう。
かく言う女子達だって、すぐに寝たわけではない。今時の若い学生達が、教師の設定した就寝時間を守る筈ないのだから。
彼女らもまた、楽しい夜を過ごしていた。メイクやファッション、恋バナなど話は簡単に尽きない。大人しく寝て終わりではない。
ただし過度な夜更かし美容の敵。男子達ほどに羽目を外さず、常識的な時間に深雪達は入眠した。寝不足には程遠く朝から元気だ。
「でも碓氷君もなんて、意外だよね~。深雪もそう思わない?」
「ん~でも、楽しかったのかも。そういう時も、必要なんじゃないかな」
「あっ……そっか……」
女子達の会話に一瞬停滞が起きる。普段から平気そうにしているものの、雅樹は両親を事故で失っているのだ。
表向きの情報だけ知っている彼女達は、つい忘れてしまっていた。あまりに雅樹が平気そうにしているから。内心はどうであれ。
自分達が知らない苦しみや、悲しみだって抱えているだろう。例え保護者と住んでいても、以前と同じ生活ではない。
けれども修学旅行中だけは、友人達と寝食を共にしていられる。寂しさのようなものは、多少なりとも軽減されているのかもしれない。
言葉にせずとも、深雪達は理解を示せる。同じ思いは共有出来なくても、想像する事ぐらい容易に出来る。彼女達はもう、高校生なのだから。
実際、雅樹にとってここ数日間はとても大きな意味があった。イブキ達のいない夜、友人達と過ごす新鮮で特別な時間。
いくら彼であっても、四六時中絶えず警戒していられない。つい気が緩んでしまって、純粋に旅行を楽しむタイミングはあった。
そもそも彼自身、いつまでも暗い空気を纏う気はない。周囲に気を遣わせて、微妙な空気を作ってしまうのは迷惑だからだ。
雅樹自身が、高校の修学旅行に憧れていたのもある。両親に直接報告はもう出来ないけれど、大事な思い出になっている。
時には年相応の学生らしい時間を、楽しむぐらい許されるだろう。その結果がこれであるのは、致し方ない話である。
「それよりさ、昨日話してた事だけど——」
少し止まってしまった会話を深雪が立て直す。勢いよく姿勢を正した動きに合わせて、艶のある黒髪がサラサラと流れる。
スポーツ少女らしいショートカットは、今日も美しい輝きを放つ。イブキ達には及ばないものの、大人になれば相応の美人に育つだろう。
彼女と共にいる少女達もまた、似たような将来性を感じさせる女子ばかり。すぐに華やかな空気が戻って来る。
SNSで見つけた広島県のスイーツに話題は移る。宿泊中のホテルから遠くない位置に、有名なパティスリーがあるのだ。
明日の自由時間になたら、皆で買いに行こうという話になる。まだキャンプが終わっていないのに、気の早い話である。
「これ可愛くない?」
「うわーめっちゃいいじゃん!」
「美味しそう!」
キャッキャッと話す彼女達の中に、1人だけ寝ている雅樹を見つめる少女が居る。同じクラスで吹奏楽部の部員だ。
文科系の部活動とは言え、地味な印象の女子ではない。普段から明るく、流行などにもしっかりアンテナを張っている。
体育会系の女子とも仲が良く、こうして同じ班に所属するぐらいだ。大人しく教室の端に留まるような生徒ではない。
積極性も持ち合わせており、他人に容易く左右されない。前向きな考え方をするタイプだが、全てに全速力は出せない。
例えば学校で人気の女子、永野梓美と真っ向から勝負する勇気が持てない。碓氷雅樹という、気になる異性を巡る戦いは熾烈である。
(碓氷君、疲れてないかな?)
ガッツリと恋をしている、という程ではない。学校の男子から誰か選ぶなら、雅樹がトップに来るという絶妙なライン。
好きと言えば好きだが、梓美を押しのける気にはなれない。勝てるとも思えず、宙ぶらりんな態度を維持し続けている。
中学からの友人である深雪としては、そんな彼女の応援もまた外せない。梓美の恋も応援するし、友人の応援だって同様だ。
気になるというなら、もっと仲良くなればいい。そう思ったからこそ深雪は、同じ班へと真っ先に誘ったぐらいだ。
「真希? どうかした?」
雅樹が気になる少女、セミロングの茶髪と右目の泣きボクロが特徴の女子。雅樹のクラスメイト、市原真希へと深雪が声を掛けた。
「う、ううん。なんでもないよ」
「……ははーん、さてはまた碓氷君かな?」
「ち、ちがうから! やめてよね!」
深雪達がどれだけ騒いでいても、男子達は目を覚まさない。熟睡しているらしく、騒ぎに気づいてすらいない様子だ。
姦しいという表現が似合う車内で、雅樹はただ眠っている。気を張っていた分、疲れも溜まっていたのだろう。
彼らを乗せたマイクロバスは、温井ダムへ向かって進んでいく。順調に移動しており、スケジュールに遅れはない。
予定通りならば、昼前にダムの見学に移れる。同行している教師も、これと言って心配はしていなかった。
平和な車内の中で、つい真希は視界に映る雅樹を見ていた。一瞬だけ雅樹が動いたように思い、起こしてしまったかと悔いる。
(……あれ? 違う、のかな?)
雅樹の体が跳ねたように思った真希だが、それ以降は何の動きも見せない。気のせいだっただろうかと、真希は首を傾げる。
「そんなに気になるなら、隣に座れば?」
「もう! ちょっと深雪!」
真希の意識が再び雅樹から外れた。車内に居る人間で、雅樹の体が反応した理由に気づけた者は誰もいなかった。
彼女達の知らないところで、事態は進行している。行先である温井ダムの周囲で、薄っすらと霧が立ち込み始めていた。




