第225話 懐かしい生活
夕日が傾いた若藻村へ、秋の風が吹いている。ボロボロになるまで、厳しい鍛錬をした少年の熱を下げていく。
汗だくなんて通り過ぎ、土にまみれ細かい傷が無数にある。碓氷雅樹が仰向けの状態で、山中に倒れている。
帰郷してから3日、連日様々なシチュエーションで戦った。本日は山の中で、複数の敵に囲まれたという想定だ。
那須草子の配下達が、雅樹を容赦なく追い立てた。彼は必死で逃げ回り、どうにか生き延びている。
以前に岡山県で、鬼達から追いかけられた経験が活きた。あの時よりは少し、マシな逃走劇が出来た。
「よく頑張ったわね」
優しい表情で、草子が雅樹に膝を貸す。師として厳しく接する時と、女性として雅樹を大事に扱う時は違う。
昔からこうであり、何度も同じように過ごして来た。ここまで厳しいのは、今回が初めてだったのだが。
細かい傷を妖術で癒す草子は、瞳に金色の光を宿している。美しい金髪と同じ輝きが、穏やかな温かみを放つ。
普段通り剣道着姿の草子が、雅樹の頭を優しく撫でる。肩口で切り揃えられた金髪が、風に揺られてサラサラと流れる。
草子が何気なく左手で、髪をかきあげる。その仕草があまりに魅力的で、雅樹は不意を突かれてしまった。
「どうかした?」
「……いや、別に」
見惚れていたとは、恥ずかしくて言えなかった。雅樹は正直な感想を隠す。バレていないと、彼は思っている。
夕日の紅い光が、紅潮した頬を隠せたと思った。しかし、百戦錬磨の草子を相手に、小細工なんて通用しない。
見抜いた草子が、微笑みながら雅樹の頬を撫でる。全てを出し切り疲れ果てた雅樹を、慈しむ戦女神のような姿だ。
いつもこうして、鍛錬の後は優しかった。だからこそ雅樹は、草子の事が好きだった。今もまた、惹かれている。
美しい女性だと、今も変わらず思っている。故郷だからこそ、余計と様々な思い出が雅樹の脳内を巡っていく。
幼い頃に竹刀を振る草子に憧れ、今日まで自らを鍛えて来た。その過程で、色々な経験を積ませて貰えた。
単純に剣道としての教えだけでなく、女性との接し方や言葉遣い。料理も少しだけ、教えて貰っている。
草子との関係は、剣の師匠というだけに収まらない。彼女に裏の顔があったと知っても、思い出は色褪せなかった。
初恋の女性として、変わらず大切に思っている。今も結婚したいかは、少々勢いを失ってしまっているが。
何せ前提が大きく変わってしまった。共に老いていく事は出来ない。同じ墓に入る事は、まず有り得ない。
幼き日の雅樹が思い描いた未来は、あくまで草子が人間だった場合だ。一緒に歳を重ねて、最後は老夫婦として終わる。
そんな未来は、絶対にやってこない。雅樹だけが老いていき、草子達を残して死んでいく。自分だけが、寿命で死ぬ。
寿命の違いは、大江イブキや永野梓美達も同じだ。彼女達もまた、老化していく事はない。彼女達は――人間ではない。
妖異と人間は違う生き物だ。近い性質を持っているので、子を成す事は出来る。結婚する事だって、相手が承諾するなら可能だ。
実際に雅樹は、複数の女性から結婚を迫られている。その中には、草子も含まれている。今となっては、少し複雑な気分だ。
「今は私が、まー君を独占出来る。昔みたいに」
「せ、先生?」
治療を続けながら、妖艶なオーラを発する草子。初恋の相手という事もあり、どうしても強く意識させられる雅樹。
憧れのお姉さんが、意味有り気な視線を送って来る。男子高校生としては、たまらないシチュエーションだろう。
例え相手が人間ではなくとも、別に構わない。むしろその方が、ご褒美だと考える男子も少なくない。
もちろん雅樹だって、嬉しいとは思う。喜ばない理由がない。ただ同時に、悩みでもある。本当に良いのか、という迷いだ。
魅力的な妖異の女性達に囲まれている。それはとても光栄な事だし、感謝もしている。喰われるのは複雑だけれども。
人外の存在でも、ただの化物として見ていない。だからこそ、どうしても悩んでしまう。自分が選んでいいのかと。
現状雅樹が誰を選ぶのか、という選択肢を提示されている。イブキだけは、あまり態度をハッキリさせていないだけ。
イブキの冗談なのか、本気なのか雅樹には分からない。その点を加味しても、自分が選ぶ側でいいのだろうか。
こんなにも魅力的な女性達を、ただの人間に過ぎない自分が選ぶのか。どうしても、恐れ多いと思ってしまう。
自分が選ばなくても、彼女達は圧倒的強者だ。選ぶのは相手の方じゃないのか、という思いがどうしても消えない。
「今日も良い表情をしていたわ。私の好きな、貴方の表情よ」
「あ、ありがとう……」
「ふふ。今日は好きなだけ頂くわ」
雅樹が悩んでいる間に、怪しく微笑んだ草子が彼を喰らう。回復中の今、精気まで喰らう強引さは見せない。
感情だけを吸い上げて、雅樹からエネルギーを摂取する。悩みごと全て吸われてしまい、雅樹の心は凪いでいく。
考えていた事が脳内から消え、虚無が訪れる。何も考える事なく、ただ草子の色香を享受し続ける雅樹。
傾国の美女と呼ばれるだけあり、強烈な魅力を草子が放っている。雅樹は気づかない内に、人間の女性が恋愛対象から消えている。
その事実を、雅樹はまだ自覚出来ていない。いつも恋愛で悩む時は、妖異の女性達についてばかりだというのに。
「やはり貴方は格別ね。こんなの、他の男性では得られないもの」
「……」
草子は近づけていた頭を、雅樹の頭部から離す。恍惚の表情を浮かべる草子が、ペロリと舌で唇を舐める。
捕食者としての素顔が、表出している。瞳の輝きが、より色濃く染まった。妖異としての姿も、非常に美しい。
虚無を抱えている今の雅樹は、あまり影響を受けていない。しかし、記憶にはしっかりと刻まれる。
唇が触れあう感触、草子から漂う香り、柔らかな太股、吸い付くような草子の素肌。全て脳が覚えていく。
イブキや梓美の時も同様だ。しかし皆それぞれ、感じる事は違っている。似ているようで、何もかもが違う。
「私を選べば、もう悩む必要はなくなるわよ? あの小娘も、放置したっていい。このまま村で、暮らす道もあるわ」
「……」
草子が告げた言葉は、立ち止まるなら今だという忠告。雅樹が望むなら、幾らでも鍛えるし手伝う。
そうは言っても、他に道は残されている。厄介事から目を背けて、昔の生活に戻る。難しい事は、イブキや草子に任せる。
そうすれば、危険な事をしなくていい。雅樹がこれ以上、自分を鍛える必要はなくなる。安全で、安定した日々だ。
本来ただの学生に過ぎず、黒澤会なんて存在とは無関係でいい。無理に立ち向かう責任は、雅樹の肩に乗っていない。それでも――
「先生に逃げたくない。逃げる理由に、先生を使いたくない。そんな事、絶対にやらない」
回復した雅樹が、ゆっくりと立ち上がる。甘える時間は、もう終わりだというかのように。雅樹の目には、決意がこもっている。
「……そう。本当なら、ここに居て欲しいのだけれどね。だけど貴方が戦うなら、私は手伝うだけよ」
「お願い先生、俺はもっと強くなりたい」
地面に座っている草子へ、雅樹が手を差し伸べる。回復した以上は、次の鍛錬を始めよう。雅樹はそう態度で示す。
覚悟を雅樹が示した以上、野暮な戯言を草子は口にしない。何故なら彼女は、雅樹の事を愛し続けて来たから。
沢山集めた人間の男性達。魅力的な人間を収集し、自分好みの遺伝子をかき集めた。その中でも、雅樹は特別な存在だ。
妖異を相手に戦おうとする意思を持てる。強者に媚びるのではなく、自分の生き方を貫こうとする。草子の暗示を、跳ね除けてみせた。
若藻村での安定した生活を望まず、外の世界へ飛び出した。きっとこの少年は、ただの少年で終わらないだろう。
草子の弟子であり、愛する男でもある雅樹をそう評価している。雅樹の手を取り、草子が立ちあがる。今日の鍛錬はまだ終わらない。
「さあ、始めましょうか。鍛錬の続きを」
「うん!」
雅樹が落ちていた小鴉を拾い、再び正眼に構える。闘志を激しく燃やし、妖異達との戦いを続ける。
結局日付が変わるまで、鍛錬は続けられた。その翌朝、長野県から招待状が届く。豊蔵王我からの、宴会の誘いだ。




