第312話 十日続ければ ②
夕方の山村で、入浴をしている女性がいる。この村唯一の宿にある大浴場だ。昭和の雰囲気が色濃く残る内装である。
青いタイルに白い線。古い銭湯や温泉では当たり前の配色。そして湯船から近い壁には、大きく富士山の絵が描かれている。
洗い場の蛇口は取手を捻るタイプではなく、一度押せば一定時間お湯や水が出る形式だ。水とお湯の2種類だけで、温度調節は出来ない。
年季の入った鏡には、落ち切らない湯垢が残っていた。床にプラスチックの洗面器が、積み重ねて置かれている。
最近の浴場は内装が現代的になったものの、このような光景は少し前なら当たり前だった。どこでもありふれた景色に過ぎない。
しかし令和となった現在では、このような浴場は減る一方である。銭湯はなくなり、宿よりホテルの方が一般的だ。
有名な温泉旅館ならともかく、昔ながらの宿泊施設が増える事はない。銭湯についても、スーパー銭湯に追いやられた。
現代的な浴場も決して悪くはないが、歴史ある内装が減っていくのは悲しいものだ。湯船に浸かった女性は、どう思っているだろうか。
この宿に今日やって来たばかりの彼女は、宮村万理華という28歳の女性だ。短く切り揃えたショートカットの黒髪。
特別劣ってもいないが、美人という程でもない顔立ち。ある程度はモテるだろうが、恋愛で無双は出来ないだろう。
スタイルはそれなりによく、女性らしい程よくふくよかなボディライン。豊かに膨らんだ胸が、湯船に浮かんでいる。
30歳を目前にした大人の魅力が、溢れんばかりに出ている。万理華と付き合いたいと思う男性は、それなりに居るだろう。
真っ白な肌を水滴が滑り、うなじをゆっくりと流れ落ちる。この光景を見れば、何人かの男性は情欲をかき立てられる事だろう。
だがこの場には彼女1人しかおらず、同性すら姿はない。誰にも見られる事なく、万理華は何かを考えている様子だ。
これから彼女は、村にある古びた神社へ向かう。かつて一世を風靡した人気の場所。願いが叶うとされるパワースポット。
「はぁ……」
憂いを帯びた溜息が、万理華の口から洩れる。そろそろ上がろうかと、湯船から立ち上がって洗い場へ移動。
お湯を出して洗面器に溜めて、頭から一気に被った。ポタポタと水滴が髪から垂れ、床のタイルを濡らしている。
持っていたタオルで体を軽く拭いてから、浴場を出て行く。ちょうどやって来たらしい、村の女性達と入れ替わりになった。
「あらお客さん? 見た事ない子だねぇ」
「新しい子が来たって、幸子さんが話してたよ」
老婆達に話し掛けられ、万理華は適当に話しを合わせておく。変に目立ってしまうのは、彼女の望むところではない。
「あっ、その、どうも……」
出来る限り人と接したくないのだが、万理華の思うようにはいかない。人が少ないから、この村を選んだという側面もあるのだ。
だというのに、初日から色々と構われている。上手くやり過ごした万理華は、宿が用意してくれた浴衣に着替える。
噂通りなら参拝に向かうのは、日付が変わる少し前でいい。今の内に夕食を済ませて、深夜に備えておくべきだ。
万理華は食堂を目指して、宿の中を歩いていく。二階建ての小規模な宿だが、1人で過ごすには随分と大きい。
「ああ、良かったお客さん。夕食ならもう出せるけど、どうします?」
60代ぐらいの宿の女将、老婆達の発言通りなら幸子という名前らしい。廊下でばったり会った万理華に、夕食のタイミングを訊ねる。
「ちょうど今、食堂へ行こうと思っていました」
「あらそう? じゃあすぐ持って行くわね」
幸子は調理場へ向かって行き、万理華は食堂へ入って行く。食堂はそこそこの広さの和室で、10人以上は座れそうだ。
その中に1ヶ所だけ、机と座布団が置かれていた。間違いなく万理華の為に、女将が用意しておいたものだろう。
他に宿泊客はいないのだから、誰かとかち合う事はない。何も疑う事なく、万理華はその席に座って料理を待つ。
適当にスマートフォンを触っていたら、幸子が料理を運んで来た。今夜のメインは、山菜の天ぷらのようだった。
「もう少し寒い時期なら、カニを出せたのよ? 良かったら寒い時期にもいらしてね。ああもちろん、今夜の食事だってカニに負けていないわよ」
幸子が料理の説明をしていく。今朝摂れたばかりの山菜は、どれも旬を迎えたものばかり。特に注目すべきは松茸だ。
天ぷらだけでなく、お吸い物や炊き込みご飯にも使用されている。この村の特産品であり、都会ではとても安い値段で買えない。
饒舌に話す幸子の言葉を、万理華はどれほど真剣に聞いているのか。相槌を適当に返しながら、彼女は幸子が去るのを待った。
「それじゃあ私は行くわね。参拝、頑張ってね」
「ありがとうございます」
万理華はあくまで婚活の為に来た。そう思い込んでいる幸子は、笑顔のまま去って行った。純粋な応援が、万理華には少し疎ましい。
幸子が悪い人でないと、万理華だって理解している。だが今だけは、放っておいて欲しかった。とても明るい気持ちにはなれない。
自分の願いがどんな物か、彼女が一番理解している。叶うのを願っているのは、幸子ではなく万理華本人なのだから。
「……いただきます」
育ちはいいのか、万理華の姿勢はよく食事も丁寧に進めていく。結構なボリュームだったが、万理華は一切残さず食べ切った。
食べ終わった事を調理場に居た幸子へ告げて、万理華は自分の部屋へ戻っていく。敷いてあった布団の上で、万理華は静かに座る。
何か観たい番組があるわけでもないが、万理華はテレビを点けてチャンネルを変えていく。そしてニュース番組になったところで手を止めた。
『本日の十八時頃、東名高速で車4台を巻き込む事故があり——』
「……」
万理華は何も言葉を発せず、ただ流れていく情報を見ている。暗くなった高速道路、事故現場が画面に映っていた。
大きな事故だったらしく、複数のパトカー停められていた。今も通行止めとなっているようで、一般車両の往来はない。
死者も出ているらしく、事故直後の現場映像が流れる。大破した乗用車は、原型を留めていない。トラックが突っ込んだらしい。
「……」
なかなかショッキングな映像だったが、万理華の表情は変わらない。そのまま万理華は、ずっとテレビを観続けていた。
だが時間が経つにつれて、放映される番組の数が減っていく。最後のニュース番組を、万理華は無表情に見つめている。
今まで流れたニュース情報と、特段変わった内容は流れない。時刻は23時を過ぎ、ニュースキャスターが締めの言葉を述べた。
番組は終了し、天気予報だけが流れる時間となった。行動を開始するなら、そろそろ良い時間だ。万理華は浴衣を脱いで私服に着替える。
「……行こう」
23時半となり、万理華は部屋を出て玄関へ向かう。幸子が言っていたように、ドアの施錠はされていなかった。
宿の外に出ると、一気に暗くなる。月と星の光ぐらいしか、まともな光源はない。街灯もあるにはあるが、十分な明るさではない。
万理華はスマートフォンのライトを点灯させて、懐中電灯の代わりとした。スニーカーが砂利を踏む音が、静かな通りに響く。
山村の道路には、誰も歩いていない。鈴虫の鳴き声が、どこまでも続いている。のどかな田舎の夜を、万理華が歩いて行く。
「確か、こっちだったはず……」
昼間に確認しておいた、噂の古びた神社。昼と夜では風景の見え方が違うものの、万理華は迷う事なく足を進める。
ようやく、万理華の参拝が始まる。この為だけに、彼女はこの村を訪れた。どうしても叶えたい願いがあって、古い噂に縋った。
恋の成就ではなく、それ以前から噂されていた話しだ。お社様に願えば、どんな願いも叶う。そんな大昔の伝承。
「きっと……大丈夫」
月明かりの下で、古びた赤い鳥居が万理華の目の前に立っている。目的地に到着した万理華は、時間が来るのを待った。




