第306話 最悪の記憶
大江イブキが生きて来た中で、最も最悪な記憶。思い違いから生まれてしまった、決して元に戻せない結末。
碓井貞光と出会ってから、10年ほど経った頃。彼が30歳を迎えた年に事件は起きた。茨木童子が、大江山へ襲撃を掛けた。
真っ正面から乗り込んで来て、小細工もなしに勝負を挑んだ。当然ながら、イブキは本気だと思っていなかった。
まだ拗ねているのだろうかと、真剣に取り合わない。それよりも、一緒に酒でも飲もうとイブキは誘った。
それはまだ、彼女にとって彼が弟分だったから。殺し合う覚悟なんて、まだ持っていなかった。だから——彼は本気で攻撃した。
「っ!? お前、どういうつもりだ? 冗談にしてはやりすぎだ」
イブキは困惑しながら、茨木童子の攻撃を受け止めた。よほど力を高めて来たのか、拳を掴むイブキの手に傷が出来ている。
「まだ分かっていないのか? だったら!」
茨木童子は狙いを変える。イブキに冗談ではないと示す為に。彼は少し離れた位置に居る英子を狙った。もちろん殺す気で。
「貴様! この裏切り者が!」
英子の教育係でもある星熊童子が、茨木童子の攻撃を阻止する。彼女もまた、軽傷だが怪我を負った。もう謝って済む段階を過ぎた。
星熊童子に続き、イブキの部下達が集まって来る。ここまでの無礼を見せられて、黙っているほど甘い部下達ではない。
中でも特に荒っぽい赤鬼、金熊童子が拳を鳴らしながら前に出る。彼は星熊童子に負けないぐらい、英子を溺愛していた。
「大将ぉ! もうヤツは敵だ! ここで殺すしかねぇ」
「あたしもそう思うなぁ! 茨木、見損なったよあんたには」
金熊と仲が良い女性、似たパワータイプの虎熊童子が金熊の隣に立つ。赤い鬼と真っ白い鬼が茨木童子を睨んでいる。
他の鬼達も、ただならぬ気配を纏い集まっている。茨木童子と違い、彼らは英子を歓迎していた。同時に、貞光に関しても。
イブキの娘と、その父親ならばと仲良くやっていた。もう彼らにとって、仲間として認められている。今更見捨てる選択はしない。
そもそもイブキに失礼な言葉を吐き捨て、立ち去った時点で鬼達は茨木童子を信用していない。まだ信じていたイブキを除いて。
敵対を選んだのだから、もう殆ど敵である。その上で、明確に攻撃して見せた。だったらもう、後は戦う以外に道はない。それが妖異だ。
「だ、だが……」
「大将、もうヤツは我々を仲間と思っておらん。あの目を見よ」
初老の男性に見える熊童子が、イブキに諦めろと諭す。イブキが茨木童子を可愛がっていたのは、大江山の皆が知っている事だ。
情けをかけてやりたい姉心は、誰だって理解している。だがもう、そういう段階を跳び越えてしまった。他ならぬ茨木童子自身が。
そうして始まってしまった戦い。大江山にて、鬼と鬼が戦いを繰り広げる。大江山の主、酒吞童子とその部下達。
かつて酒吞童子の右腕だった弟分。彼女達の戦いは熾烈を極め、簡単に決着がつかない。結局戦いは、三日三晩続いた。
激闘の中で、イブキの部下達が命を落として行った。途中からは、イブキと四天王以外の参戦を禁じた程に熾烈な戦いだ。
数の有利があったというのに、劣勢だったのはイブキ達の方だった。どれほど人間を喰らったのか、茨木童子は強かった。
ただイブキ達を殺して喰らう為。それだけを胸に行動した茨木童子は、イブキを上回る力を手に入れていた。恐ろしい強さだった。
人間だけではなく、掟を無視して妖異すら喰らったのかもしれない。そうでなければ、この強さは実現できない。
イブキは戦いの中で、弟分の行いを察した。禁忌を犯してまで、力を求めて行動した。それだけ、彼は憎んでいたという事。
かつての仲間を殺す事に、何のためらいも見せない茨木童子。その姿が、イブキはとても悲しかった。信じたくなかった。
「くっ……大将……申し訳、ございません……」
四天王最後の生き残り、星熊童子が茨木童子の拳を受けて致命傷を負った。灰となって消えていく星熊を見て、英子が涙を流す。
「星熊ぁ! 皆ぁ!」
戦いに参戦せず、英子を守っていた鬼達が走り寄ろうとする英子を止める。出て行ったところで、英子に出来る事はない。
四天王は全て倒され、まともに相手が出来るのはイブキのみ。しかしイブキも、無傷とは言えない。致命傷はないが、このままでは危険だ。
イブキは悩む。このまま時間を稼ぎ、貞光と英子だけでも逃がすべきかと。近江国には、同じく鬼の支配者がいる。
事情を知れば、きっと保護してくれるだろう。例え自分が死んだとしても、後継者はもう残してある。だったら——。
彼女は母親として、最後の務めを果たす覚悟を決めた。愛した男と、娘を守る為に……。茨木童子と、相打ちで構わない。
もう自分は十分に生きた。永遠に生きていたと、願っていたわけじゃない。死なないから、今まで生きて来ただけ。
生まれた時から強かったから、誰にも殺されなかった。殺されかけても、必ず勝利してきた。けれど、飽きてもいた。
不老不死とは、終わりのない生を差す。いつまでも生き続けて、死という終わりが来ない。幸せのようで、退屈な日々。
そんな日々に、わずか10年ほどだが彩があった。貞光と出会い、英子を生んで育てた。今までにない経験が出来た。
今日まで生きて来たのは、この日の為だったのかもしれない。イブキが死を覚悟の上で、戦おうとした。しかし——。
「なんだっ!? この気配はっ!?」
茨木童子が感じた事もない膨大な妖力を感じ取り、周囲を見回している。その気配は、イブキの背後から発せられている。
何が起きているのか、分からないのはイブキも同じ。慌てて背後を見れば、漆黒の輝きを目に宿す貞光が立っていた。
「なっ——サダミツっ!?」
黒いオーラを纏う彼は、もうただの碓井貞光ではなかった。イブキに似た黒く鋭い角を1本、額から生やしている。
爪は鬼のように鋭く伸びて、凄まじい妖力を放出し続けている。ただの人間に過ぎない彼が、どうしてしまったというのか。
誰もが疑問を覚える中で、イブキだけは状況を理解していた。ただの雑談として、イブキが貞光に教えた彼女の理論。
一時的でしかないが、人間が妖異へと至る方法。この状況を打開する為、貞光はずっと試していたのだ。たった1人で。
成功する保証なんてないのに、愚直に試し続けた。試行錯誤の末に、やっと体現してみせた。人間から——妖異へと至った。
「イブキ、君を死なせはしない」
貞光の目には、確かな覚悟が宿っていた。例えどのような代償を払うとしても、ここでイブキと英子を守って見せると。
彼に影響を受けたのか、愛刀が漆黒のオーラに包まれている。妙に妖力が馴染むその刀は、とある名匠が打った逸品。
世界に八振りしかない貴重な品。しかしながら、有名とは言えない名刀。のちに別の1本が、妖刀となる代物——銘は小鴉。
「よせサダミツ! その方法は邪道なんだ!」
「なんであろうと、今使えればそれで十分だっ!」
イブキは今すぐやめさせようと制止する。だが覚悟を決めていた貞光は、最初から止まる気なんてない。真っ直ぐ茨木童子へ突っ込む。
「なんだ!? 一体何なんだお前はぁっ!?」
人間だった筈の男が、突如として膨大な妖力を手に攻撃して来る。有り得ない展開に、茨木童子は思考が追いつかない。
貞光の攻撃は、猛烈だった。愛する女性と、娘を守ろうとする父親。人でなくなっても、心に宿す想いは変わらない。
「同情はする。だがっ! イブキと英子は殺させない!」
「くっ!? おのれぇ! 貴様ぁっ!?」
茨木童子の胸に、漆黒の妖力を纏わせた小鴉が吸い込まれていく。重症を与えたところで、貞光の姿が元に戻っていく。
地面に倒れていく貞光を、慌ててイブキが飛びついて支える。同時に、イブキは瀕死の茨木童子を封印する。
意識を失った貞光は目を覚ます気配がない。愛する男と封印された弟分を抱えて、イブキは一筋の涙を流した。




