第314話 十日続ければ ④
ありふれたリビングで、平和な家族の生活が繰り広げられている。ベビーベッドに子供が寝かされ、夫婦が食事を摂っている。
爽やかな朝の時間、焼けたトーストを男女が口へ運ぶ。淹れたてのコーヒーから湯気が昇り、穏やかな時間を演出していた。
笑顔の絶えない食卓から、スーツを着た男性が立ち上がる。上着を羽織りビジネスバッグを持ち、リビングを出ていく。
これから出勤するのだろう。見送る為か、女性が立ち上がり彼に続く。シンプルなワンピースが似合う、清楚な雰囲気の女性だ。
母親であり、妻でもあるのだろう。幸せな笑顔に溢れており、毎日が楽しくてたまらない様子だ。その光景はどこまでも平和だ。
旦那を見送った後、女性はリビングへ戻る。朝食で使った食器を片付け、台所へ運んで洗い始める。小さな水音がリビングに響く。
その音で目が覚めてしまったのだろう。赤子の鳴き声が女性の耳に届く。一旦作業を止めた女性が、ベビーベッドへ近づく。
赤子を抱き上げてあやしながら、背中を優しく叩く女性。我が子が何をして欲しいのか、母親の勘が察したのだろう。
一旦ベッドの上に降ろし、服を脱がせておむつを外す。少し漏らしてしまったようで、新しいおむつを取りに行く女性。
すぐ近くに置かれていたようで、替えのおむつとウエットティッシュを手に戻って来た。どうやら赤子は女児だったらしい。
母親がウエットティッシュで股間を拭き、新しいおむつへと交換した。ごくありふれた、一般的な母子の光景。
温かい家庭の光景に過ぎない。しかし、この環境はずっと続かなかった。場面は移り変わり、雷雨が鳴り響く夜。
幸せだった筈の家庭で、男女の口論が続く。母親は何かを父親に訴え、父親はそんな彼女に対しておざなりな対応をする。
何が喧嘩の理由だったのか、その姿からは想像出来ない。ただ何か、揉める要因があったのだけは伝わってくる。
些細なすれ違いなのか、大きな問題だったのか。この光景を見ているだけでは、何が起きているのか分からない。
また場面は変わり、女性は小さなアパートへ移り住んでいた。男性はおらず、小さな赤子だけは一緒に生活しているらしい。
考えるまでもなく、離婚したのだろうと分かる。日本の離婚率は3割強もあるのだ。何も珍しい話ではないだろう。
シングルマザーで子育てをしている様子だ。実家に帰っていないのは、帰らない理由があるのか。もしくは——帰れないのか。
女性の仕草からは、どこか上品さを感じさせる。もしかすると、良家のお嬢様だったのか。そうであるなら、帰れない理由は想像出来る。
両親の反対を押し切って、無理矢理結婚した場合などだ。そうなって来ると、実家を頼るのは難しくなってしまう。
地方のお嬢様が、あまり良くない男性と結婚。どこでも耳にするような話だ。真実はどうであれ、似たような状況なのだろう。
実家に頼れず、馴染みのない地方でシングルマザー。ありふれた若い女性の転落人生。そういう時ほど、悪い事は続くもの。
ある時から、別の男性が女性の家を訪れ始める。よく言えば、頼り甲斐のある外見。悪く言えば、タチの悪そうな男。
孤独な育児に悩まされていたのだろう。若い女性の単独育児は、どうしても問題が起きがちだ。そんな時に、頼れる男性が現れたら。
普通の女性であれば、敬遠するような人物であっても。余裕がなく、視野が狭まっていた状況であれば。案外信用してしまうもの。
転がり始めた運命は、どこまでも坂を直進していく。頼れた筈の男性は、次第に言動が荒くなり暴力を振るうようになった。
その対象は女性だけでなく、幼い子供に向かうまでそう時間を要しない。3歳ぐらいになった娘は、中々親の言う事を聞かない。
ましてやそれが自分の子でないなら、より一層イライラとするだろう。母親だけに向いていた暴力が、娘にも向かい始めた。
最初は威力が弱く、泣き叫ぶ程度で済んでいた。軽い痣が出来る程度だった暴力は、どんどん時が経つにつれてエスカレートする。
鈍い音が響き、蹴り飛ばされた娘が壁に激突した。母親が慌てて駆けより、我が子を抱き起す。その姿が——脳裏に焼き付いて消えない。
「っ!? はあ……はあ……」
早朝に目を覚ました宮村万理華は、びっしょりと掻いた寝汗に気づく。不快感はすさまじく、見ていた夢も不愉快過ぎた。
触れる手を抑えながら、万理華は立ち上がって洗面所へ向かう。伝承を頼って村を訪れ、今日で4日目を迎えていた。
現在は朝6時で、まだ外は少し薄暗い。昨夜の参拝を終わらせた後、嫌な気分になったので酒を飲んで彼女は寝た。
あれから誰かにずっと見られているみたいで、あっさりと眠りにつけない。だからアルコールに頼ったが、目覚めは最悪だった。
顔色はとても良いとは言えず、どう見ても十分な睡眠が取れていない。二日酔いにはなっていないものの、朝からどうにも気持ち悪い。
「……お風呂、入ろう」
この宿には、大浴場とは別に個室ごとに風呂がある。シャワーだけ出来ればいいので、万理華はそのまま浴衣を脱いで浴室へ。
瑞々しい肌には、殴られたような跡はない。綺麗な肌をしており、顔色さえまともなら魅力的だ。しかし今は、少し病的に見える。
見ていた夢のせいか、万理華は何も言葉を発しない。ただお湯を頭から被って、不快な汗が流れ落ちるのを待っている。
何を思っているのか、その目は何も映していなかった。ぼうっとしているだけで、彼女の視線はどこまでも虚ろだ。
「……」
無言のまま万理華は、シャワーを浴び続ける。思い出したように、大丈夫だとまた呟く。何についての言葉か、彼女にしか分からない。
しばらくそうしていると、手の震えは止まっていた。彼女の精神が安定したという事だろうか。顔色も少しマシになった。
決して良いとは言えないし、眼下にクマが出来ている。だが化粧で隠せないレベルではない。どうとでも誤魔化しようはある。
「はぁ……きっと、大丈夫……」
脳裏に浮かぶ光景を、かき消す呪文なのだろうか。彼女はこの村に来てから、何度も大丈夫だと言い聞かせている。
そんな朝を迎えた万理華は、8時になってから食堂へ向かった。女将の幸子がすでに待っており、朝食を並べていた。
「あらお客さん、どう? 上手く行ってる?」
「ええ……まあ、それなりに」
「貴女なら大丈夫よ! いい男が見つかるわ!」
最初は都合のいい勘違いだと思っていた。しかし、段々と不愉快に感じ始めている。まるで当てつけを言われているようで。
しかし、女将が何も知らないとも分かっている。決してそんなつもりで言っていない。だからこそ、気に障ってしまうのだが。
かと言って、万理華は何かを言えるタイプではない。そんなに気が強く産まれていたら、こんな苦労はしていないのだ。
適当に女将へ返事をして、万理華は朝食を食べる。あんまり食欲は無かったが、まだ参拝を続けねばならない。
体力が続かず、途中で断念となっては困る。意地でも10日間の参拝を続けて、自分の願いを叶えて貰わねばならないのだ。
「朝から塩焼きの鮭は重い……」
もう少しで、半分の5日目を迎えられる。こんなところで、躓いていられない。必死で万理華は朝食を食べ、4日目を始めた。
どうしても気になっていたので、明るい内に神社へ行ってみる事にした。夜に見るのは怖いけれど、今なら本殿の裏も見られる。
誰かが隠れるような場所はあるのか、調べておこうと思ったのだ。もし最近感じている視線が、隠れて見ている誰かなのか。
村人が興味本位で、万理華の参拝を見ているだけなのか。それとも、本当に神様のような存在が注目しているのか。
もし村人であるのであれば、少なくとも寝つきは改善するだろう。その為にも、一度確認しようと万理華は宿を出て行った。




