第290話 通い合う心と人間の可能性
酒吞童子が大江イブキと名乗り始め、碓井貞光が特使として活動を始めて2年が経過していた。お互いの関係は良好だ。
貞光が囮役を担い、イブキが東の妖異達を討ち取っていく。思いのほか上手く行った為、イブキはこの状況を歓迎している。
狡猾な妖異は、イブキが近づくと警戒して逃げてしまう。だがこの方法であれば、妖異が貞光を侮り逃げない。
むしろ人間から逃げるという行為が、強い妖異である程に嫌う傾向がある。余計と効果的で、実績を上げ続けていた。
イブキと貞光のコンビは、幾つもの妖異を討ち取り、撃退に成功している。全てを殺してはいない。謝罪を受け入れる場合もあった。
「うむ……悪くない出来だ」
イブキの住処である大江山の洞窟。その前で貞光が、鍋を前に料理をしている。イブキの帰りを待ちながら、夕食を作っていた。
武士として遠征をする機会が多く、現地で食事を用意せねばならない事もあった。お陰で、貞光は男性ながら料理が出来る。
複雑な調理は出来ないが、一般的な食事ぐらいは問題なし。山菜を具材にしたお吸い物、川で釣れたばかりの塩焼きにした鮎。
朝廷から献上された最高級の米を炊きつつ、お吸い物の完成を待つ。焚火に晒した鍋を、木製の菜箸でかき混ぜる。
「酒の準備もしておくか」
貞光は洞窟へ向かい、保管されている酒樽を確認する。竹筒にお酒を移し、川で汲んだ冷水に浸しておく。
山の水は非常に冷たく、冷やす目的で利用するならピッタリだ。青々と茂る木々が、夕陽に晒されて紅く染まる。
春の大江山は夜になると涼しい。人間の貞光には、焚火の温かさが心地良い。少しずつ周囲が暗くなっていく。
「帰ったか、イブキ殿」
背後を振り返る事なく、貞光は近づく存在を察知した。2年も共に居れば、イブキと確かめなくても気配で分かる。
「……サダミツ、君は何をしているんだい?」
「いやなに、普段作って貰ってばかりだからな。たまには私が料理を用意してみたのだ」
貞光の口調は以前と比べてかなり柔らかくなった。イブキと過ごす時間が、お互いの距離感を縮めていたのだ。
イブキもまた、態度が変わっている。2年という時間は、妖異であるイブキにとってほんの僅かな時間でしかない。
長い時を生きて来た彼女にとって、一瞬の出来事でしかない。しかしそれは、相対的な視点で見た場合の話だ。
2年という時間が、短縮されたわけではない。確かに彼らは、700日以上の時間を共に過ごして来た。
「相変わらず君は、変わった人間だね。妖異を相手に、普通は手料理なんて作らないよ?」
心底不思議そうな表情で、イブキは貞光を見ている。人間を生み出して700万年ほど。その間、貞光のような人間は居なかった。
イブキを鬼神と崇めるか、畏怖の対象として恐れるか。人間はそのどちらかだけだった。普通の女性と同じように扱った者はいない。
こんな風に、家族を迎えるように待っていたのは彼が初めてだ。そんな貞光の行いは、今日だけに限った話ではなかった。
いつの間にか、貞光の行動には温かな何かが含まれていた。決して、主従関係に徹していない。特別な何かが確かにある。
この関係を何と呼ぶべきか。夫婦、というには少し距離が遠い。友情と呼ぶには、距離が近すぎる。友達以上、夫婦未満だった。
「そうだろうか? 今更そんな他人行儀になる必要はないだろう?」
「まあね。確かに今更かもね」
そう言いながら、イブキは貞光の隣に腰を下ろす。今となってはこうして、並んで座るのが当たり前になっている。
数ヶ月前、久しぶりに訪れた初雪はそんな彼らを見て微笑んでいた。実に満足そうな笑顔で、貞光は少し不服だった。
決して自分達は、初雪の思うような関係ではない。貞光がどう思っていても、イブキは鬼で彼は人間でしかない。
最初から結ばれるような間柄ではないのだ。分かっているから、彼が積極的な行動に出る事はない。
異性として、惹かれている自覚はある。それでも貞光は、これで良いと思っていた。そんな彼には、まだ知らない真実があった。
「ほらイブキ殿、今夜の酒だ」
「ああ、助かるよ」
貞光がイブキの盃に酒を注ぎ、夕食へと移っていく。今となっては、同じ酒を共に飲み交わす間柄へと変わっている。
出会った当初とは、随分と違っていた。並んで食事を済まし、酒を飲み同じ洞窟で寝て、また朝日を迎える。
たまに貞光が喰われて、妖異が問題を起こせば対処する。それだけの日々だと、貞光は勝手に思っていたのだ。
しかし、今日は少し違っていた。酒を飲んだイブキが、妙に艶めかしい。普段以上の妖艶さが、どうしてか漂っていた。
「……な、なんだ? どうかしたのかイブキ殿?」
「ねぇサダミツ、今夜もいいかな?」
「あ、ああ」
唐突だったが、貞光は受け入れた。いつも通り、紅く輝く瞳が貞光を捉える。形の良い唇が、貞光のものと重なる。
貞光の感情が、イブキに喰われて消えていく。イブキの雰囲気に想起された、性的な欲求も含めて全てが貞光から消えていく。
彼が知らなかったのは、感情を喰われる事の弊害。喰われた感情は、全て喰らった妖異に把握されてしまうという事。
つまり彼が隠しているつもりの、イブキに対する想いは知られている。今抱いた性的な欲望も、当然ながら伝わっている。
「サダミツ、私が最近考えている事を聞いてくれるかな?」
「……な、何だろうか?」
まだ感情がフラットになったばかりで、貞光の視線は虚ろである。だが随分と慣れたせいか、回復はかなり早くなった。
だがそれ以上に、続く言葉が衝撃的過ぎた。まさかそんな話に発展するなんて、彼は一切考えても見なかったから。
「今の人間と妖異の間に出来た子供は、非常に強くなる可能性があるんだ。そうであるなら、子供を作ってみたい」
「は!? なんだそれは!?」
ここ100年程、観測されるようになった人間の幽霊化現象。そして、あまりに進歩が目覚ましい人間の知性と文化。
現在の進歩した人間であれば、妖異との間に子供を作れば期待値は高い。実際、成功例は既にあるという説が、雪女や人魚から漏れ聞こえている。
イブキとしては、試してみたいと思っているという。つまりは、人間の男性を相手に子供を作ろうとしているのだ。
「その相手に、君が丁度いいと思ってね」
イブキの流し目が、貞光へ向けられる。今までに彼が見て来た中で、最も妖艶な雰囲気を醸し出すイブキ。
「な、何を言う!? 子供を——私とか!?」
「嫌じゃないだろう? だって君は、私の事が好きなのだから」
イブキのしなやかな指が、貞光の顎をなぞる。フラットになった貞光の感情が、激しく揺さぶられてしまう。
一度は無に包まれた心が、あっという間に沸騰する。全てを見透かすような視線が、貞光の目を見つめている。
「い、いや、しかし……」
「今まで言っていなかったけどね、喰った相手の感情は全部伝わるんだよ?」
「んなっ!?」
イブキの腕が、貞光を丸太の上に押し倒す。貞光が幾ら鍛えていても、抵抗するのは不可能だ。元々の腕力が違う。
そもそも、抵抗しようと思えなかった。貞光がイブキを好いているのは事実。異性として、一番好きな相手はイブキだ。
しかし、それでいいのかという気持ちも貞光にはある。子供が強くなるから、そんな理由だけで関係を持つのはどうかと考える。
「その……好いてもいない男と——するというのか?」
「あれ? 言わないと分からない? 好みでもない相手と、肌を重ねるほど私は安くないよ?」
イブキが貞光の衣服を脱がしていく。再び重ねられた唇からは、感情を吸い取られていかない。単なる口づけでしかない。
月明かりの下で、イブキが衣服を脱いでいく。完璧な肉体美が、貞光の眼前に披露される。この状況で、拒絶する意思を貞光には持てない。
惚れた相手が、自分の前で裸体を晒している。流されていると分かっていても、貞光に抗える筈がない。
こうして、貞光はイブキと肉体関係を持つようになる。子供が出来るその時まで、男女としての夜を過ごす日々が始まった。




