第223話 梓美の母親
長野県にある姥捨山とも呼ばれている山。太陽の光が降り注ぐ冠着山の山頂付近に建っている山荘で、美しい女性が囚われている。
見た目だけなら、30代ぐらいに見える。雪のように白い肌は、シミや皺が全くない。指の先まで、瑞々しい。
艶のある黒い髪を、後頭部で結い上げている。華やかな簪が差されており、和のテイストを感じさせる。
大人の女性らしい魅力を放つうなじ。綺麗なラインを描く輪郭。目鼻立ちの整った美しい顔立ち。
その外見は、永野梓美と少し似ている。普段から派手な梓美と違い、慎ましい深窓の令嬢を思わせる出で立ち。
真っ白な蓮華の花が舞う、質の良い和服を着ている。高級感のある絹で作られた、汚れのない足袋。
漆塗りの黒く輝くシンプルな下駄。彼女が名家のお嬢様と言われても、違和感を抱く者はいないだろう。
この女性は永野泉。梓美の母親であり、純粋な妖異として生まれた古参の雪女だ。彼女は数万年の時を生きている。
大江イブキや那須草子ほど、長く生きていないが十分な力を持つ。支配者として君臨していても、何らおかしくはない。
彼女は支配者となる事に、興味が無かっただけだ。実力や知識、思慮深さにおいてもマイナス点はなかった。
そんな泉でも、今回捕まってしまった。圧力を掛けて来た相手が、彼女よりも強い妖異だったからだ。
梓美に対する牽制として、軟禁状態となっている。今では梓美も泉にとって、人質のような状況だ。
泉が何かをしようとすれば、梓美の命を盾にされてしまう。逆の場合もまた然り。お互いが身動きを取れない。
再開する事も許されず、一方的に囚われの身となった。ただ家族の無事を願いながら、言われるがまま従うしかなかった。
窓の外に広がる大自然を、見つめるだけの泉。憂いを帯びた眼差しは、男性を刺激するには十分過ぎる魅力がこもっている。
「梓美……」
娘の無事を願いながら、泉は木製の椅子に座っている。用意された山荘は、粛清された東京の資産家が所有していた別荘だ。
黒澤会の関係者で、こうして泉の軟禁に使用されている。調度品の類はどれも高級品で、庶民には買えない代物ばかり。
本来ならモダンな雰囲気を楽しみながら、休暇を満喫する為の空間だ。しかし泉には、楽しむ余裕なんて残されていない。
まさか自分が、こんな形で利用されてしまうとは。想像もしていなかった事態に、振り回される事しか出来ずにいる。
こんな人間が使うような卑怯な手口を、新しい支配者が行うなんて。今更言っても仕方がない事だが、後悔せずにはいられない。
「捕まってしまえば、大人しいものですね」
泉が軟禁されている部屋に、1人の人間が入って来た。黒澤会にて、仲路と呼ばれているあの男だ。
20代か30代の、黒いマスクをつけた若い男性。紺色のスーツに、紅いネクタイをしっかりと締めている。
いつも通りジェルで固められたツーブロックの黒髪。高級感のある革靴が、カーペットの上を踏みしめる。
胡散臭く見えるのは、口先だけのコンサルタントを思わせるからか。独特の雰囲気を、今日も放っていた。
「お前……」
「おっと。私に手を出せば、どうなるかお分かりですよね?」
仲路を睨みながら、泉から強烈な冷気が放たれる。室内の温度が、業務用の巨大な冷蔵庫並みに冷えていく。
しかしこの男を殺せば、梓美の身に危険が迫る。それ以上の事が、泉には出来ない。凍死させても同じ事だ。
渋々ながら泉は、冷気を抑えて睨むだけに留める。目の前にいる人間ぐらい、泉なら簡単に殺せてしまう。
実力の差は、天と地ほどに開いている。泉にとって、仲路などゾウがアリを踏み潰すようなものでしかない。
だが、気を遣わねばならない。何とも厄介な相手だ。面倒な事態を招いた、この男を見逃さねばならない。
「私達にも、プライドぐらいはありますから。酒吞童子に、多少の意趣返しはさせて貰いますとも」
「だから梓美を使ったと? 弱くて卑怯な現代の人間らしい考えだわ」
吐き捨てるように、泉は言葉を紡ぐ。かつて彼女が愛した男性は、勇猛果敢で真っ直ぐな戦士だった。
現代人とは比べるまでもなく、輝かしい生き様を見せていた。抗う事を辞めてしまった、今の人間とは全く別物。
工場生産の量産品しか作れず、魂のこもった刀を打てる者は僅かだ。妖異に抵抗しようなんて、強い意思もない。
それが今の泉から見た、現代を生きる人間への評価だ。彼女は今の人間に、失望しているのだ。以前とは変わってしまったと。
「その人間に、貴女は何も出来ない。現代人は知能で戦います。武器を振り回すなど、野蛮人のやる事です」
「……」
事実、泉は仲路に何も出来ない。言われた通りで、言い返す言葉が見つからない。娘を助ける手段もない。
泉は詳細を知らされていないが、彼らがイブキと対立している事は分かった。分かったところで、何も出来ないが。
むしろ余計な迷惑をかけてしまったらしい。娘を迎え入れてくれただけでも、恩義があるというのに。
だから泉は、仕送りを続けていた。人間の農家を装って、作物を送り続けた。自らの妖力を込めた野菜を。
イブキの家で使用されている野菜は、そうした経緯で入手されたもの。碓氷雅樹の知らない裏事情があったのだ。
「そう睨まないで下さいよ。貴女のような美しい女性が、眉に皺を寄せていては勿体ない」
「……お前のような男に、褒められても嬉しくありません」
慇懃無礼な態度を崩さない仲路と、睨み続ける泉。何を言われようが、決して態度を改めない。泉はスタンスを変えない。
背後にいる妖異が強いだけで、目の前の男は雑魚もいいところ。恭しくする理由が、泉の側にはないのだから。
そんな泉を、嘲笑うように仲路が報告する。これから起こる事、梓美に降りかかる悲劇の未来について。
「1週間後に、王我様主催の宴会が行われます。他の支配者達も招いて、盛大なパーティーです。そこで、貴女の娘を妻とする」
「あのような愚鈍な男に、梓美をやるつもりはありません!」
「これは決定事項ですから。貴女の許可を得に来たのではありません」
飄々と泉の怒気を躱し、仲路は話を進めていく。泉にとっては、どれも受け入れられない話ばかりだ。
彼女は豊蔵王我を、支配者として認めていない。不正を働いた可能性を疑っているのだ。しかし、証拠はどこにもない。
本来なら勝利する筈だった、鬼熊という妖異が居る。熊が妖異へと進化した存在で、非常に強い力を持つ若い妖異だ。
将来有望と見られていたが、どうしてか敗北した。公の場で敗北したため、決定を覆す事は出来ない。
泉のように考えている妖異は他にもいるが、誰も不正の証拠を持たない。結果として、受け入れるしかなかった。
「彼は我々に賛同している。実にいい支配者ですね。貴女の娘も、きっと良き子を産むでしょう」
「……この下衆どもめ」
妖異は人間と比べて、感情が薄い生き物だ。それでも、怒りの感情ぐらいある。心を持たないという意味ではない。
人間の親子に比べれば、情はそう深くない。だが、何も思わないほど薄情でもない。娘の将来を嘆く心ぐらいある。
どうせ夫婦となるなら、望んだ相手と幸せになって欲しい。今回のように、無理矢理相手を決められるなど御免だ。
「もう予定通り進んでおりますから。貴女はここで、大人しくしておいて下さい」
「くっ……」
仲路が満足そうに部屋を出ていく。廊下では、監視役の妖異達が並んでいた。泉には、どうする事も出来ない。
娘を助けようにも、自分は下手に動けない。支配者の王我に、すぐバレてしまう。悔しそうに泉は拳を握る。
ぶつけ先のないフラストレーションだけが、溜まっていく日々。どうして、こうなってしまったのか。
彼女が半月前に捕まって以来、ずっとこんな生活が続いている。解決する方法が、泉には見出せない。
今日も泉は、窓の外を見ながら梓美の平穏を思う。誰かが助けてくれないか。そんな願いが、浮かんでは消えて行く。




