第297話 追いやられた妖狐
京の北、加佐郡の浜辺から海に出てしばらく。大江イブキと碓井貞光を乗せた龍女、豊が小さな島に辿り着いた。
夜の日本海を北上した先にある離島。遠くから見ただけならば、特に珍しくもない普通の島でしかない。
だが近くまで寄れば、ただならぬ気配が感じられる。貞光は上陸しながら、イブキや豊とそう変わらない圧を感じている。
話は聞いていたので、相手が何者であるかは把握済みだ。日本の北のある大陸、宋からやって来た強大な妖狐。
かつて実在したという傾国の美女。殷王朝時代に大陸を混乱で満たした稀代の悪女。金毛九尾——妲己。
「ふぅん……どうやら弱っているらしいけど、この気配はアイツだね」
孤島の砂浜に降り立ったイブキは、腕を組みながら何かを察したらしい。その後ろでは、一瞬の輝きと共に龍の巨体が消えた。
「やはりお主もそう思うか。どうにも弱っているようじゃ」
女性の姿に戻った豊が、イブキに歩み寄りながら呟く。龍と鬼が揃って弱っていると話す。だが貞光にはそう思えない。
林の向こうから感じる圧力は、明らかにイブキと同等のものとしか思えない。これで弱っているなら、元々はどれほどか。
考えるだけでも、貞光にとっては脅威でしかない。これが大陸の妖異なのかと、警戒を強くせざるを得ない。
「何があったのか知らないけど、本人に聞けば分かるだろうさ」
「そうじゃの」
イブキと豊が歩き出し、貞光もその後を着いていく。林の中は暗くなるので、イブキが貞光の為に鬼火を出した。
人間は夜目が多少利くとは言え、イブキや豊には遠く及ばない。明かりも無しに、暗い林の中を歩くのは危険だ。
鬼火の青い炎が、貞光の頭上を旋回しながら周囲を照らす。不思議な事に、燃え盛る鬼火は林の木々を燃やさない。
どうしてなのか、貞光が考えている内にイブキと豊が足を止めていた。浜辺から暫く歩いた位置に、洞窟の入り口があった。
「こっ、これは!?」
禍々しい威圧感と、氷のように冷たい殺気が叩きつけられた。貞光ほどの武人でなければ、意識を失っていただろう。
これほどの殺気を、貞光は向けられた経験がない。年老いた老人であれば、心臓が止まっていたかもしれないほど。
だがイブキと豊は、まるで意に介していなかった。それどころか、無遠慮に断りも入れずに足を踏み入れていく。
果たして大丈夫なのだろうかと、貞光は不安に思いながら続く。知り合いらしいイブキと豊なら、まだいいとして。
初対面かつ人間に過ぎない自分は、勝手に入って許されるのか。礼儀正しい貞光としては、どうしても気になってしまう。
「そう固くならないで良いよサダミツ。アイツに君を殺させはしない」
「いや、しかし……無礼なのは確かだろう?」
「君は真面目だねぇ。勝手に住み着いたのは向こうの方だよ?」
不当に占拠しているのは妲己の方で、こちらが気を遣う必要なんてない。イブキはそう言い切り、どんどん進んでいく。
確かにそうなのだが、それで良いのだろうかと貞光は思う。少なくとも向こうは、歓迎しているように感じられない。
相変わらず向けられている殺気に耐えつつ、貞光は歩みを進めていく。青い光が、真っ暗な洞窟を照らしている。
ゴツゴツとした岩肌は、少しだけ湿っていた。雨水でも沁み込んで来ているらしい。ジメッとした湿気が不快感を与える。
どうにも落ち着かないまま、貞光は遂に遭遇する事となった。永き時を生きる、金色に輝く体毛を持つ九尾の妖狐と。
「……やはり貴女だったのね酒吞。ふっ……私を笑いに来たのかしら?」
目を閉じたままの狐は、流暢に言葉を話した。怪我でもしたのか、瞼が開けられる事はない。
見た限りでは負傷していないように見える。しかしそれは、あくまで人間である貞光から見た結果でしかない。
イブキと豊の目には、明らかに弱っているのが分かった。全盛期と比べれば、妖力が半分ほどにまで落ちている。
九尾を保てているのは、妖狐としての誇りを失わない為か。無理矢理に維持をしているせいか、とても歪な状態となっていた。
「そんな暇に見えるか? お前じゃないんだから、ひねくれた真似はしないよ」
「じゃあ何かしら?」
弱っているというには、あまりに強気な妲己。イブキを相手にこの態度は、並みの胆力ではないと貞光は思う。
自分が弱っている立場なら、とてもこんな言動は出来ない。覇者としての威厳を感じて、貞光は言葉を挟む余裕を持てない。
「お前が勝手に住み着いたから、警告をしに来ただけだ」
「警告ですって? ここは貴女の支配圏ではないでしょうに」
「それでもだ。日本が妲己を受け入れたなんて、他地域に知られれば大問題になる。余計な火種はゴメンだね」
「そうじゃぞ女狐。そもそもこの辺りはわしの支配圏じゃ」
海の支配圏は非常に複雑だ。確保した者の自由と言えばそうだが、一応国境というべき区分はあるのだ。
豊の言うように、彼女の支配圏だという問題だってある。誰でも好き勝手に、支配圏を主張できるものでもないのだ。
色々な配慮すべき事情というものがある。特に妲己のような、戦力を大きく左右する存在は影響が尋常ではない。
とは言え、今すぐ出て行けという位置でもない。日本本土へ上陸せず、いつか立ち去るならば話は変わる。
「回復するまでの滞在は許そう。私はそこまで鬼畜ではないからね」
「あら? 随分と優しいのね」
妲己はイブキの対応を皮肉るように、クスリと笑いながら言葉を発する。まさか、こんな対応をされるとは思わなかったのだろう。
豊も少し複雑だが、イブキの対応に同調している。恩がある、という理由だけではない。もっと重要な意味合いがある。
「そうじゃない。下手にお前を喰らうようなヤツが出ても困る。さっさと回復させて、出て行ってくれ」
「……」
イブキはあくまで、より厄介な妖異が現れても困る。ただそれだけが理由で、今すぐ追い出さないというだけだ。
妲己を喰らったともなれば、相当な力を得る事が出来るだろう。もし日本を侵略するような存在が、強い力を得たら厄介だ。
そのリスクを考えれば、妲己が回復して出て行ってくれた方が無難である。どちらのリスクを取るかというだけの話。
妲己が仮に大陸で復権しようと、何をしてくるか分かる。それだけ長い年月をかけて、争いを続けて来たからだ。
元々存在していた厄介な妖異が、元に戻るぐらい大した問題ではない。悪い意味で、イブキは妲己を信用していた。
「お優しいついでに、私の移住を認めてくれないかしら?」
「嫌だ。二度も言わせるなよ、妲己を日本は受け入れない」
妲己の言葉に、イブキは心底嫌そうな表情をする。やり取りを見ていた貞光は、案外仲が良いのだろうかと思った。
「……意外と、話せる相手のようだな」
もっと邪悪で面倒な相手だと思っていた貞光は、思わず呟いていた。想像よりはまともな存在に見えたのだ。
「騙されるなサダミツ。こいつは厄介な女狐だ」
「あら? 珍しいわね。男を連れていたのが酒吞の方だったなんて」
「おい、余計な事をするな。お前には関係ないだろう」
目が見えていない妲己は、貞光の姿が見えていない。ただ人間の男性の気配だけは、最初から感じ取っていた。
ハーレムを形成したがる彼女らしい察知能力だ。貞光を探ろうと、妖力を練った妲己をイブキが阻止した。
もう良いから、出来るだけ早く出ていくようにイブキは伝えた。話はそれだけだと告げて、イブキは貞光を連れて踵を返す。
豊もその後に続き、洞窟に静寂が戻った。イブキ達が出ていく後ろ姿を、妲己は見えない目で見つめていた。
結局これから200年ほど後に、妲己は日本本土へ上陸し移住を始める。ある意味で彼女は、イブキの忠告を守った。
妲己という名を捨てて、別の存在として現れたのだ。若藻と名乗る少女の姿で。物は言いようとは、よく言ったものだ。
しかし貞光が生きている時代には、妲己が本土へ上陸する事はなかった。イブキは貞光と共に、大江山へと帰還した。
妲己と玉藻前を同一とする説における空白期間を、私なりに捏造した内容です。
このような説は実在しません。




