第287話 妹から見た兄
大江山の麓、山道の入り口で2人の男女が立っている。女性の方は平均的な背丈の美しい女性だ。
16歳ぐらいの若さが残りつつも、凛々しい空気を纏う大人びた風貌。意思の強そうな瞳の持ち主だった。
彼女は一般的な服装に、旅人らしい羽織りを身に着けている。所作の美しさから、育ちの良さが出ている。
隣に立つ男性と、彼女は似ていた。細かい所作もそうだが、顔立ちからして血の繋がりを感じさせる。
20歳ぐらいの中性的な外見でありつつも、非常に背の高い男性だ。女性とは頭ひとつ分以上の身長差が開いていた。
「よいな初雪? イブキ殿に言われたから連れて来ただけだ。決して失礼がないように」
「心配しないで下さい兄上。礼儀作法ならしっかり習いましたから」
「……そう言う事では……いや、まあいい」
男性の方は碓井貞光で、女性の方は妹の初雪であった。大江イブキの要請で、2人は大江山へとやって来た。
手伝って欲しいという理由以外、これと言った事情は不明なまま。貞光としては、初雪を連れて来る気はなかった。
だが鬼神様に言われただろうと、初雪が食い下がって諦めない。仕方がないと妹の我儘を聞き入れ、こうして今に至る。
本来なら貞光は高貴な血筋の生まれで、初雪も同じ血を引く姫である。だがこの2人は、少々特別な扱いを受けている。
2人して適齢期ながら結婚しておらず、決まった相手もいない。父親に口利きをして、未婚を貫いているのだ。
もう数年は独り身だったとしても、まだ何とかなる年齢だからだろう。子供達の意思を、父親は優先している。
この時代は政略結婚が当たり前だが、恋愛が一切出来なかったわけではない。ただ現代とは随分と違うというだけだ。
女性から男性に直接接触する機会は少なく、手紙のやり取りから始まる。文通でコミュニケーションを取っていたのだ。
「それで兄上、鬼神様に送る歌はもう考えたのですか?」
ニヤニヤと笑いながら、初雪が兄の顔を覗き込む。彼女が言っているのは、和歌についての話である。
平安時代の恋愛は、まず和歌を通じた接触から始まるもの。相手への愛や興味を綴った歌を書き、文にしたためて送る。
現代の価値観で言えば、不思議な恋愛の方法だ。会った事もない女性を、自分なりに想像して愛を囁いていた。
女性は屋敷から基本的に出ず、会うとしても御簾を挟んで直接顔を合わせない。恋が成立するまで、相手の容姿は分からない。
噂話として、美しい姫がいるという情報なら得られる。だがそこまでで終わり、実際に会う事はやはり出来ないまま。
そんな少し変わった方法で、普通なら距離を縮めていく。つまり、イブキに和歌を送るのは順序がズレている。
最初に外見を知ってしまっているし、何より相手は姫ではない。恋愛の対象として、見て貰えるかも分からない。
貞光は人間で、イブキは鬼なのだ。子供を成せると言ってはいたが、貞光は真剣に受け止めてはいなかった。
揶揄われたと思っており、冗談だろうと判断している。だから彼が、イブキに愛を綴った和歌を送る理由なんてない。
そう貞光は思っているのだが、初雪の見立ては違うらしい。一体何を言っているのだと、貞光は否定する。
「なぜそんな話になる? 相手は神のような存在。我々人間とは違う」
「でも……兄上にしては珍しく、女性に興味を持っておられるではないですか」
「……女性としての興味ではない。ただの仕事上の付き合いだ」
初雪は貞光が、イブキを異性として意識していると見ている。妹として生きて来た彼女は、兄の心を理解している。
今まで美しい姫の噂があっても、貞光は興味を示さなかった。見目麗しいと噂の町娘を見ても、平常心のまま。
相手方から打診があって、文を交わして女性と会った機会は多い。しかし、そのいずれであっても結婚は成立しなかった。
貞光が自分から興味を示した女性は、現状誰1人も居ないのである。人間ではない、美しき大江山の鬼を除いて。
「そうですか? 初雪には特別な相手として、鬼神様を扱っているように見えましたが?」
「特別扱いなのは、私が特使だからだ。当然だろうに」
貞光は否定するが、イブキを忘れられないのは事実だ。圧倒的な存在感に、生物としての強さ、そして人外の美しさ。
初めて口付けをされた女性だ、という意味でも特別な相手だ。しかし貞光には、そんな話を妹の前でするつもりがない。
そもそも、異性として扱われると思っていない。イブキは途轍もない時間を生きている。自分なんて赤子と変わらない筈。
思わず見惚れる程の美しい女性でも、自分と結ばれる未来なんてない。そう理解していても、どうしても考えてしまう。
イブキは貞光にとって、あまりに理想的な相手だ。なぜならイブキは、人間の政争に巻き込まれても死ぬような女性ではない。
貞光を人質にしても、イブキは揺らがないだろう。彼を相手に、イブキが人質になる事はもっと有り得ないだろう。
イブキを捕らえるなんて、帝や朝廷でも不可能な話。例えどれだけ大規模な謀反が成功しても、人間はイブキを殺せない。
安心出来るという意味で、これ以上ない女性だと言える。自らに流れる血の問題を、気にせず共に過ごせる。
子供は残せないかもしれないが、伴侶としては最高の相手。最悪、側室を持てば子孫自体は残す事だって出来る。
平安の世は一夫多妻制が当たり前の時代だ。そのような婚姻形態を取ったとしても、誰も貞光を咎めない。
「そうは言いますが兄上、最近はやけにお勤めが楽しそうに見えましたよ? 鬼神様に会えるからでは?」
「いい加減にしないか。私とイブキ殿はそのような関係ではない」
「ふぅん……まあ、そういう事にしておきましょう」
疑う妹と、追求を避ける兄。微妙な空気を醸成しながら、2人で大江山を登っていく。もう通い慣れた貞光は、道に迷わない。
中腹辺りにあるイブキの住処、洞窟の前まで陽が落ちる前に到着した。太陽が傾き、茜色の空が広がっている。
「やあ君達、待っていたよ」
いつものように丸太に腰かけたイブキが、盃を手にお酒を楽しんでいる。立派な盃は、帝が送った特注品だ。
真っ赤な漆器に注がれた透明な液体が、紅く艶めかしい唇に消えていく。ただそれだけの動作が、尋常ではない色香を発する。
同じ女性である初雪すらも、思わず頬を赤らめる程だった。妖艶な魅力を振りまくイブキが、座るように2人へ告げた。
「今回サダミツ達に頼みたいのは、囮役なんだ」
「囮? どういう事です?」
貞光が想像していた内容と、ややズレた要請だった。初雪を参加させるぐらいだから、もう少し穏便だと思っていたのだ。
「サダミツ、君が言った事だろう? どんな手伝いでもすると」
「え、ええ。それはそうですが、もう少し詳細をご説明願いたい」
囮と言っても、どのような事をするのか。危険度が高いのであれば、初雪を帰すという選択も考慮せねばならない。
貞光の質問に対して、イブキが詳細を説明していく。近江国との境で、東の妖異を炙り出す計画があると彼女は言う。
関所の近くで待ち構え、罠に掛かった東の妖異を狩っていく。ただ防衛に回るだけでなく、攻める守りで行くつもりらしい。
その上で、貞光が丁度いい囮になるとイブキは考えた。彼女が言うには、貞光は妖異に好まれる魂の持ち主だそうだ。
血の繋がった初雪もまた、似た魂を持つという。関所の近くの村に配置すれば、入れ食いだろうとイブキは話す。
「イブキ殿、妹には少し……危険が過ぎ——」
初雪の身を案じた貞光が、妹の参加を断ろうとする。だが彼よりも早く、初雪がイブキへ返答してしまう。
「承知致しました! この初雪、謹んで鬼神様の命をお受けしとうございます」
「おい初雪!」
「良いじゃないかサダミツ。彼女はやる気みたいだ。それに、私が死なせないから安心しなよ」
やけに乗り気の初雪と、そんな彼女を好意的に捉えたイブキ。貞光の進言は、通りそうな雰囲気ではなかった。




