第295話 甘い時間
北へ向かう道中で、大江イブキと碓井貞光は休息を挟んでいる。厳密に言えば、貞光の愛馬を休ませる為だ。
鬼のイブキと同時に走るならば、貞光は馬を使うしかない。人間の足では、速度と体力に開きがあり過ぎる。
では馬を使えば対等かと言えば、そんな事はない。どんな名馬であろうとも、イブキの走る速度に及ばない。
本気で走れば、イブキの速度は自動車を超える。スポーツカーの最高速度すら軽く超えていく程の速さを誇る。
では自動車すらない平安時代ともなれば、かなり加減して貰うしかない。いっそ、貞光がイブキを後ろに乗せて走る方がマシだ。
ただ、問題がひとつだけあり、馬がイブキを怖がってしまう点だ。近くを走るぐらいなら、勇気を振り絞り走ってくれる。
だが背に乗せるとなれば、流石に恐怖心が勝ってしまう。ではどうするかと言えば、イブキの気配を抑えて貰うしかない。
妖力を抑制し、普通の人間に近づける。それでも異質な雰囲気は出るものの、馬の恐怖心はかなり抑えられる。
妖異としての膨大な力を抑えた結果、イブキの瞳は紅い輝きが失われた。艶やかな髪と同じ、黒い瞳に変わっている。
額に生えた鋭い2本の角も消えていた。今の見た目だけなら、異様に美しく背の高い女性にしか見えないだろう。
「イブキ殿、そろそろ野宿の準備を始めるが、構わないか?」
街道から少し逸れた林の近く。自然に出来たらしい小さな洞窟に陣取っている。熊や猪が、冬眠に使っていたのかもしれない。
今は生物の気配はなく、何者も使っていない様子。野宿に都合のいい場所であり、陽が落ちた中を無理に進むより、早めに休んだ方が無難だ。
次に泊めて貰えそうな、村や寺院までは距離がある。多少の危険はあるとしても、貞光とイブキが揃っているので問題ない。
頼光四天王の1人、若き天才剣士の貞光だけでも十分な戦力だ。そこに酒吞童子であるイブキまで居る。襲った方が痛い目を見る。
「いいよ。夕陽を眺めながら、酒を飲むのも悪くない」
「じゃあ、近くの川で水を汲んでくる」
馬に担がせた荷物の中から、酒の入った竹筒を取り出す貞光。竹筒をイブキに投げ渡し、貞光は水を汲みに行った。
事前に見つけておいた川で、澄んだ水を鍋に溜めていく。八割ぐらい溜まったところで、貞光は川を離れる。
洞窟の入り口に戻った貞光は、火をおこして鍋を焚火に晒す。持って来た山菜を鍋に入れ、調味料を足して煮込む。
昼間の内に立ち寄った村で入手した、塩漬けの鮎を串に刺して並べる。鍋と共に焚火で加熱し、焼きあがる時を待つ。
イブキは竹筒を掴み、酒を水のように飲んでいる。多少のアルコール程度で、イブキが酔いつぶれる事はない。
「本当にイブキ殿は酒が好きだな」
「酒はいいよ。生きる為に飲むのではなく、ただ娯楽の為に飲むものだからね。無駄に見える事も、嗜む余裕が必要さ」
「そういうものか?」
貞光が夕食を作りながら、穏やかに酒を飲むイブキを見る。人間の女性に見える今の外見は、誰が見ても美しいと思うだろう。
いつもの鬼としての姿より、親近感を抱けるだろう。普段はどうしても、酒吞童子としての威厳が表に出ている。
畏怖や神々しさ、もしくは恐怖がどうしても勝つ。その姿を見て、美しいと思える人間は貞光ぐらいだ。
少なくとも、あと千年近くは現れない。恐ろしさよりも、恋心が勝つとある少年の生きる時代まで、誰も現れなかった。
「そうだとも。寿命の短い人間こそ、余裕を持って過ごすべきだよ」
竹筒に口をつけつつ、イブキが酒を飲む。その姿は、あまりにも妖艶だ。薄く上気した頬が、彼女の艶めかしさを増す。
どうしてもその姿が、貞光は忘れられない。記憶に染みついたイブキの姿。何度も目にした、イブキの少し気を緩めた雰囲気。
最初は気づけなかったが、イブキが気を許した相手にしか見せない姿がある。それが今まさに、貞光の目の前で示されている。
「そう……か。私にはまだ分からない感覚だ」
「難しく考えなくていい。自然に身を委ねればいいのさ」
岩に腰かけていたイブキが、立ち上がって貞光の隣に座った。焚火を眺めながら、イブキは貞光に寄り掛かった。
肌を重ねるようになってから、イブキの距離は妙に近い。貞光はこれまでの関係で学んだ。これは彼女なりの甘える姿なのだと。
どうしてこんなにも、気を許してくれるのだろうか。貞光は未だに、その真意を知らないままだ。何か理由があるのだろうか。
それとも、肉体関係を持った相手になら——誰でもこうなのか。もしそれが理由なら、少し面白くないと貞光は思う。
自分だけが特別だと思うほど、自惚れてはいない。最初からイブキは、生娘ではなかった。自分が初めてではないのだろう。
「雑念が多いみたいだね? 困った男だ君は」
「……別に何も言っていな——」
全てを告げる前に、貞光の口は塞がれてしまった。思っていた事、考えていた事が全て余さずイブキへ流れていく。
吸い取られてしまった以上は、内心を隠すだけ無駄である。僅かに抱いた嫉妬心まで含めて、何もかも知られてしまう。
これだけで全てバレてしまう事が、不公平だと貞光は思ってしまう。自分は何も隠せないのに、イブキは全部把握出来る。
知りたいイブキの過去は沢山あるのに、殆どを知らないままだ。イブキの気持ちだって、何となくしか分からない。
最低限、好意的に見て貰えてはいる。だがそれが、興味本位なのか、好意なのか、愛情なのかは不明なままだ。
「ふーん。そんなに私の過去が知りたいかい? 別に大した事なんてないけどね」
「…………気には、なる」
無に包まれた心のまま、貞光は呟いた。イブキの過去と、イブキにとって自分はどういう存在だというのか。
貞光だって、1人の健全な男性である。イブキにどう思われているのか、同じ気持ちで居てくれているのか知りたい。
「そうだねぇ……妖異にとって、異性を性的に喰らうのは効率がいい。肉体を喰らう次ぐらいにね」
イブキは貞光の気持ちに応えて、何も隠さず真実を話す。少々事務的な回答だったが、意味合いは貞光に伝わった。
感情を喰らうだけに留め、殺さずに何度も喰らう。イブキが見出した、人間を上手く活用する運用方法。
それよりも古い支配圏の運用方法が、性的に喰らって殺さず再利用する方法。人間を造り出す前の話である。
「それらの行為はただの食事に過ぎない。性的な満足だとか、ましてや愛情なんてそこにはない。そんな私だけど、これだけ生きて来て、子供を作ろうと思ったのはサダミツだけだよ」
僅かに紅く輝き始めた瞳が、貞光の目を真っ直ぐ見つめている。輝きの奥には、確かな熱が込められている。
彼女が見せる女性としての艶が、貞光の意識を捕らえて離さない。もう夕食の用意どころではない。手は完全に止まっていた。
イブキの少し冷たい指が、貞光の頬をなぞる。ゾクゾクとした仄かな快感が、貞光の性欲を強く刺激していく。
言われた通り、イブキの瞳には感情が薄っすらと乗っている。普段は気怠げなイブキが、珍しく感情的になっていた。
「勘違いされたくないから言うけど、私は君が気に入っている。この世に生きるどの男よりも。私はね、野蛮な男よりも繊細な男が好きなんだ。君のようにね」
「い、イブキ殿……」
イブキの口元が貞光の耳元へ寄せられる。熱のこもった吐息と共に、綺麗な声が貞光の耳朶をくすぐる。
「そろそろさ、イブキって呼んでよ。もう何回も、肌を重ね合った仲だろう?」
あまりの妖艶さに、貞光は息を呑んだ。いつも以上の積極さと、特別な感情を滲ませたイブキは異様な色香を放っている。
「ほら、サダミツ」
「……イブキ」
夕陽が地平へ消えつつある中で、2つの影が重なる。そこからは、男と女の時間。夕食などそっちのけで、ゆっくりと時間が過ぎていく。
月が頂点に昇る頃まで、イブキと貞光はお互いを求め合った。鍋の水分は、完全に蒸発して消えていた。




