第307話 別れの時
大江イブキは一度に多くのものを失った。四天王というべき優秀な部下。右腕であり、家族も同然だった弟分。
そして、唯一愛した男性。碓井貞光は、あまりにも優秀過ぎた。つい話しただけの半端な知識から、彼は術を完成させてしまった。
人間の身ながら、一時的に妖異へと至る秘儀。イブキと英子を守りたい、ただその一心だけで彼は見事に成し遂げた。
しかし、当然リスクなしにそんな真似ができる筈もなし。貞光はあの日以降、あらゆる記憶を失ってしまったのだ。
自分が何者であるのか。誰に仕えていて、両親はどんな立場の人間なのか。自分に流れている血が、いかに尊きものであるのか。
イブキは貞光の惨状を見て、自分の責任だと考えた。あらゆる支援をする約束をした後、彼女は貞光から身を引いた。
今の自分が傍にいる資格はないと判断し、これまでの関係を解消。特使としての身分は、妹の初雪が引き継ぐ事となった。
娘の英子は寂しがったが、母親の判断に理解を示した。高い知能を持って生まれた事で、余計な問題を引き起こさずに済んだ。
結局貞光は、実家の勧めで人間の女性と結婚。跡継ぎを残しつつ、療養をしながら過ごした。そして、最後の日がやって来る。
治安元年、1021年のこと。貞光は天寿を全うし、その人生に幕を下ろした。今日はその貞光が弔われる日。葬儀が行われている。
「よろしかったのですか? イブキ殿」
京の都が見通せる場所、東山の大木の上にイブキが英子を連れて立っている。その下から、年老いた男性が見上げている。
貞光の上司だった貴族、源頼光である。貞光とそう変わらない年齢の彼も、残された時間は長くないだろう。
老体に鞭を打ってまで、イブキ達の様子を見に来たのだ。彼との仲を良く知っているからこそ、気を遣っているのだ。
「ああ。私が余計な事を教えたせいで、サダミツは全てを失った」
「……きっとそれは、あやつの望んだ結果の筈。イブキ殿の責任ではございませぬ」
貞光はきっと、イブキを責めたりしないだろう。頼光をそう伝えたいのだが、イブキが首を縦には振らない。
こうして遠くから、葬式を見守っているだけでも幸せだと考えて。それだけイブキにとって、大きな後悔となっている。
どこまでも態度を変えないイブキを見て、頼光は少しだけ羨ましいと思った。なぜならそれは、想いの大きさを示す指標でもある。
途轍もない時間を生きてきた鬼神、酒吞童子がそこまで想う相手。果たしてそんな人間が、今後生まれてくるだろうか。
そう考えただけで、貞光は幸せ者だと頼光は思う。終わりは切ない形であっても、両者の間にあった気持ちは本物だ。
「それと1つだけ、訂正させて頂きます。あやつは全てを失っておりませぬ。貴女様と、英子様が生きておられます」
「……」
「どうかそれだけは、忘れずにいてやって頂きたい」
それだけ言い残すと、頼光は下山して行った。彼の言葉に、イブキは何も言い返さなかった。何も言う事が出来なかった。
人間から見れば、そのように受け取るのか。自分に無い視点だった為、イブキは意表を突かれた。そんな風に、思ってもみなかった。
何故なら彼女は、圧倒的強者として生きてきた。自分が貞光を守る側であっても、守られる側だなんて思った事がないのだ。
イブキと英子を守った事が、貞光にとってこれ以上ない財産である。頼光から見れば、それが紛れもない真実なのだ。
「お母さま?」
「……いや、なんでもない。せめてサダミツの来世が、善きものである事を祈ろう」
人間達には見えないだろう。葬儀の最中に、貞光の魂が天へと還っていく光景が。彼は穏やかな表情で、極楽浄土へ昇っていく。
霊魂として現世に留まらず、真っ当な最後を迎えている。だが貞光の魂は、妖異ではない。遠く離れたイブキ達に気づかない。
そんな彼に向けて、イブキと英子の指先から光が放たれる。真紅の妖力が、ほんの僅かに貞光の魂へ吸い込まれて行った。
次は幸せな人生を歩めるように。ただそれだけを願った女性と、娘の想いが込められていた。もちろん人間の彼は気づけない。
こうして貞光の葬儀は終わり、イブキは英子を連れて大江山へ戻った。母娘としての生活は、これからも続いて行くから。
貞光が死んでも、イブキには母親としての役目がある。せめて、娘を立派に育てるだけでも続けねばならない。貞光に顔向け出来ない生き方は出来ない。
そう思い気持ちを切り替えて、イブキは生活を再開した。いつものように、支配者として支配圏の管理と運営を行う。
時には英子へ支配者としての生き方を、色々と教えてみたりして。貞光に伝えたように、次世代を代表する立派な妖異へ育てる。
イブキの目的だって、最初からそこにあったのだ。今更投げ出すなんて出来ないし、部下達への示しがつかなくなる。
支配者としての責任は、愛する男を失ったぐらいでは消えてなくならない。責任者として暮らす彼女の下へ、来客が姿を現す。貞光の妹、初雪だった。
「お久しぶりでございます鬼神様」
年老いて40歳を過ぎた初雪は、立派な祖母となっていた。結婚して子供を産み育て、先月に孫が産まれたばかり。
あれだけ渋っていた兄が、子供を作ったのだから言い訳できない。いい加減結婚しろと言われ、彼女も家庭を築いた。
「どうしたんだ初雪? 君はもう特使を引退しただろう?」
イブキは、初雪の来訪自体には気づいていた。今更彼女が何をしに来たのか、その理由だけは分からなかったが。
「はい、今日は特使としてではありません。1人の妹として、兄の言葉を伝えに来ました」
初雪の来訪は、貞光の葬儀から1か月ほど経った頃だった。色々と手続きなどが終わって、周囲が落ち着いたのだろう。
「……サダミツの? 今更、何を聞かせるつもりかな?」
「こちらをご覧ください」
初雪が差し出したのは、古い手紙だった。少なくとも、十年は経過しているだろう。その筆跡は、間違いなく貞光のもの。
手紙はイブキではなく、初雪へ宛てられたものだった。書かれたのは恐らく、茨木童子と対峙するよりも少し前の頃。
イブキと茨木童子の関係が悪化したまま、改善する余地が見えない事。去り際に残して行った言葉が、不穏であった事。
以上の理由から、いつか良くない未来が来るかもしれない。そうなった時、自分は全力でイブキと英子を守るだろう。
例え命を犠牲に差し出すとしても、必ずそうする。だがそれは、誰かの命令ではない。あくまで自分で選んだ未来。
「こ……れは……」
妹への説明が終わるなり、書かれていたのは愛を告げる歌。どれだけ自分がイブキを愛し、英子を大切に思っているか。
まともに女性へ向けた歌を書いた事のない男が、不器用にしたためた文章。それを送る先が妹というのが、彼らしいのかもしれない。
散々語った愛の言葉は、最後にこう締めくくられている。例え自分が死んでも、決してイブキの責任ではないという事。
どのような結末を迎えようとも、イブキを恨むなという事。そして、何よりも忘れないで欲しい事が1つあるという兄の願い。
自分の死後に、イブキが責任を感じているようなら伝えて欲しい。貴女の想うまま、自由に生きて欲しい。それでこそ、私の愛した大江イブキであると。
「こんな下手くそな歌、よくぞ妹へ送ってみせたものです。当時は恥ずかしくて、顔を覆ってしまいました。ですが、兄の想いは本物でした」
「……」
「鬼神様が葬儀に来られなかったので、今こそお伝えすべきと思い馳せ参じました」
あの日、最初から貞光は決めていたのだ。自分が居なくなった後も、イブキには自由であって欲しい。ただそれだけを願った。
自分を忘れないでくれ、なんて言葉は一言もない。捕らわれるのではなく、今まで通り生き続けて欲しい。それが彼の想いだ。
「ずるい男だ君は……だったら、自由に生きるさ。君がまた、生まれ変わるまで待ち続ける。そんな自由だって、あると思わないか? ねぇ初雪?」
今度は寿命を真っ当するその時まで、傍にいる事を誓おう。イブキは初雪の前で、そんな誓いを立てて見せた。




