第218話 梓美と愛宕
碓氷雅樹が永野梓美の不在に気づく日の3日前。人々が眠りについた頃、日付が変わる少し前。
梓美は月明かりの下を走っていた。遅い時間の移動であれば、彼女のような存在は、走った方が移動は速い。
数千年生きた上位に位置する妖異であれば、車などの乗り物以上にスピードが出せる。ただ無心で、梓美は走る。
脅迫状を受け取ってから、梓美は悩んだ。黙っていなくなるべきか。それとも、大江イブキや顔なじみには話ておくべきか。
雅樹へ打ち明ける選択は、どうしても出来なかった。彼の目の前で、他の男性と婚姻関係を結ぶとは、言いたくなかった。
(仕方ないねん、ウチにはこうするしかない)
梓美は人間の男性と、雪女の間に生まれた妖異だ。当時はまだ、人間の価値が今より低く、侮られていた。
幽霊化現象も確認されておらず、文明の発展も僅かであった。現代のように、高度な文明とは程遠い社会。
石や木で作った道具が中心で、銅製の道具が貴重だった時代。その頃は、人間と子を成すなんて、バカにされていた。
妖異として、大成しないと思われていた。恥ずべき存在とされ、迫害の対象とされていた。故に梓美の母は、ひっそりと梓美を育てた。
人里に降り、人間の女性と偽って農村で暮らす日々。父親だけは、妻と娘が人間でないと知っていた。
(お母さん、無事で居てや)
梓美の父には、現代のような名前はない。当時はその集団を示す氏を、氏族の名前、今でいう苗字として使用していた。
特別な地位にある人物であれば、何かしらの名を持っていた時代。彼女の父は、海人族と呼ばれている古代の部族。
高い技術と戦闘力を持って居た者達が、今で言う長野県安曇野市へ移住した、安曇族の武人であった。
安曇比羅夫という優秀な将として活躍していた。忙しい彼は、あまり家には立ち寄らない。だが立ち寄った際は、とても優しかった。
戦場に立てば勇猛果敢で、帰宅すれば優しい父親。それが梓美の記憶に残っている父親の姿だった。
梓美がこの名を使用している理由には、そう言った歴史的背景があるのだ。生まれた土地の名、氏族の名。
父親への敬意と、現在でも氏族としての誇りを持っている。亡くなった今でも、人間だからと侮った事はない。
そんな彼女の母親である泉は、安曇族ではない。あくまで純粋な妖異として生まれた。それでも、愛した男を忘れていない。
だから安曇と近い音の名を名乗り、今もそのままにしている。母と娘、どちらも家族として彼を尊敬している。
しかし彼の死後、梓美の家族は泉しかいない。泉からしてもそうだ。唯一の家族と共に、隠れて暮らしていた。
(……すいません、イブキ様)
人間が侮られていた時代が終わり、対等に戦う者達が現れ始める。人の歴史で言えば、平安時代に入った辺りだ。
彼等の作った刀が、妖異を傷付けるようになっていく。強い念の籠った武器が、妖異の肌を切り裂いた。
この頃から、人間の幽霊化現象が観測され始める。妖異から見た人間の立ち位置が、瞬く間に変わっていく。
人間達からすれば、100年以上の時を要した。だが妖異から見れば、あっという間。急激な変化が訪れていった。
そうした変化がある中で、まだ酒吞童子と名乗っていた頃のイブキの、とある噂が妖異達の間で広まっていく。
彼女が人間との間に、子供を作った。堂々と隠す気もなく、育てているというのだ。しかし当時はまだ、偏見が残っていた。
梓美と泉は、隠れて生活を続けていた。そんな中で、舞い込んで来たイブキの噂。泉はそこで、ある決断を下した。
酒吞童子であれば、梓美を迫害しないのではないか。京の都でなら、隠れて生きる必要がないのではないか。
泉は梓美を連れて、密かに平安京へ移動する。イブキとどうにかコンタクトを取り、梓美を預かって貰うよう願った。
既に人間と妖異の間に生まれた子が、より優秀になる可能性を見出していたイブキは、事情を聞いて承諾する。
(恩を返しきれへんまま、こうなってもうたか……)
今となっては、人間と妖異の間に生まれた妖異が、侮られる事はあまり無い。妖異全体の認識が変わってしまった。
だが妖異の長い歴史の中で、迫害された者達が居た。隠れて暮らさねばならない者達が、世界中のどこかで生活していた。
梓美は引取って部下として迎え入れてくれたイブキへ、強い感謝の念を持ち続けている。京の都では、梓美が堂々と生活出来た。
乾英子の世話も手伝いながら、恩返しを兼ねて働いて来た。たった千年に満たない期間で、恩を返せたと梓美は思っていない。
だが今は、どうする事も出来ない。母親を見捨てるわけにも行かない。同時に、身内思いのイブキへ迷惑を掛けられない。
(でもアレや、裏切れと言われんかっただけマシやな)
興味もない、会った事もない、良く分からない相手と結婚する。一切嬉しくはないが、イブキを裏切るより良い。
京都で暴れろだとか、イブキの動きを密告し続けろだとか。その手の脅迫だったなら、もっと悩まねばならない。
イブキを取るのか、母親を取るのか。人間と妖異の間に生まれた梓美は、妖異よりも感情が豊かだ。情もその分深い。
どちらかを選べと言われれば、梓美は苦しみ続けただろう。そんな方針を取られる前に、イブキの下を離れた。
だからこれで良いのだと、梓美は無理矢理自分へ言い聞かせている。愛した少年を、思い浮かべないようにしている。
「梓美、貴女、どういうつもりです?」
「……なんや、愛宕か」
高速で京都府内を駆ける梓美を、呼び止めた女性がいる。花柄の和服を着た、美人で清楚な空気を纏う鬼。
イブキとは違い、一条愛宕の角は1本だけ。額の真ん中から、真っ白な鋭い角が生えている。目が青く輝いているのは、必死で追いかけて来たからだろう。
愛宕は妖異の中でも、非常に高い実力を持つ鬼だ。種族的には、雪女よりも上である。出発が遅れても、梓美に追い着ける。
全体的な実力そう変わらないが、肉体的な性能だけで見れば梓美を上回る。走る速度は愛宕の方が、抜きんでている。
「質問に答えて下さる? 貴女、雅樹様に残酷な事を強いるのね。自分から勝手に、あの方から離れる癖に」
「……」
愛宕も事情は分かっている。純粋な鬼である愛宕は、梓美ほどの家族愛を持たない。それでも、身内が大切なのは理解出来る。
それ自体は、否定するつもりがない。愛宕だって、イブキを盾にされたら同じ判断を下す。だが、雅樹については別問題だ。
ただ雅樹には、忘れて欲しくなかった。本気で愛した少年と、共に居る事が出来なくなる。ならせめて、記憶の中に残りたい。
感傷と執着心、そして愛情が込められた置き土産。雅樹の中では、梓美先輩のままで居たい。彼女なりの、最後の希望。
しかしそれは、梓美の事情でしかない。気持ちは理解出来るが、愛宕としては気に食わない。雅樹を巡って、張り合った間柄だから。
「ウチだって、何でこうしたんか分からんねん! 絶対忘れて貰った方が、雅樹君の為やて分かってる!」
自分の望みが、都合の良いものでしかない。一方的に押し付けた、雅樹への自らの残り香。こんなもの、無い方がいいと梓美は自覚している。
だが、どうしても願ってしまった。気がつけば、イブキへと頼んでいた。自分の口が、止まってくれなかった。
心情を吐露する梓美へ、愛宕の腕が伸びる。それは、優しさの込められた動きではない。素早く振り抜かれた、平手打ちだった。
「本気だというなら、最後まで足掻きなさい。貴女だって、妖異でしょう。何を勝手に諦めているのです」
「しゃーないんや! ウチにはこうするしかないんや! もう放っといて!」
鬼である愛宕には、梓美の心情を全て理解出来ない。走り去る梓美を、愛宕は眺めるだけ。説得に来たつもりが、失敗した。
どうして助けてと、手伝って欲しいと、頼まないのか。イブキや愛宕には、分からない気持ちだ。純粋な妖異と、人の親を持つ梓美。
微妙な心のズレが、明確になった出来事だ。そして、走る梓美は知らなかった。彼女の愛した少年は、梓美の為に――体を張れる男だった事を。




