第286話 兄と妹
平安京の一角、立派な屋敷の廊下を歩く若い男性。この時代にしてはかなりの高い身長を持っている。
中性的な美しい顔立ちの美丈夫だ。彼の名は碓井貞光、20歳の優秀な武人である。源頼光に仕える若き天才。
それだけでなく、平安貴族としても高い地位にある。彼の父は第50代天皇、桓武天皇の一族であるからだ。
血筋としては天皇家に属する。皇位継承権こそ持たないが、貴族としてはかなり高い地位にあると言える。
彼自身は、血筋を盾に偉ぶるつもりはない。平安貴族として、武士として生きていくつもりでいる。
皇位を巡る争いを起こす気など最初からない。平和な世を願い、真っ直ぐ日々を過ごしている好青年だ。
その高潔さと、上げている実績、頼光四天王として有名な事。血筋を抜いて考えても、優秀の一言に尽きる。
彼はまだ結婚しておらず、妻になりたい姫君達は多い。彼の妻ともなれば、玉の輿は間違いなしだろう。
天皇家の血筋で、貴族としての地位も十分。おまけに見た目も美しいときた。期待を寄せて当然の相手だ。
貞光に見初められようと、必死になっている女性は多い。だが貞光は、誰の誘いにも乗っていない。
「兄上! また父上の話を蹴りましたね!」
貞光が暮らす平家の屋敷にて、年若い少女が大きな声で兄を責める。歳の頃は16歳ぐらいだろうか。
成人済みの女性だというのに、着飾るどころか武士のような格好をしている。鍛錬用の袴と上着を着ている。
手には木製の薙刀を持っており、年頃の女性とは随分と違う。顔立ちは貞光と似ており、中性的な美貌を持つ。
動き易くする為か、黒い艶のある髪を短く切り揃えている。背丈こそ平均的だが、存在感は強い。
「……初雪か。私はまだ、結婚するつもりはないよ」
面倒な相手に捕まったと言わんばかりに、困った表情を浮かべて貞光が振り返る。歩いて来た廊下に、見知った顔が立っていた。
碓井初雪、貞光と血の繋がった妹である。この時代は実名を名乗らず、公式記録以外では別名を名乗っていた時代。
例えば貞光の場合、平貞道という実名がある。妹の初雪も同様で、平初子という本名が別にある。だが兄妹であっても、普段は本名で呼ばない。
初雪は兄上と呼び、貞光は初雪と呼ぶ。それが当たり前だった。そんな兄を捕まえた妹が、未婚である事を咎める。
彼らの日常的な光景であり、お互いに慣れたやり取りでしかない。だから貞光は、いつものように流した。
「それよりお前こそどうなのだ? もう16ではないか」
「兄を差し置いて結婚する妹などいません。初雪の心配をするなら、兄上が先に結婚なさって下さい」
「まったく……私は今、仕事が忙しい。結婚しても、妻となる者が孤独を感じるだけだ」
今の貞光は、鬼神、酒吞童子の特使という立場がある。人間と妖異の関係を良好に保つ為、日々尽力する毎日である。
頻繫に大江山と都の往復しており、麓の村に滞在する機会が多い。こうして帰って来る事すらも、非常に稀な現状だ。
もし結婚したとしても、殆ど妻が放置となる未来しかない。というのは、彼にとって都合のいい言い訳なのだが。
政略結婚が当たり前のこの時代、貴族に相手を選ぶ自由などない。普通ならば、親の決めた相手と結婚するものだ。
しかし貞光は、父親の平良文が、優しい武人である事を上手く活かして回避している。正直、あまり褒められた手段ではない。
「またそんな事を言って……。どうせ好みの女性がいないという、贅沢な悩みを抱えているだけでしょうに」
「……そんな事はない。そういうお前こそどうなのだ?」
「兄が兄ですからね。妹も似ているのですよ」
話の方向性を変えようとした貞光だが、勝ち誇った表情の妹に矛先を戻された。贅沢な悩み、それは貞光だって分かっている。
ただ彼が気にしているのは、外見の問題ではない。女性の内面、生き方を気にして結婚を決めきれずに居るのだ。
貞光と結婚するという事は、皇室の血が流れる家の妻になる。戦乱が尽きない時代、それは同時に大きなリスクでもある。
もし謀反が成功すれば、一族郎党殺される危険もあるのだ。親の決めた婚姻だからと、納得できる女性がどれだけ居るだろう。
口先ではなんとでも言える。覚悟はあると、その時は言うだろう。だがその言葉は、高い確率で言わされた言葉でしかない。
良き婚姻を結ぶ為、女性達は親から厳しく躾けられる。貴族の妻として、相応しくあるように教育を受けて育つ。
だから多くの貴族女性は、貞光の前で理想的な回答をする。そう答えるように、強制されているのだから当然だろう。
その言動はきっと正しい。この戦乱の時代を、貴族として生きる上で必要な回答。何も間違ってはいない。
しかしそれは、貞光の望む答えではないのだ。もっと自分の意思を見せて欲しい。強制されていない言葉を訊きたかった。
現状、彼の望む回答は得られていない。父親に紹介された女性は、誰もが模範的な回答しか口にしなかった。
「大体、兄上の望むような女性なんてどこにも——」
初雪がそこまで口にした時、彼らが歩く廊下の近く。綺麗に手入れがされた庭に、降り立つ影があった。
普段より抑えられているものの、分かる者には伝わる強者の気配。単なる人間には出せない圧倒的な威厳。
「見つけたよサダミツ、ちょっと用があるんだけど」
旅人のような羽織りを被った長身の女性。腰まである長い黒髪を、後頭部でひと纏めにしている。
陶器のように白い肌と、人形のように完成された目鼻立ち。人間と違い、化粧を必要としない完璧な美貌。
それもその筈、彼女は瞳が紅く輝き、額からかぎ爪のような鋭利な角が2本生えている。人間ではなく、鬼であると見れば分かる。
人間ではないと分かっていても、あまりの美しさに目を奪われる。初めて会った同性の初雪だって、思わず見惚れた程だ。
「イブキ殿!? どうしてここに!?」
「だから、サダミツに用があるんだよ。ちょっと着いて来て欲しいんだけど?」
「そ、それは構わないが。今すぐだろうか?」
突然やって来た大江イブキが、貞光を連れ出そうとする。そのやり取りは、彼らにとって至極当然の会話。
ここ最近、一緒に過ごす時間が増えて互いに慣れて来た結果。特に深い意味はなく、ただ普段通りに振る舞っただけ。
しかし、親族から見た景色は全く違う。とりわけ、血を分けた兄妹にとっては大きな意味を持つ光景だった。
「失礼いたします。私は貞光の妹、初雪と申します」
「うん? 彼女は君の妹なのかい?」
会話に割って入り、素早く頭を垂れる初雪。相手が何者であるのか、すぐに察したのだろう。聡い女性のようだ。
跪いて自己紹介を始めた妹に、どう反応するべきか悩む貞光。対処としては、何も間違っていない。相手は格上なのだから。
鬼神とまで称された、神に等しき大江山の象徴。酒吞童子の名を知らぬ者は、この都には誰1人として存在しない。
兄が現在行っている仕事を知っていれば、イブキの正体に思い至るのは当然の事。そこまでは何も不自然ではなかった。
ただ貞光は、嫌な予感がしている。したたかな妹が、何か余計な事を考えているのではないか。そんな予感がしているのだ。
「え、ええまあ」
妹の行動に困惑している貞光をよそに、初雪はつらつらとイブキへ語りかける。兄に割って入る隙を与えない。
「私も妹として、鬼神様に仕える準備は出来ております。何なりとご用命を」
「うーん、そっか。まあ、清い魂の持ち主が1人より2人か……よし、君にも来て貰おう」
いきなり何を言い出すのかと、貞光は混乱している。だがイブキと初雪は、何やら分かり合った様子。話がどんどん進んで行く。
いつの間にか、貞光と初雪が共にイブキの手伝いをする事が決まった。貞光は頭を抱え、初雪は誇らしげに笑っている。
貞光が何を困っているのか理解できないイブキは、今後の予定を伝えると、跳躍してどこかへ消えて行った。




