第302話 亀裂
大江イブキは分からない。今起きている状況が。いきなり可愛がっていた弟分が、碓井貞光の命を狙った。
思いもよらない行動だったが、ギリギリのところで阻止された。異変に気づいたイブキが茨木童子の腕を掴んだ。
貞光の心臓を狙った一撃は、確実に殺意が込められていた。殺す気だった事は止めたイブキが一番よく分かっている。
突き出された茨木童子の右腕が、ギリギリ貞光に当たる前で止まっている。鋭い爪がもう少しで刺さるところだった。
イブキの右腕が掴んでいなければ、貞光は死んでいただろう。伸ばされた両者の右腕同士が拮抗している。
「どうした? 彼は侵入者じゃないぞ?」
俯いた茨木童子へイブキが声を掛ける。致命的なまでに、噛み合っていない。それが同時に、心の距離を示している。
イブキは彼が自分に恋心を持っているなんて、欠片も思っていない。だからこそ、勘違いをしてしまっているのだ。
貞光を侵入者か不審者と思い、殺そうとしたのだろう。喧嘩っ早い弟が誤解をしていると、ズレた発想を持った。
間違いがあるのは合っている。ただしそれは、イブキの認識の方だ。あくまで茨木童子の方は、何も勘違いしていない。
「なんでだよ……なんでこんな人間なんだ!?」
イブキとそっくりの幼い鬼の娘。知らない間に生まれた子供と、見た事のない人間の男が居る。そして、娘は人間とも似ている。
この状況で察せない程、彼は愚かな男でなかった。正確に理解したからこそ、茨木童子は貞光の存在が許せない。
どう見てもただの人間で、20年と少しぐらいしか生きていないだろう外見。確実にイブキと知り合って数年程度。
聞いていた連絡通りならば、5年も一緒に過ごしていない。茨木童子とイブキが過ごした時間は、比較にならない程長い。
ずっと一緒に居たのは自分なのに、見知らぬ人間をイブキが選んだ。その事実は、とても許容できる範囲を超えていた。
「うん? 何を言っているんだ?」
「……何って……」
好意を伝えていなかった茨木童子に非はある。だがそれにしても、察してすら貰えていなかった事実が残酷だ。
何故今、怒っているのかイブキが理解していない。ずっと好きだったのに、隣に立つのは自分だと思っていたのに。
「何で俺じゃない!? 何でこんな人間なんだっ!?」
「お、お前……」
そこまで言われて、イブキはようやく意味を理解した。弟分と思っていた相手が、自分に恋心を抱いていた。
まさか異性として見られていたなんて、思ってもみなかった。距離が近かったからこそ、気づけなかった彼の想い。
向けられていた気持ちは、全て敬意だとイブキは思っていた。他の部下達と同じで、仲間だと思っていたから。
食事目的で人間の男性を喰っても、茨木童子は何も言わなかった。嫉妬心を向けるような行動に出た事がない。
だからこんな風に、露骨な殺意を向けるなんて予想していない。まさかの行動と告白に、イブキは珍しく驚いている。
「俺はアンタにとって、なんだったんだよ!?」
感情が人間より希薄な妖異ながら、猛烈な感情を発露させている茨木童子。今までの生活で、初めて見せた姿。
あまりの剣幕に、星熊童子達も驚いている。彼女らもまた、茨木童子の気持ちに気づいていなかった。姉弟にしか見えなかった。
しかし、彼だけは違っていたのだ。ただの支配者じゃない。ただの姉代わりでもない。単なる自分の親分ではなかったのだ。
本気で恋心を燃やして、慕い続けていたのだ。密かに胸へしまった熱い想いを、ずっと温め続けてきたのだろう。
「……お前を弟のように思っていた。家族のいない私にとって、お前は家族同然だった」
「だからって! なんで!?」
どうして人間なんて選んだ。彼にしてみれば、到底納得できない相手だ。この時代はまだ、人間に対する認識が古いまま。
イブキのように考えていたのは、一部の妖異だけだった。そんな彼女の思想を、茨木童子は聞いているから知っていた。
だがそれにしても、いきなり過ぎた。知り合って間もない人間の男と、子供を作るなんて思ってもみなかったから。
同性である星熊童子などは、もしかしてと思っていた。性別の差というのも、影響したのは仕方のない話だろう。
そして認識の違いが、大きな亀裂となってしまう。イブキに裏切られたと、茨木童子は考えた。怒りの込められた目でイブキを睨む。
「俺を裏切ったな! 絶対に許さねぇ!」
茨木童子はイブキの腕を振り払い、後方へ跳んだ。攻撃的な意志を向ける茨木童子を、星熊童子達が警戒している。
理由はどうあれ、支配者であるイブキへ敵意を向けた。謀反を起こすつもりかと、責めるような視線が茨木童子に集まる。
星熊童子達から、諌めるような言葉が飛ぶ。しかし茨木童子は、強い敵意をイブキに向ける。貞光と英子も同じように睨む。
「待て茨木、こんな事で争うなんて馬鹿げている」
冷静なイブキは、弟を扱うように話し掛ける。だがその態度がまた、茨木童子の心を刺激する。どこまでも、弟扱いなのだと。
癇癪を起した弟。そうとしか見られていない。愛の告白を断られる以上に、茨木童子にとっては辛い経験となった。
「アンタにとってはこんな事でも、俺にとっては大事な想いだった!」
イブキの制止は逆効果となり、余計と関係性を悪くしてしまう。男性の扱いは上手くとも、恋する弟分の相手は下手だった。
何故なら彼女には、本物の家族が居なかったから。イブキが本物の家族を得たのは、貞光と出会ってからの事。
だから分からなかったのだ。弟分との適切な距離が。恋心を向けさせてしまう行動に、自覚なんて無かったのだ。
特別扱いだったからこそ、生まれてしまった悲しいすれ違い。しかし転がり始めた運命は、今更元に戻す事は不可能である。
「裏切った代償は、絶対に払わせる! その人間も、娘もアンタも! 全部めちゃくちゃにしてやるからなァ!」
怒りを爆発させた茨木童子だが、今勝てないのは分かっている。現状イブキに勝つのは難しい。まだ力が足りていない。
良い勝負は出来るだろうが、星熊童子達だっている。感情に任せて戦いを挑めば、惨めな結果に終わると理解している。
だから彼は、宣言だけして大江山を離れていく。弟分が初めて向けて来た剣幕に、イブキは驚いて追いかけられない。
姉弟のように生きて来た関係が、唐突に終わってしまった。きっと祝福してくれるだろうと、イブキは思っていた。
一番喜ぶのは茨木童子だろう。そう思い込んでいたのは、イブキの読み違いだった。後にも先にも、彼女が犯した最大のミス。
「イブキ、彼は、その……」
貞光は初めて会った茨木童子が、初対面とは思えなかった。同じ女性を愛した者同士、嫌というほど気持ちが分かった。
普段どうしていたなんて、貞光は知らない。見た事なんてないから、想像するしかない。それでも、十分なぐらいに伝わった。
だからこそ、あの態度を許してやって欲しいと思ったのだ。いつかすれ違いを解消して、理解し合える日が来るだろうと信じて。
家族が居ないと言っていたイブキが、家族同然に接していた相手。貞光にとっての、妹に近い者だろうと分かる。
「……分かっている。アイツは東の刺客じゃない。殺す理由はないよ」
「その、姉弟喧嘩みたいなものだろう? 私だって、初雪と何度もやったさ」
悪くなった空気を和らげようと、貞光はイブキを元気づける。これで今生の別れになるのは、あまりに勿体ないと考えて。
そもそも貞光にとっては、義理の弟に近い存在だ。いきなり命を狙われたのは問題だが、気持ちだけなら理解は示せる。
この一度だけで、悪しき相手と認識するのは早計だろうと考えた。しかし、この件はあまりに根が深すぎたのだ。
これ以降、茨木童子は西日本から姿を消してしまう。そして、再会するのは最悪の形となる。東の妖異として、敵対する道を茨木童子は選んでしまった。




